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つぎに住む街のこと。2

生物は帰りたい場所へ渡る。自分に適した場所。自分を迎えてくれる場所。自分が根を下ろせるかもしれない場所。本来自分が属しているはずの場所。還っていける場所。たとえそこが、今生では行ったはずのない場所であっても。

梨木香歩『渡りの足跡』

 十二月の初めに、部屋さがしのため松本を訪れた。引っ越すなら一月だと、あらかじめ決めていた。不動産屋の繁忙期を避けたかったのと、長野の寒さをまず体感してみたかったからだ。
 五回ほど引っ越しの経験があるため、優先項目はあるていど固まっていた。バストイレ別、八畳以上、角部屋、そして日あたりの良さ。せっかく松本に住むのだから、山が見える部屋だったら嬉しいなと思ったけれど、考えすぎるのもよくないな、とも思った。事前にいくら想像しても、実際にその部屋に足を踏み入れた瞬間にしかわからないことがたくさんある。空気のうごきかたや、窓からみえる樹々のゆれかた、ほんのささやかな場所に施された意匠の美しさ。なにが最後の決め手になるのか、自分でもいつもわからない。
 今回は二泊三日の予定だった。二週間ほど前から現地の不動産屋さんとやりとりして、段取りを決めていた。初日になるだけスマートに内見を済ませて二日目の午前中には部屋を決め、のこりの時間はゆったり観光でもしようと考えていた。滋賀から名古屋へ電車で向かい、高速バスに乗り換える。松本に着いたのは午後一時過ぎだった。空気が硬く、段違いにつめたくて、無性にうれしくなる。
 さっそく不動産屋に向かい、その足でいくつか内見する。最後に見せてもらった高台に位置する広めの部屋を見て、ここだ、と直感した。すこし予算オーバーだったものの、陽ざしの入りかたや眺望がとても気に入り、わくわくした。翌日もういちど内見し、ここにします、と言いかけたとき、裏の駐輪場へ至る道が狭すぎて、原付が通れないことに気づいた。車をもっていない私にとって原付は日々の生命線で、だからこの部屋は諦めるほかない。
 ものすごくショックだった。ここであたらしい生活を始めよう、と一度は心を決めたのに。ふらつきながら店を辞し、どうしよう、早く決めなければ、時間がないのに、と焦りながら別の不動産屋に飛びこんだ。
 三日目の夕方の時点でも、部屋はまだ決まっていなかった。内見をつづけ、候補の部屋もいくつか見つけたけれど、なぜか最後の踏ん切りがつかない。ほんとうにこの家賃でやっていけるのか。そもそも仕事もまだ決まっていないのに。夜間の仕事を終えて帰ってくるとき、道が凍結していて走れないのではないか。なら市街地で探し直した方がいいんじゃないのか。でもここ以上の物件があらたに見つかるとは限らない。
 思っていたとおりに予定が進まなかった悲しさと焦燥で、頭の奥が痛くなってくる。いったん保留にして滋賀に戻り、それからの数日間、悩みに悩んだ。目をつぶって飛びこむように移住するのか。それともいちど諦めて、もうしばらく実家で暮らしつづけるのか。
 考えすぎだ、と思う。どこでもいいからとにかく部屋を決めて、実際に住みはじめて、初めてわかることもあるだろう。頭ではそう理解しているものの、どうしても怖くて、決心がつかない。最後には涙まで出てきて、自分に呆れた。しあわせになるための移住なのに、こんなところで悲しい気持ちになってどうする。
 ここ数年、退職や婚約破棄や、とにかくいろんなことがあった。あるとき、毎週なんとなく目を通しているしいたけ占いに「ひとり遷宮」というワードを見つけて、これだと思った。ここで区切りをつけて環境を変え、好きなものに囲まれて、好きなように暮らしたいと思った。自分の生活をもういちど、つくりなおしたい。
 もう失敗したくない。お金も時間もかけるのだから、今度こそ、まちがいなく、絶対に、自分をしあわせにしたい。そんな気持ちが、決断に至る思考を鈍らせていた。
 そもそもどうして悩んでいるのか。不確定要素が多すぎるのだ。仕事のことも、気候についても、滋賀で頭を抱えていたってなにもわからない。やりくりだって、想像のなかでどれだけ計算しても、現実がそのとおりに進むとは限らない。
 ならばまずは、やってみようと思った。今いちばん大切にするべきなのは、しあわせになれるかどうかという受け身の不安ではなく、「動きたい」という私自身の意思だ。失敗か成功かは、あとから自分で決めればいい。
 考えかたが決まると、驚くほどすみやかに思考が進んだ。不確定要素を減らすにはどうすればいいか。やはり現地で一度暮らしてみるほかない。冬の気候を体感し、仕事を決めて働きはじめ、あたたかくなるころに本格的に移住する。
 そこで初めて、シェアハウス、という三つ目の選択肢が浮上した。始めるための予算も手間もそれほどかからない、短期的な仮暮らし。以前ちらりと見かけた、とあるホームページを思い出す。美しい邸宅や北アルプスを臨む立地に惹かれたものの、やはり自分だけの暮らしをつくりたいという思いが強く、スルーしていた。改めてページをひらくと、一部屋だけ募集していた。すぐさまWeb内覧を申し込み、あっという間に契約に至った。
 めざしたいのは、好きなものに囲まれて、好きなように暮らす生活だ。準備期間だってその一部だと思う。暮らしてゆくうち、望んでいたようにならないことや、予想もつかなかったことだって起こるだろう。シェアハウスの生活が気に入れば、ずっと暮らしてもいい。あるいはもしかしたら、松本移住そのものをやめることになるかもしれない。
 それでもいい、と今は思う。次は京都か。金沢でもいい。これから何が起こるか本当にわからないけれど、「今はこうしたい」という自分の気持ちを、ふりかえるように確かめながら進んでいきたい。
 入居は一月上旬。机やソファ、本棚といった大好きな家具とは、しばらくお別れだ。持っていくのはパソコンと、好きな本と、最低限の荷物だけ。
 すこしずつ、身辺の支度をはじめている。

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