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自分への覚悟が「NO」の勇気になる【仕事編】

誰かより劣る生き方でも、決して幸せでない日々でも。
考え続けている限り、人は日々を通して成長できるのだと思う。

仕事やスキルと違って、人間の資質や強さの成長を自分で実感する機会はあまりない。無自覚にふと「そういえば、昔の私だったらこんな選択をできなかったんだな」と気づく。その時になって初めて、日々は無駄に過ぎ去ったわけじゃなく、私のなかで蓄積しているんだと気づかされる。

そう思ったきっかけは2つの出来事だ。

1.「会社」を辞めてもハラスメントはある

1つは仕事におけるハラスメント。
フリーランスとして働いている私は、企業の外部発注を受けて飯を食っている。目の前にあるパソコンも、今着ている服も、飲み干した水も、仕事への対価から得ている。
私にとっての「お客様」は、私がこの世に出したものにお金を払い、自分の人生の一部にしてくれる、出会うことのない購買者だ。発注者であるクライアント(企業・担当者)は制作仲間に近い。お金を直接もらう相手でも「ビジネスの相手」。

ところが「太客」気取りのクライアントもいるわけです。
フリーランスの足元を見るようなことを言い、タダ働きをオプションにつけるのは当たり前。あげくの果てに個人事業主=”ひとりっきりの女性”として接してくる。私の身体つきについて話題にしたり(仕事に関係ない)、プライベートに関わろうとし、プライベート面でも上司や夫のような言動をとり、昼夜問わず週末さえも連絡をしてくる。
自粛で仕事が減ることはなくとも、一時期、導入した電話会議によってプライベートの連絡ツールにまで侵食してきたおじさん。電話会議がなくなったタイミングを見計い、通常の連絡ツールへの切り替えをお願いしてブロック。

「今すぐブロックを解除しなきゃ、仕事をやらない!」
「このプライベートツールでないと連絡できない!」

月給をもらう会社員と違ってフリーランスの収入には波がある。安定して仕事を入れてくれるクライアントさんとの付き合いは大事にしたい。が、私の仕事はあくまでもものづくりであって、お前のご機嫌をとるホステス業でもなんでもねえ。
了承し、今抱えている仕事を無事に終えられるようその間はよろしくお願いします、とお返事。

収入は減るけど仕方ない。発注者が外注先を選べるように、受注者もまたクライアントを選ぶ権利はある。太客気取りで単価はもちろん、仕事上でも無茶振りは多々あった。ディレクションもひどい。自分の仕事はしない他人にさせてなんぼと平気で言う。私自身がスキルアップや仕事を覚えるうえでも、これ以上に無理をして付き合い続けるほうが悪手。

と言いつつも震える手。
自分が間違っていればフリーランス生命も絶たれる。決して広くはない業界。こっちは営業して仕事をもらう立場。おじさん(呼び方がないのでひとまず「おじさん」と呼ぶ)が周りに吹聴すれば仕事が一気に消える。それでも、私は二度と同じ誤ちは繰り返さない。

一度、会社を辞めている身。彼は全く頼りないし、実家も毒が強すぎて頼ったら死ぬ。でも仕事は選ばなきゃある。こんな時のために細々貯金してきたから、当分は生きていける。

お前なんかこわくないやーい!
いくらでも脅されようが、私がやるべきことはひとつだけ。「やるべき仕事をする」。おじさんの機嫌とりでもなく、ただ仕事をこなせばいいだけなのだ。

当然の結果:
おじさん、キレる。
おじさん、泣き落としを試みる。

そして天下の宝刀のごとく振りかざす「嫌がらせ」!
怒号のクソみたいなダメ出し連打。合間に送られる情緒不安定な私的メール。仕事のスケジュールを聞いても答えない。長く使用していた請求書フォーマットも「偉そう」「信用し合ってる仲ならこの項目は削るべき」と言い出すetc.。
あげく納品後に「今回は(企業の)クライアントが大変な人で、自分も普段より働いたから理解してほしい」と金額を半額にされる。経済的嫌がらせまで発展したわけです。

「金の切れ目が縁の切れ目」は真理
いくらでもおかしい点を説明することはできても、経済的嫌がらせはクソオブクソ。さらに別のフリーランスをしている友人から「ヤバいメールきたよ」と画像が送られてくる。おじさん、私が通院せず鬱病が深刻化していると吹聴。私は鬱病になったこともないしなっていないし、仮にそうだったとして通院状況を言いふらすなど言語道断。モラルの欠片もない。メール内容はDV加害者がよく口にするような内容。


2.お金も大切だけど、自分を磨けるかどうかも大事

プライベートツール・メールでの文面は全て証拠に残す。
おじさんと同じ職場に勤める別の担当者と電話で打ち合わせ。そっとトラブルの一部を話したところ「やばすぎるね」「トラブルが多すぎる人だから社内でも問題視されている」「社内でのマウントも目に余るものがあって、若い社員さんたちが傷ついてないか心配してた」とのお返事。

その話を聞いて、私は安堵した。
というのも一番に恐れていたのは、収入が減ることよりも、仕事をもらっていた恩義からくる罪悪感と、他のクライアントさんたちとのコネクションを潰されること。こんな調子なら誰も彼の言葉を信用しないだろう。昔は、おじさんの探究心や面倒見の良いところを尊敬していたし、働きやすさを感じていた。また、クライアントに噛みつく弱小フリーランスなんて呆気なくペチャンコにされてしまう世界にも恐れを感じていた。

でも、その恐れこそ私の甘えなんだと気づいた。
仕事をとる。仕事をする。
そのためにやれることを地道にやっていくだけ。

数年前。上司からセクハラやパワハラを受けながらも「仕事のため」「生きていくため」「お金のため」「彼との生活・未来のため」と我慢し続けていた私は、心身を壊してやっと怯えから解放された。
壊した心身を労わる日々のなかで「壊れていいもの」「壊れても直せるもの」を知っていった。何かに怯えなくても生きることが当たり前なんだと、大人になったからこそ安心して安全に暮らせるよう、自分を守る義務があるんだと、今なら当然のものとして考えることができる。

それでダメなら場所を変えればいいだけ。幸いにもこの世にはたくさんの「職場」があって「働く人」たちがいる。見つからなければ、懐と相談してスキルアップ=仕事が直結している何かを学べばいい。

だから、私は誰かによって立場が弱くなるわけじゃない。
誰かに脅かされる必要もない。
自分で自分の生計を立てる。ただそれだけなら恐るものはない。


嫌がらせは数ヶ月にわたっていて、眠れなくなったり不安を覚える日々も続いていた。それでも冷静に判断できたのは、証拠を集めながらも(エスカレートするようなら企業や相談すべきところに相談するつもりでいた)友人や知人にこの話をして「間違っているのは相手だ」と言ってもらえたこと、他のクライアントさんたちが存在していること、少しばかりでも貯蓄があり、お金の計算をしながらも細やかに出歩いて気分転換もできたからだと思う。

ひと段落したところで、おじさんから謝罪と今後も継続して仕事を頼みたいとの連絡がきた。一切、感情のこもらないビジネスメールを送った。

感情で仕事はしない。冷静にビジネスできる相手と仕事をすることは、私が仕事と向き合うことを意味する。

縁が切れれば、新しい縁が結ばれる。
頭を押さえつけていたものを外した分だけ伸び代になる。
頑張れ、私。

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