阪神淡路大震災での三宮一貫楼②
一夜にして三宮一貫楼最大の旗艦店である本店を失ったわれわれでしたが、当初はそれどころではなく、時折襲って来る余震に肩を寄せ合い怯える日々。
その恐怖に喪失感に虚脱感が加わって、まる2日は実家に集まって惰性で生活をするだけの時間でした。
幸いにして電気は通っていたので、1月の冷気に凍てつくこともなかったのは本当によかった。
状況に慣れてきたのか、先代は3日目から行動開始の号令を発しました。
銀行もまだ正常な機能を回復していなかったので、ポケットマネーで200万円を兄二人に100万円ずつ託して、大阪と姫路に買い出しに行けとの指令を出しました。
本当につくづく無茶ぶりな人です(苦笑)
大阪姫路への道など、がれきが散乱して非常に危険な状態のなか、原付を近くのバイク店から購入しての強行軍!
それに従順にしたがう社長専務が素晴らしいですね(苦笑)
しかし、あのようなカオス状態の世の中ではそのように力強く方向性を指し示してくれる方が安心感があったのかもしれません。
かくして兄たち一行はそれぞれ西へ東へ食品をはじめと日用品を買い出しに丸1日かけて往復。
忘れもしないのは帰り着いた時に兄たちに帯同していったスタッフの一人が帰宅するやいなや昏倒した姿でした。
披露感、緊張感がマックスの中、帰宅できた安堵から一気に体の力が抜けたようでした。
まさに命がけの買い出し。
最初は、それを原資に商売をしようと思ったのですが、いざプロパンガスで調理等を工場の軒先でしていると何日も食べていないような人が多くいることが分かって、
先代の鶴の一声で、こんな時に商売はできないと急遽無料の炊き出しと配給に切り替えての活動になりました。
この切り替えの早さと決断力は先代の尊敬する部分です。
しかし、われわれもその当時100人以上のスタッフを抱えていたので、食べて行く算段をしなければなりません。
炊き出しの活動を1週間ほど続け、そろそろ経済活動を少しでもしていかなければならい時の最初の一手は、
瓦礫が撤去された本店の土地にテントを張っての営業再開でした。
兵庫区の製造拠点は幸い無事だったので、そこで電気調理器で惣菜やお弁当を作り、プロパンガスで豚まんを製造。テント村で温め販売をしていました。
私が本格的にお店を手伝うようになったのもこの頃からです。
戦後の闇市さながらな一貫楼を知る貴重な経験ですね。
今考えるとセンター街で火器をむき出しで扱っていたって不思議な光景です(笑)
震災特別融資を利用して、また5000万円の借入を敢行したのもこの頃です。
使い道は仮設店舗による本店の再建でした。
中に入れば仮設とは思えないクオリティの空間。
今振り返ると、この仮設店舗時代が一番効率的だったように思います。
本当によく売ってくれたお店でした。
1995年の1月に被災し、5月での再建。
ここまでのリカバリーは早かったのですが、このあと8年もこの仮設店舗で営業することになろうとは、当時のわれわれには想像も出来ませんでした。
その後のはなしはまた別の機会で