【創作大賞2023 イラストストーリー部門応募作】You don't deserve me.【前編】


あらすじ

まゆずみアリスは地方私立高校の臨時教師である。五月末という急な赴任は、先週死亡した教師の穴埋め役だからだ。しかし彼女の本職は教職ではなく、特殊組織『500ファイブ・オーオー』のエキスパートである。死亡者も同組織の人間であり、高校に通う『超能力者』を監視、能力を調査・鑑別して判断を下す業務を行っていたはずだった。アリスは調査対象である鹿野乃々花かのののかという女子生徒との接触成功しているが、精度は一向に不明。あるはずの調査資料は死亡者の手で一旦破棄されていた。しかも、もう一名の『超能力者』の存在も明らかとなる。はたしてアリスは無事に任務を終えることができるのだろうか。

0.プロローグ

 鼻歌まじりでの散歩は心地が良い。何にも縛られず。誰にも止められず。自由に、自分を謳歌できる。
 星明かりのなか、彼女は少し調子の外れた鼻歌を延々と奏でていた。曲は有名な、卒業式でも使われる曲調だ。十年以上も前の学生時代を思い出しながら、今はもう履けないプリーツを想像のなかで揺らす。階段のように上下するメロディーは調子よく、歩調のテンポと合っている。足取りも自然と軽くなり、くるりとそ場でターンを決めていた。
 どうしてこんなに心地いいのだろうか。ふふふ、と小さく笑いながら両手を広げる。
 それはたぶん、好かれている確証があるから。
 頼られている優越感があるから。
 認められている安心感があるから。
 だから。屋上の柵の上でスキップをしたって、彼女は何も怖くないのだ。もう怖くない。あの子さえ、いればいい。こうすれば楽しいって誘ってくれたのはあの子だから。
 両手に片足ずつ靴を持って、不安定なやじろべえのように揺れる。とても揺れる。彼女を遊びに誘ってくれたあの子は、両足をきちんとコンクリートに付けて笑っていた。
「ねえ! 飛びかた見せて!」
「いいわよ、見ててね!」
 声かけだけで彼女の両腕は翼になった。まるでバレエやフィギアスケート選手のごとく、全身をバネのように使って手すりから飛び上がる。天空を目指して飛び立った体は一瞬だけ浮いた。浮いただけ、だった。重力には逆らえずにすぐさま地上へと落ちていった。
 待ち受ける惨状に全身が粟立つ。それでも、彼女は最期まで笑顔でいた。あの子のための行動には満足しかありえない。落下した先に何もかもが砕けても、恐怖はなかった。
 あの子は叩きつけられた肉塊の音に微笑んでいた。
 人形よりも愛らしく、悪意に満ちあふれた歪んだ顔で。

「やっぱり私に合わないんだもの、仕方ないよね」

1.アリス

 メイクは武装。
 まゆずみアリスの持論である。控えめでも濃くても構わない。好きな色。好きな輝き。好きなもので作り上げた鎧を身にまとう。服装も貫けば、さらに『己』という堅固な要塞にまで強化される。自分を護り、他人に意思を主張できる手段。誰しもとは言わないが、アリスにとっては唯一無二の方法だった。昔から化粧と戦には切っても切れない関係がある。ならば武装と現代で言っても通用するだろう。
 しなやかな色素の薄い髪は生まれ持った特徴だ。手入れされた艶やかなロングヘアーに、落ち着いたコーラルピンクのリップはよく似合う。今日も誉め讃えたいくらいに綺麗な色だと、アリスは鏡に向かって微笑んだ。
 最強の武器は結局笑顔なのだと幼い頃に教わった。老若男女関係なく人の心を勝ち取る最もたる武器。だが。三十歳を再来年には迎えようとしても、アリスは未だに信じていなかった。
 どうしても武器には思えなかった。自信をまとい、威圧も信用もさせる鎧であることに異論はない。それでも武器としては扱えなかった。顔だけで相手にダメージを与えることはできないと、否定している。
 顔。心。言葉。行動。それらが全て噛み合ってこその、威力。自分で扱い、意のままにできる自分であることこそがアリスにとっての武器だ。武器とは全てを揃えてこそ、意味がある。
 柔らかな弧を描かせた口許を緩め、笑顔を消した。感情が見事に削がれた真顔だ。一見すれば鉄面皮な顔こそ自分らしいと、アリスは自覚している。だからこそ笑顔を作ることを忘れない。
 笑顔を武器と教えてくれた言葉も、自分を作り上げている約束だからだ。

 自宅から出ると、朝の太陽が眩しい。五月末、梅雨入り間際の晴天は夏日よりも目に刺さるときがある。通勤電車に乗ったアリスが向かうのは職場である学校だった。彼女が住んでいるのは、主要都市のベッドタウンである地方都市。市街地を抜けた坂の上に建つ私立高校が仕事場だ。
 アリスが職場で纏う武装は決まっている。清潔感のあるシャツにタイトスカート。黒いストッキングは脚線美を魅せる透け感があっても、下品さはない。一般的な教師像からすれば少々異端じみているが、臨時に雇われた教職員なら目を瞑られる範囲だろう。前任の急な訃報からの着任当初は、多少白い目で見られることもあった。
 教職員とはいえど、アリスは部活や委員会も兼任していない。担当する教科は忙しいわけでもなく、他の教科の手伝いができる余裕があった。元々いた教師も、小テストの丸付けや資料のコピーなど、いい小間使いにされていた。生徒からすれば、自分たちと年齢の近い新顔がやってきた、というのがアリスの評価だろう。
 真面目な人間なら、ここで「自分をなんだと思っているのか」と思うかもしれない。しかしアリスは資格はあっても勤勉な性格ではなかった。緩やかに環境や人間の関係が潤滑であれば文句はない。
 よく言えばおおらか。悪く言えば大ざっぱ。そんな臨時職員は今日も生徒からそれなりに親しまれている。
 化学職員室で朝一に行う実験準備の手伝いを終えてから、白衣の裾を翻しながら職員室に向かって廊下を歩く。登校してきた生徒たちからの挨拶に軽く返しながら、今日は授業があるクラスから小テストの範囲を聞かれた。
 前回の復習だけだと軽く答えていると急に袖裾を後ろから、ついついと引っ張られる。
 驚きで振り向くと上目遣いをした女子生徒が、いたずらっぽい愛嬌のある顔でアリスを軽く見上げていた。
「せーんせっ! おはよーございます!」
「おはよう……えっと……」
 上向きの睫毛が縁取る大きな瞳が答えを求めて、きらきらと輝いている。
 女子生徒の容姿はなかなか特徴的だ。ハーフツインテールの黒髪に入れた濃いピンクのメッシュ。頬に残るそばかすのあどけなさで、奇抜さが中和されている。生活指導の常連、となっていないのがアリスは不思議で仕方なかった。アリスのは生まれ持った髪色だが、どう見ても少女は故意に染めていた。
 そうそう校内でも居ない頭髪のおかげか、着任から間もなくても特徴と併せて名前も覚えていた。
鹿野かのさん、だっけ?」
 言い当てられた少女、鹿野乃々花ののかは花が咲くように笑った。そういえば彼女のクラスも今日は小テストがある。そのまま乃々花は先に喋っていた生徒と一緒になって、アリスと進む。
「もっと詳しいヒント、ないんですかぁ?」
「これ以上言うとテストにならないからね」
「そこをもう一声! お願いします! ねー?」
「なんともなりませーん」
「ええーっ」
 高さの違ったやる気のない絶望をアリスに聞かせたと同時に、一行は職員室の前に到着した。そろそろ朝休みの終わりを告げるチャイムが鳴り渡るだろう。
「ほら、ホームルーム始まるよ。テスト楽しみにしててね。私も結果、楽しみにしてる」
 手を振れば、生徒たちは足並みを揃えて教室へと戻っていく。一様に背を見せるなか、乃々花だけが振り向きながら叫んだ。
「じゃあ、満点取ったら褒めて欲しいんですけどー!」
「取ったらねー」
 階段を降りていくのが見えなくなるまでは見守っているアリスを、後ろからやって来た男性教諭が苦笑した。
「マメですね、黛先生」
「急の臨時ですから。いつまでかはわかりませんが、早めに信頼もらわないと」
「いやー、マメですねぇ」
 先に引き戸を開けて入っていく教師はアリスの真意に気付かない。
 確か生徒の信用を勝ち取るのは大切だ。何事も、早い方がいい。だがアリスがなかでも重きを置いているのは、乃々花個人に対してだった。
 臨時とは事実であり、虚偽である。黛アリスはこの学校に目的を持って着任した。目的はただひとつ。いち女子生徒である鹿野乃々花を自分の目で監視、観察するためだった。

2.ギフト

「黛先生は超能力って信じるタイプ?」
 アリスが小テストの丸付けをしていると、隣の席に座っている国語教師の林原が話しかけてきた。彼女は生徒に提出させたノートに目を通しながら話題を続ける。記述が授業内容に沿った内容かどうか評価できるのは、器用さは長年作業に準じているからだろう。アリスは答案用紙にまだ手を抜ける慣れはない。だが丸付けは終わりが見えている。新しく隣の席に座った臨時教員を、年上である林原はよく気にかけてくれていた。不幸の後釜にされた同情をしてくれているのだろう。
 今もせっかく話しかけてくれたのだ。無碍にできない。潔く手を止めて、アリスは林原の話題に乗っかった。
「超能力、ですか?」
 林原はちらりとアリスを見て、掛けていた眼鏡を直した。赤ペンは離さないが視線はノートに戻らない。聞いてもらえる雰囲気に気をよくつつ、彼女は苦笑しながら会話を続けた。
「大したことじゃないけど、最近の動画ってなんでもあるじゃない? 『先生、これ知ってる?』なんて、見せられたのが私の親世代が信じてた超能力の、トリック動画で。私の子どもの頃もよくテレビでやってたヤツね。こういうの、いっくらでもスマホでできるんだなって」
「ああ、最近は作れるアプリもかなりありますよね。心霊ものもフェイクだって暴露されてたりしますし」
「そうそう! 何が本当かわからない世の中になったって、思っちゃってねぇ」
 感慨深く頷く林原は、どうやら午前最後の授業後、世代の違う人間代表として生徒から質問されたらしい。スマホで見せられたのは流行りのショート動画たち。どれも超能力を手品で再現する内容だった。
 アナログ放送のざらついた一場面が写ってから、配信者が挑戦する。スプーン曲げ。透視。思考を読みとるサイコメトリー。
 生徒が「マジでこんなの人気だったの!?」と驚き半分嘲り半分で聞いてきたのを、林原は苦笑して肯定するしかなかった。
 四十年以上前のテレビ欄は、奇妙だったり怪奇な現象を特集する番組が乱舞していた。真面目に解明や追跡に心血を注ぐ内容もあれば、ただただ事象を怖がったり不思議に思うだけのもあった。言ってしまえば放送規定が今よりも自由であり、テレビが娯楽の長だった頃の遺産だ。それこそ古文のように当時の様子を振り返るためには欠かせない。
 アリスに語りながら懐古する林原は、子ども心に楽しんでいた側だ。アリスは規制が増えてきた後の年代であり、各局が鎬を削って日々キテレツな放送を続けていたのは話に聞く限りである。
「信じてるってわけじゃないわよ? だけど、いちいちネタバレされたら面白味がなくなるというか。有り得ないものをずっとわからされたら、ロマンが無いじゃない?」
「お。意外に林原先生はそういうの信じてないんですか?」
 いつからタイミングを伺っていたのか。林原の向かいの席から顔を出す男性がいた。朝も黛に話しかけてきた彼は、自他ともに認める話好きで授業もわかりやすいと生徒からも評判だ。
「意外って。フィクションは好きよ、じゃあ諏訪先生は信じてるタイプ?」
 問われた諏訪はコーヒーを啜り、垂れ眉をさらに下げてからあっけらかんと言い放った。
「俺は信じますよ。証明できないものがある方が面白いんで。そういう人たちがいるから、ああいうのってなくならないんですって」
 彼が教える数学は定理に対する計算を求め、導いた公式で現象を解き明かす学問だ。科学と似て非なる。もっと突き詰めた、数字の美しさに取り憑かれる人間も多いと聞く。
 諏訪は数の美しさに興味はない。解答に至るまでの道のりを評価したいタイプだった。人の話を雑多に聞きたがるのも、その性分によるものだ。加えて、世の中はひとつの方法で解決できる単純なものでもないとわかっている。割り切れない不明瞭な部分があるのは人間も同じだ。
「フェイクっていっても、専門家すらわかってない映像だってあるわけですしね。そういうのはお二人ともロマン感じるでしょ?」
「まあねぇ」
「確かに嫌いじゃないですけど」
「だから手品じゃない超能力もあると思いますけどね」
「逆を言い張る人も多いもんね。面白ければ結局なんでもいいのかも」
「人って単純ですよねー。俺たちも含めて」
 曖昧な結論はどこか歯切れが悪いが、元々結末を求めて始めた会話でもない。林原も諏訪も、デスクに意識を戻していくのがわかった。アリスも則って作業を再開するためにペンを手に取る。しかし、先が紙に触れることはもう少し後になった。
「私も超能力、あると思ってますよ。『超』がついてるだけで、きっとただの個性の一部なんじゃないです?」
 諏訪に紙を渡しに来た英語教師の坂本が、終わった会話を浮上させようとしてきた。まだ続けるのかと伺うアリスは、坂本とばっちり目が合ってしまった。逸らすのも失礼かと気まずい思いをしている彼女を余所に、坂本は空いた手でアリスの卓上を指さした。
 整えられた薄いベビーピンクの爪が示すのは答案用紙だ。
「たとえばですよ? ほら、ヤマカンが無茶苦茶当たる人いません? テストがやたら狙ったところだった、みたいな。晴れ女とかいう概念も偶然にしろ目立つから言われるだけで、持ってる個性なんですよ。その大きさ? 強さ? そういう感じの、それですよ」
 上手い言い方が見当たらなかった坂本は持て余したひとさし指を宙で何度か回した。
 人として生きている限り、個体値からは逃げられない。平均値から良くも悪くもはみ出た能力は個性となり、特徴となる。坂本の言い分からすれば、超能力とは特出した個性が一番明確に特異性をもって発動したもの。いわば――
「言っちゃえば才能、とか?」
 林原のアシストに、坂本は嬉しそうに大きく頷いた。授業でもリアクションが大きいのだろうかと想像させる。
「それですそれ! ギフト!」
「ギフトって言われちゃうと、納得するしかないわー」
「俺も特別な才能、欲しかったですね」
「私もですよ」
 才能。個性。ギフトという概念。運動神経が抜群。勘が冴えている。それらも突き詰めれば『超』能力だ。人間の限界や範疇を越えた延長線だともいえるだろう。アリスは曖昧に笑って、同意してみせた。
 同意はできる。しかし真偽は口にしない。アリスは超能力の存在を認識し判別している側だからだ。鹿野乃々花を監視する目的も、与えられている本当の仕事が関わっていた。

3.500ファイブ・オー・オー

 アリスの前任、甲田早苗は新学期から赴任していた。近辺の中学校から異動となり、高校で生物を教えるのは初めてだった。
 丁寧な解説をする授業はわかりやすいが、優しい声音は午後一番で聞くには昼食で肥大した睡眠欲に厳しかった。船を漕ぐ生徒を起こす様子も声と同様に優しい。高校に入学してきたばかりの一年生からはもちろん、教師陣からも親しまれていた。
 ――以上が、死亡した甲田が高校教師として携えていた設定である。
 甲田は教師として学校に来たわけではない。身分を隠蔽して潜入し、定められたターゲットを監視することを目的としていた。アリスは全て理解しており、業務を引き継ぐために選出された同じ組織のエキスパートだ。
 アリスたちは超能力者と呼ばれる人間を保護や統制、または関与や悪影響を及ぼす犯罪を取り締まる世界特殊組織、通称500ファイブ・オー・オーの日本支部に所属している。
 超能力者は文字通り、人智を越える能力を扱えるものを指す。種類は多岐に渡り、人によって精度も様々だ。組織内では、一見すると偶然と思わしき最小をレベルⅠとし、誰しもが異常と感じる最大をレベルⅤとして分類している。組織を構成する人間もレベルはばらつきがあり、エキスパートと呼ばれる者たちはレベルⅣ以上でなければならなかった。
 甲田の精度はレベルⅣ、能力は【読心】と【テレパシー】だ。人の機微を悟り、無意識化に働きかけられる能力は潜入調査には相応しい。異論無き人選であり、甲田自身も高校への潜入で命を落とすことになるとは思ってもみなかっただろう。
 アリスにとって甲田の死亡は、文字通りの寝耳に水だった。連休も無いような別任務から組織施設に戻り、仮眠を取っていた最中だった。
『黛アリス、緊急要請です。至急、支部長室に向かってください』
 仮眠室には二段ベッドが角に合わせて四つ並べられている。右手奥の下段でひとり寝ていたアリスは、頭のなかで反響するテレパシーにシーツを蹴って飛び起きた。超能力を扱う者として組織は無闇に能力の使用を規制している。つまり、テレパシーでの召集は緊急時以外の何者でもなかった。
 強烈な思念伝達は電波いらずで便利だが、余韻が頭痛のように残りやすい。痛むこめかみを押さえながらもアリスは廊下を急ぐ。髪を整え、衣服の乱れも直した。さすがにメイクはできないが、こういうときのために薄付きの薬用リップをポケットに忍ばせている。
 塗った唇をすり合わせて深呼吸をひとつ。それだけで、背筋の伸び具合が違った。
 到着した支部長室では数名の職員と、日本支部長である南海みなみ星十郎せいじゅうろうが座していた。重々しい雰囲気を纏いながら顔をつきあわせている。気後れしても背筋だけは伸ばしたアリスへ、南海支部長直々に重厚な声音で伝えられたのが甲田の死亡だった。
 甲田とは部署は違うが、よく顔は合わせていた。任務の成功率が高いのも皆から周知されている。潜入調査も数多く行い、引き際の見極めだけでなく腕も立つ。
 失敗の報告はにわかに信じられなかった。だが、男の齢を重ねて深くなった眉間の渓谷がさらに顕著になっている様子は、紛れもない真実だと悟らせる。
「能力、存在ともに感知はゼロ。本人死亡で、百パーセントの判断がされた」
「殺されたんですか?」
「まだ不明だ。情報調査部からは通報は自殺、管理も手薄な廃墟からの投身だと結果は来ている。当時の様子はこれからだ。しかし、調査対象者が関わっているとみて間違いないだろう。現場と死体については、すでに処理部が動いている」
 明日になれば、甲田の死は名前も知らぬ誰かとしてニュースにされている。起きてしまった事実を全て隠蔽するのは難しくとも、虚実を混ぜることで有耶無耶にできた。
 エキスパートの死亡に超能力者が関わっている事実は、アリスに次の任務が迫っていることも示している。アリスの主な任務は超能力者が関わる事件を調査解決し、犯罪を制圧する。謂わば対人の実働。潜入と対をなす部署だ。超能力者が関わる事件となれば、自ずとエキスパートの死亡原因を探る任務も範囲になる。
「わかりました。死亡調査レッドですね」
 アリスは待機していた職員から資料が入っているだろう茶封筒を受け取った。即時開封して内容を確認する。
「甲田の任も継続してくれ。対象者の監視調査も続行する。場合によっては強制停止措置フリーズ行使も厭うな。緊急時の判断は君に任せる」
「了解です」
 資料に対象者として記載された氏名が、鹿野乃々花であった。判明している超能力は【魅了】だ。睫毛の長い瞳が記述を凝視していく。
 超能力の開花は早くて第二次性徴と同時期である。多感な年頃の揺らぎが最も心身に影響しやすい時期であり、自身が思ってもみない面を発揮しやすい。ただし、精度は勘と区別が付かないことも多い。組織が超能力者として把握しているうち、半数がレベルⅡまでだ。レベルⅢから割合は減少、レベルⅤと確定できる能力者は僅かだった。
 では誰が能力を把握し、精度を仕分けしているのか。能力は、日本支部では南海を筆頭とした共感の能力者が感知し、把握している。精度までは実際に発動を調査するまではわからない。潜入はレベルを判定する重要な任務だった。
 無意識で発動しても偶然で済ませられるレベルIは個人情報把握、自分が起こした能力だと自認できるレベルⅡは、犯罪阻止の罰則の説明をかねた注意も加えられる。能力を自在に操作できるレベルⅢからとなると、エキスパートが見極めて管理下にするかを決めた。当初からレベルⅣ以上で判定される超能力者は数少ない。レベルⅢから覚醒するのは稀であり、Ⅳ以上に引き上げる修練も適性がある。
 魅了は相手の思考を奪う能力だが、精度によっては『物凄くモテる』として処理されることも多い。たかが魅了、されど魅了である。どちらにせよ、十五歳の少女が甲田の死亡への関与が疑われていることには変わりない。アリスに重大指令を拒む余地は無かった。制圧などの直接的な任務が専門家にとって精度判断はほぼ初めてに近い。が、従う他ない。
 当然だが、超能力者にも家族はいる。かけがえのない対象がいる。しかし。エキスパートと語る者は多少事情が異なっている。帰宅できる家はあれど還るべき、帰結すべき場所は組織だ。生死は【500】とともにある。恐ろしく厳格な世界だが孤児であるアリスにとっては、帰るべき場所が確実にひとつあることは嬉しい以外に言えない。甲田の死体も此処に還ったあとで、帰るべき場所に戻されるのだろう。戻されても遺恨が残る形には絶対にしたくはなかった。
 結末次第で求めもしない凄惨さをひけらかすことになっても、受けた任務は必ず遂行する。それが、アリスたちエキスパートの誇りであり、矜持であった。

 かくして。情報操作部の協力の下、黛アリスは甲田早苗全ての後任を全うすべく、作戦は開始された。

4.任務

 雨が目立つ季節になっても、乃々花が能力の片鱗を見せることは無い。しかし、笑顔は何度か間近で向けられていた。
 先日のテストの結果、乃々花はねだったとおりに満点を出した。返却した授業後、アリスは約束通り近づいてきた彼女を褒めた。本当に褒めてもらえるとは思っていなかったのか、心の底から喜んでいた様子は記憶に新しい。
「鹿野さん、よくできました。この調子で全部満点取ってね」
 小学生に向けるような声かけではあった。もう少し捻った言い方をできたら良かったのだが、褒め言葉に幅を作る経験値がアリスには無い。内心、これでいいのかと焦ったが、乃々花には十分だった。
 瞳を輝かせるとウサギのように跳ね飛びたい勢いを押さえて、嬉しがった。
「えっ! ええっ!? 覚えてくれたの!?」
「覚えてました。でも、あなただけが満点じゃないんだけどね」
「いーの。先生が褒めてくれたら、それでいいの。えへへ……ありがと! 次も頑張るね!」
 鼻歌を歌いながら乃々花は同級生の輪に戻っていく。どうやら反応に慣れているのか、級友たちは微笑ましく受け入れていた。「よかったねー」「やったんじゃん」と口々に言われている。アリスは教室のドアをくぐりながら腕時計を確認した。秒針は刻々と時間を刻んでいる。
 一見、異常は無かった。だが、アリスは小さくため息を吐く。確認は時刻のズレや機能の故障ではない。秒針のように見せている部品が、超能力に反応していないかを見るためだった。
 能力を発動する際、当人の周りには特殊な磁場が微弱ながら発生する。左腕に巻いた腕時計は微弱な反応を示す計測装置の役割も担っていた。発生すると、秒針が細かく震える。乃々花の周囲に磁場が無いのは、超能力を発動させていない証拠でもあった。
 まだ自覚もなく、開花していないのか。読心が使えないアリスでは乃々花が持つ本音を即座に把握はできない。やはり潜入では精神系が有能だ。力不足よりも不向きを噛みしめる。百戦錬磨の甲田が残した資料頼みの調査でもあった。しかし、甲田が定期的に書いていた調書は何故か見つかっていない。別部署が捜索しているが、そろそろ音沙汰があってもいいはずだ。
 連絡の無さに痺れを切らしたアリスは、一度だけ尾行を決行していた。乃々花の帰宅には不自然な点はひとつもない。友人を連れて駅に向かい、最寄り駅からは自転車を漕ぐ。帰った自宅もごく普通の一般家庭だった。アリスはレベルⅣである【視力】を駆使して、遠距離から確認していた。仲のいい両親に恵まれ、ペットのミニチュアダックスを可愛がっている。
 端からすれば外見と挙動に一癖あるが、愛し愛される喜びをよく知っている少女にしか見えない。油断はできないとわかっていても、彼女にまつわる詳細がもう少し判明するまでは行動に移しきれない。
 新顔というアドバンテージのためか。乃々花はアリスを見かけると近づいたり、声をかけたりしていた。アリスからアクションを起こすことなく、細かく反応はくれていた。切っ掛けは多いが一歩踏み込むにはまだ、浅い。今の立場は長くは続かないだろう。
 【魅了】の発動する瞬間さえ、わかれば。能力を使う場に同席していれば。かといって、担任でもない教職が四六時中いち生徒に付きまとうのは迷惑どころか、解雇の危機だ。
 午前中の雨が上がってもぐずついた雲を湛える空の下、夕日の赤さも無いままに世界は暮れていく。アリスは定時より少し遅く帰路についた。電車に乗り込むと雲はとうとう雨を堪えきれなくなった。徐々に水滴が当たり始める。雨粒は速度に負けて崩れ、ガラスに筋模様を作っていく。
 景色を確実に濡らしていく様子は進歩のない自分と比べられているようで、アリスは自然と目を逸らしていた。

 改札から出ると本降りになっていた。傘をさしたアリスは迎えに待機する駐車列を左にして歩き始める。すると、路肩に駐車していたうちの一台が車窓を開いた。運転席にいた無精ひげの男性にアリスは足を止める。
「よお、黛先生。毎日お疲れさん」
 日々の不摂生が出る聞き慣れた掠れ声に、肩の力を抜けた。
「ナンパですか。ツジツマさん」
「なわけないだろ。わざとか」
「わざとです」
 なれなれしさに便乗した答えを返すと、男の顔は笑い皺でくしゃりと歪んだ。車内からドアロックを解除する音が聞こえた。
「だろうなァ。乗ってくれ、散々待たせたな」
 助手席には少し膨らんだ茶封筒が置いてあった。支部長から呼び出されたときに渡されたものと同じサイズだ。アリスが鞄とともに抱えて座ると、車はゆっくりと発進した。
「報告書は既に甲田本人がウイルス仕込んで消去してやがった。サルベージできたが、穴だらけ。んで、必死こいて埋めたのがそいつだ」
「ありがとうございます」
「だが、どうしても対象者の記述が変わっててなァ」
 一枚ずつ資料を確認するアリスに、男は缶コーヒーを啜りながら解説する。
 ツジツマは彼のあだ名だ。本名は辻間つじま長次ちょうじ。【記憶操作】のエキスパートである。人の記憶を改竄したり、印象を置き換えたりと利便性の高い後方支援向けの超能力を持っている。潜入中の相手とコンタクトを取るほか、目立つ事件や派手な行動の隠蔽を行っていた。
 凄腕ではあるのだが平時は昼行灯であり、有事の際も愚痴を減らさない。それでも仕事は完璧にこなす姿に『ツジツマ』だの『チョウジリ』だのと、不名誉なあだ名が付けられていた。本人が特に否定しないのは「取り合うのも面倒だから」らしい。
 辻間にはアリスもよく『世話』になっている。今回潜入できているのも彼のおかげだ。しかし有能さは身を持って知っていても、資料が遅くなれば一度くらい、からかいを込めてあだ名を言いたくなってしまう。そんなことで目くじらをいちいち立てるほど、辻間も若くなかった。
 資料には甲田が接し、読み取ってきた乃々花の個人的な部分が書かれていた。以下が一部の概要だ。

 生物の授業が、本当は苦手こと。褒められるのが好きなこと。自分が好かれているのが時折不安になること。でも、自分の好きは大切にしたいこと。
 部活も好きにできないのでしない。放課後は好きな皆と好きなことをしたい。好きなものだけで、自分の周りを埋めたがっている。
 甲田は好かれた側だ。すなわち、甲田も乃々花を大切にしたいと思っている。

 抜粋した内容で、この有様だ。組織に提出しているはずが、奇妙なことに甘酸っぱさが前面に押し出されていた。文章が規律正しくかしこまっていても、これではまるで秘められた交換日記や大切な告白を書き記したようなものだ。
 独特の感覚に、アリスは唾を飲むのも億劫になっていた。横目で見た辻間も、目を通した人間として諦め顔で何度か頷いた。
「わかる。あの甲田が、これだもんな」
「こんなの【魅了】じゃないですか」
「ああ。でなきゃ勝手に消したりしねぇな……まあ、問題はレベルの方だ」
 偶然で魅了されたならレベルⅠ、よくてⅡだろう。Ⅲと判断するにはアリスにかかっている。しかしⅢで死亡に繋がるかどうかもある。
 ハンドルが切られて、車は緩やかなカーブを曲がった。徐々にアリスの仮住まいに近づいていく。
「で、どんな感じだ? その鹿野ってのは」
「わかるかと思いますけど、ちょっと個性的な子です。今のところ学校で発動した形跡はありません。家も普通の感じでした」
「おいおい、家までつけたのかよ。バレたりしてねぇよな?」
「当然です。【視力】には自信しかないですから」
「はー、これだからお前らは……俺らの仕事を無駄に増やそうとする」
 ブレーキが少しずつ踏まれ、赤いランプが点灯した。ハザードランプが瞬いて後続に停車を知らせる。帰宅すべき景色を確認してドアノブに手をかけようとしたアリスに、辻間は待ったを掛けた。
「けどな、仕事が増えるのは黛なんだよな」
 帰宅すべきマンションが見えているのにアリスは出るのを許されなかった。文句が出ずに固まる表情を見て、辻間は顔では謝りながらも自然に別の封筒を後部座席から取り出していた。
「もう一件だとよ。あの学校にもう一人、開花したのがいる。後は確認してくれ。本当に今日はこれで終わりだ。頑張れよ」
「……了解です」
 追加された封筒を鞄に押し込み、アリスは改めて降車した。
 慣れない業務が二件。仕方がないとはいえ、腹いせに古い車種のドアを勢いをつけて閉めていた。辻間の文句が聞こえた気がしても振り向かない。
 これくらいは可愛いものだろう。特命に免じて、許してほしい。

5.夢

 滝本たきもと琉美るみは学校の廊下に立っていた。時計は見当たらずともおそらく放課後、絶対に四時頃だと言い切れる。場所はB棟の二階。どうしてわかるのか。なぜならこれは寝ている自分の夢だ。夢を見た瞬間から、夢だと滝本は初めから理解している。最近見る夢の特徴だった。
 明晰夢とは違っており、わかっているのにも関わらず自分で行動はできない。見覚えのある廊下を見渡したくとも、体は今も勝手に動き、廊下を進んでいく。雰囲気は一人称視点の映画が近いだろう。いつも勝手に見せられて、勝手に終わっていく時間の経過を見せられていた。
 夢に出てくる様々だった。今夜のように学校であったり、通学路であったり。自室やよく行くショッピングセンターもあった。だが、自分が行ったことのない、行く予定のない場所はけっして出てこない。その場で静止している状況から始まり、己がどこにいるのかを理解すると、自分の意思のない自分が行動を始める。
 放課後の静かな廊下。この校舎は特別教室が多く、故意に残っている生徒はほとんどいない。校舎裏にある野球部のグラウンドやテニスコートから活気ある声であったり、練習する吹奏楽部の音が遠くから聞こえてくる。
 何気ないありふれた廊下は、裏に面する窓を見る教師の姿があるだけで滝本は特別に見えていた。居たのは、臨時に赴任してきた生物科目の教師だ。
 遠目からでも目立つ金髪、薄化粧でも目鼻のバランスが際立つ美貌。今も外を見つめる睫毛は長く、陽光が勝手にプリズムを散らしている。赴任の理由も相乗した彼女、黛アリスは地方都市のいち高校で非常に『浮いた』。外見と異なる親しみやすさで周囲と馴染むのは早かった。
 滝本は前任の教師の方が好きだった。前任の甲田は、満遍なく信頼を寄せられるタイプだった。人の機微を細やかに汲んだ、態度の分け隔て無さはクラスの輪に無理矢理入ろうとしたくない滝本でも、心地よかった。彼女は急に居なくなった甲田にショックを受けたひとりでもある。
 いなくなった理由を生徒たちはそれぞれ噂した。借金。不倫。身内の不幸。悪ければ悪いほど盛り上がる内容に、当時は閉じた口の中で舌打ちしていた。
 甲田の方が好きでも、後任が嫌いなわけではない。だから。自分に気付いて顔の正面を向けた彼女に、大声をあげる。白球が窓ガラスを突き破って、透明な破片が四方にばらばらと散らばった。
「黛先生っ!」
 行動と意思が交わり、夢の声が現実でも重なる。叫ぶと同時に夢が終わった。目覚めた滝本はベッドの上で、布団を握りしめていた。夢は終わり方も唐突だ。まだアラームが鳴るまでは時間がある。
 深く息を吐き、寝返りを打った。寝癖のついた短い髪が頬に当たっても気にせずに目を閉じ続ける。寝てしまえば朝を迎える。必ず明日が来る。夢見の悪い日だけは全てを受け入れたくなかった。

 滝本は突然、夢の内容が翌日に的中するようになった。必ず夢で見た光景が現実で再現される。自分がその場に居ようが居ないが関係ない。翌日の、同時刻に必ず起こってしまう。
 ただの夢でも、明晰夢でもない。誰にも相談できない、揺るがない未来を予習する夢。内容は善し悪し関わらず一方的に与えられる。選択肢のない光景を受け取らなくてはならなかった。
 見た夢が変わらない日常ならば、気にも止めなかった。一番厄介なのは、自分が行ける範囲で、自身や友達にトラブルが起こる場合だ。夢の状況は確実に発生しする。回避することはできない。しかし自らの行動によって手は加えられる。
 滝本が初めて見た夢は、夕食のおかずだった。気まぐれで回したカプセルトイの中身。廊下にいた生徒たちの会話。他愛ない内容でも三回目ともなれば、不思議も違和感になる。異能だと自覚したのは、帰宅途中で一緒に下校していた友人がひったくりに合ってからだ。
 覚えている同じ時間と場所で、夢と寸分の狂いない犯行。目の前で繰り広げられた光景に、滝本は動けなかった。さいわい近くを通りがかった男性に犯人は捕まり、彼女たちは事なきを得た。
 友人は怖がっていた。滝本も怖がった。それは犯行内容よりも、昨晩の夢とまったく同じであったことと、目撃した自分が『納得』していたことだった。
 夢が反映された、もしくは夢が見せた事件に驚けなかった。己の知らない部分が「見たのだから必然だ」と冷静に囁いた。内側に潜んでいた別の力が、悪魔のようにせせら笑うの滝本は感じた。
 起こることを本当に見てしまっている。とてつもなく、恐ろしかった。
 被害が出る夢を見ても登場するのが見知らぬ人間であるとき、滝本の心には暗澹たる鬱屈が立ちこめる。接点の無さは仕方ない。非力な女子高生の手が届く範囲など、たかが知れている。諦めきれなくても、割り切りを覚えてしまえば楽だった。
 私は助けられない。弱いから。ただ夢で見てるだけ。起きても何もできない。きっと言ったって信じてもらえない。
 けれど届く範囲で行動することに意味がない、わけじゃない。
 滝本は手元のスマホで時間を確認しながらB棟の階段を上っていた。放課後に暇を持て余す喧噪は徐々に小さくなり、反比例して部活に精を出すかけ声が大きくなる。二階に到着したところで、左手に曲がった。
 先には金髪の、目鼻立ちの整った横顔があった。窓の外を見ている。近づく足音に気付いたのか、視線が動く。覚えた景色と、今がぴったりと重なった。
 滝本は大きく息を吸い込み、叫んだ。
「黛先生! 逃げて!」
 叫びを追いかけて、ガラスが盛大に砕ける音が響く。声をかけるタイミングが少し遅かったらしい。女性教師が反応すると当時に白球が窓ガラスと突き破っていく。
 間に合わなかった。滝本は目を離せずに落胆――しなかった。できなかったとも言える。アリスは、白球を片手で受け止めていた。致命傷を与えられる高速の硬球を、女性の腕力でいとも容易く止めた。なおかつガラス片を浴びても、微動だにしていない。
 風圧で揺れるしなやかな髪を耳にかけて足もとにボールを置いた。散らばった破片を避けたアリスが滝本の方へと少し移動する。腕で破片を防ぐ隙すらなく降り注いだはずの顔は、傷も驚きも、何もなかった。目が合う。
 浮かべた表情を滝本はよく知っている。『納得』だった。

 立ち尽くす滝本の背後から足音が聞こえた。割れた音を聞きつけた誰かが階段を上ってくる。我に返った滝本は目が合ったのも忘れて、慌てて別方向に逃げた。現れたのは滝本の知らない教師だ。
「なんか凄い音しましたけど……うわっ! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫です。離れたところで、助かりました」
 アリスとは顔見知りらしい。別学年の担当だろう。会話に耳をそばだてながら、滝本は心で大きく首を横に振り続けた。
 違う。その先生は片手で剛速球を軽々と受け止めた。粉々のガラスを浴びても、怪我をしなかった。己が叫んだ忠告を、さも当たり前だと言わんばかりに納得していた。滝本を目にしたときには、こうなると知っていたように。
 導き出した答えに狼狽えている間に、教師たちの会話は進んでいく。
「片づけは用務に任せるとして……ちょっと呼んできます」
「じゃあ、掃いておきますね。誰かいたほうがいいですから」
「なら事務や野球部にも行ってきます。せっかく間一髪だったんで、怪我しないでくださいね」
「ありがとうございます」
 駆けつけた教員は、また去っていく。ひとり残ったアリスは掃除用具を取りに行く振りをして移動する。階段付近まで行くと、通りがかりを装おうとする滝本と今度は自ら目を合わせた。
「滝本琉美さん」
 名前を呼ばれた滝本は身をこわばらせる。普段の授業で、フルネームを呼ばれるまで認知されているとはさすがに思えなかった。アリスの次の行動を予期できない。
「あ、あの……わ、たし」
「さっきはありがとう。あなたはそういう感じなんだね」
「え、と」
「今日はまだ色々あるから、明日よかったらこの上の空き教室に来てくれると嬉しいんだけど。同じ四時で大丈夫だから」
 謝礼から続けざまに言われる言葉をうまく飲み込めない。個人的に呼び出されているのは理解した。滝本の超能力も認知されている雰囲気に、手のひらが湿った。
 答えあぐねている生徒に、アリスは提案を続ける。

「私の理由も『予知夢』のことも、知りたくない?」

 秘密の共有は古今東西、約束にはうってつけだ。