【創作大賞2023 イラストストーリー部門応募作】You don't deserve me.【後編】


6.超能力

 アリスが指定した教室は、昨日窓ガラスが割られた場所に一番近い教室の真上にある。空き教室は教職で管理しており、黛が棚から持って行っても不審に思われなかった。
 ひとけが無くとも、呼び出されないように手は回した。万が一に備えて辻間に干渉妨害も頼んである。適当な椅子に座り、アリスは持っていた紙袋を机上に置いた。
 滝本は来るか。その点はさほど心配していない。アリスが見せた異能に彼女は興味を持ってくれた。
 超能力者同類との遭遇は寒心や畏縮が付き物だとしても、あの目には好奇もあった。知りたい欲求が少女の足を進ませてくれる。
 そろそろ指定した時間になる。引き戸が遠慮がちに開かれた。アリスに起こる危機を予知し、助けるべく行動した滝本が立っていた。
 放たれるオーラは不信感と、予想通りの好奇心を隠そうとしない。アリスと視線は合わせてくれないが「どうぞ」と声をかけると、素直に一歩を踏み出した。

 面談のように適当な席に座ってみたものの、滝本はやはり少し俯いてアリスを見ようとはしなかった。会話の糸口を探るのは年上であり、彼女を誘ったアリスの役割だろう。自分が調査の向き不向きの問題でも無い。まずは本当の自己紹介からするべきだ。
 無音で刻まれる秒針に急かされる気を押さえて、アリスの唇は下手な偽りを放棄した。秘密組織の潜入調査員と言って簡単に信じる人間が少なくてもだ。
「私は滝本さんみたいな超能力に覚醒した人間を、調査する仕事をしています。でも警察とか国の組織じゃなくて国境無き医師団みたいな、ああいうの」
 なるべくわかりやすく【500】の説明をしようとすると、どうしても怪しくなる。世間の裏を動き回る組織であることを口にして、自分も改めて思い知らされた。浮かべる苦笑を隠さずに淡々と説明を続ける。授業と似た感覚で聞いてもらえればいい。ただし超能力に教科書はなく、万人に通じる知識とは異なっている。
「変な力はもう信じるしかないけど、聞いてる話は信じられないと思う。気付いていないだけで、私だけじゃなくてこの市内にも同類がいて、人数は教えられないけど思ってるより超能力者は存在してます。滝本さんを見つけたのも超能力だし、人払いも同じ組織の人間に任せてある」
「先生の超能力は……ボールを取った、あの?」
「そう。大きく言えば【視力】、見ること。どこまで見えるかというと……試しに滝本さんの見ていい?」
 頷きながらアリスが色素の薄い眼差しで滝本の鞄を見た。見られた滝本は少しだけ逡巡したが、おずおずと頷く。
「ありがとう」と呟いてから、アリスはすらすらと【視た】ものを声に出した。
「ペンケースの消しゴムは割れてる。国語の教科書、オレンジの付箋がたくさんあるけど、ひとつ折れてる。九十八ページね」
 反射的に滝本は鞄を抱え、慌ててチャックを開いた。消しゴムはアリスの授業で割っていない。国語の教科書も意味調べの宿題で久々に持ち帰るものだ。貼ったページと付箋の色まで特定された以上に、折れているとまで指摘された。
 貼ったときには折れていなかったはずだ。嘘だと思いながらも、ページを覗く。滝本の指が固まった。アリスの言葉がさらに追い打ちをかける。
「下の角がちょっと折れてない?」
 正解だった。もう偶然とは言えない。己すら知らない物事を言い当てられ、何を返事とすればいいか滝本は言葉を失っていた。
「見たいと思うものは大体見れるかな。さすがに病気は無理だけど、ペースメーカーとかはいける。未来や過去までは見通せない。こっちの夢を見てくれたのは正直助かったんだ。いきなり『超能力者です。話を聞いてください』って言われても、困るでしょ?」
「まあ、それは……」
 滝本は正直に言い澱んだ。彼女を馬鹿にしているわけではないが、若いなとアリスは思った。素直だ。思春期特有の棘はあっても、年長者の言うものを多少聞いている。
 それでいい。滝本琉美はいち地方都市で素直に一般的な道を歩いてきた。それとなく滝本の超能力へと話題を移行させる。
「私は視たくて見てるけど、夢は毎晩自分で見ようとしてる?」
「別に見たくて見てるわけじゃないです。毎日でもないです」
「でも本当になるとは自覚してる」
「そうです。翌日の、夢と同じ時間に絶対起こります」
「自分が毎回いる?」
「知らない人もいます。場所は知ってる場所なんですけど、私はいたりいなかったり……いろんな夢です」
「……そうだね。色々あるね」
 含みのある幅を持たせた言い方にアリスは同意した。アリスの件以外にも悪夢を見ているに違いない。見ず知らずの誰かの不幸を見てしまう精神的負荷は計り知れない。
「もし気になるなら弱められる装置とかもあるから、安心してね。詳細は後日に役員が書類を持って、自宅訪問します。そこはちゃんとプロが行くから誰にもバレさせない」
 滝本の予知夢に規則性は無いとみて間違いない。ちゃんと己が予知しているのをわかっている。精度はレベルⅡ。個人情報と注意止まりと判断してもいいだろう。
「超能力者ってだけで普通の人より手間がかかる生き方になる。ややこしいけど、こっちは能力を使わずに過ごしたい人の助けになりたいだけ。でたらめだって思ってもいいから、それだけは信じて」
 こうして別の開花した超能力者に会うと、もうひとりの超能力者にアリスは違和感を覚える。
 鹿野乃々花も素直ではある。だが周囲へのの態度を振り返ってみれば、己は素直である存在に見えてほしい思想が透けている気がした。あざといと思わせるテクニックとも考えられる。甘い庇護欲を誘う幼げな笑顔に、猫の舌で撫でられたような引っかかりが拭えない。
 気に留めつつ、アリスはさらに説明を続けた。このぶんでは、もうひとつの能力には気付いてないはずだ。
「それから、予知夢だけじゃなくて念写もできるみたいなんだけど」
「え」
 案の定、滝本は目を点にした。
 念写にも種類がある。被写体の内面や過去、忘れているような場面を写す能力者もいれば。捜索対象を思い浮かべて、存在する場所を撮る人もいる。主にフィルムの感光部分に影響する能力だ。デジタル機器が多い昨今では、低レベルは露見しにくい。念写の超能力者にデジカメ愛用者が目立つのは、そういう理由だ。
「心霊写真も無意識で念写したのが紛れ込んでる。その真偽は今は関係ないとして。撮ったこと無いなら、たぶん予知夢より弱い能力だと思う」
「念写……ですか」
「そこまで強いものじゃないとけど、確かめさせてね」
 持ってきた紙袋からアリスが取り出したのは、カメラだった。昨今盛り上がったレトロブームで人気の、その場でフィルムが出てくるタイプだ。可愛らしいベビーブルーの機種を滝本に渡す。
「ど、どうすればいいんですか。こんなの渡されても撮れるかわかんないんですけぉ……」
「大丈夫。新品で撮り続ければ、撮りきるまでに必ず一枚出てくるから。たまにある、どこで撮ったか覚えてないけど撮れてる画像。ああいうのがフィルムだとデジカメより出やすいの。私も何が出るかわからないけどね」
「はあ……じゃあ、行きます」
 構えられたカメラはアリスにシャッターを切る。出てきた一枚目は何の変哲もない、滝本を見るアリスが収まっている。アリスが止めないので、滝本は何度も撮影した。
 八枚目を写したところで、フィルムを見る滝本が「あ」と小さく声を上げて驚いた。予想どおりの出現率だ。アリスは手元を覗こうと椅子から立ち上がった。
「何が撮れた?」
 差し出す滝本は困惑していた。手にしたアリスも、さして珍しくもないはずの念写に驚いた。
 てっきり自分か、相手の過去が出るものだと思っていた。だが、写真に写っていたのは違っていた。教卓を挟んで対峙する人物が、二人。ひとりはアリスだ。黒板側で相手を睨みつけ、片足に怪我を負いながらも見覚えのある銃を構えている。
 青ざめるアリスを対岸でにやにやと見つめているのは、どう見ても鹿野乃々花だった。
 教卓に肘を付き、身を乗り出している。両手を頬に添え、焦りと血を滲ませるアリスとはいたく対照的だ。追いつめられているのは明らかにアリス側だった。
 滝本が見たもの以外を写真に収める衝撃に追いつけていない間に、アリスは顔から驚きを消して、今まで机に並べていた写真と一緒に回収する。きれいに束を揃えようと、何度か机に当てる。
「さっきのが」
「そう。念写。撮った自覚も無いなら、反応はおかしくない」
「なんですか、あれ」
「なんだろうね。実物を写すわけじゃないから、何が出てもおかしくない」
 だから、コレはおしまい。とん、と強めに束を当ててアリスは会話を切った。髪の色とは似ても異なる色彩の眼差しが冷ややかに滝本を刺す。授業では一切出さない、これ以上は踏み込ませない意思が目に表れていた。弱者である少女は威圧に喉を詰まらせ、何も続きを言えなかった。
 見て見ぬ振りをするアリスはカメラもてきぱきと片づける。
「調査も終わりです。付き合ってくれてありがとう。さっきも少し話したとおり、後で担当がちゃんと行きます。滝本さんの夢はコントロールできる範囲だから、気になったら相談してね」
「……先生は調査が終わったら、学校からいなくなるんですか?」
「うん。一応その予定」
「それは、甲田先生がいなくなったのと関係あるんですか?」
 アリスは曖昧に微笑んだ。メイクの力を借りて、一線を引くための武器を嫌々ながら顔に浮かべた。
「偶然だよ」
 薄紅の唇が描く弓月は滝本の疑惑を和らげてくれるだろうか。消えなかった部分は辻間たちが手を下すのだろうか。せめて悟らないでほしい。それは調査側よりも、教師としての保護目線が強かった。
 滝本と比べたアリスの想定内ではあるが、鹿野乃々花の能力はレベルⅡ以上だ。精度の強さや態度次第にせよ、日々の態度を顧みるとできれば彼女も保護で済めばと思わなくもない。あくまで強制停止措置フリーズは最終手段だ。

 滝本を先に帰らせてから、アリスはため息を吐いた。見上げた天井はオレンジ色に染まり始めている。誰かの思想に触れて染まっていく自分の心を見るようで、自ずと瞼を閉じていた。
 自分以外に意識を向け、考えるのは以前から苦手だった。誰かを変えようとすることも、変わろうとするのも管轄外だ。対峙する相手を倒すことだけを考えていればいい戦闘に特化した前線業務の方が彼女の性格に合っている。
 しかし。報告は義務だ。やるべきことはしなければ。何があろうとも、それがアリスの存在証明でしかない。

7.乃々花

 笑顔は最強の攻撃かつ、最高の防御。
 鹿野乃々花の持論である。乃々花は自分の笑顔が大好きだ。己の全てが好きなナルシストではない。笑顔という表情が好きだった。
 可愛いものを見れば、誰もが可愛いと微笑んでくれる。幼いふっくらとした頬を緩ませる表情に、抗える相手は彼女の周囲にいなかった。両親の愛情で学んだ考えと、笑顔の力を信じて無邪気に見せてくる女の子だった。
 笑顔は凄い。乃々花は思い続けてきた。機嫌を伺う一手として使った次には、懐に踏み込む一歩にもなる。鼓舞する自信。拒絶する壁。ありとあらゆる場面を笑顔で乗り切ってきた。
 唇の描く弧に全員が虜。ふふふと小さな声音で、世界は思いのまま。自分を中心に物事がある幻想は長く続かなかった。小学生ともなれば笑っているだけで過ごせるわけがないと気付かされる。だからといって笑顔に対する意識を乃々花は止めなかった。
 どうしたらもっと魅力的になるか。そばかすだらけの頬をいじられずに済むか。魔法みたいに凄い、誰にも邪魔されない力がほしい。
 誰もが私を見る、私を好きになる、私なしでいられなくなる。圧倒的な魅力がほしい。
 私こそが、一番の私。
 乃々花が持つ超能力の根底にあるものは自分を高めたい、好かれたい愛したいの一点だったのかもしれない。【魅了】の開花は、望みを押し通して従属させたい欲望だった。
 高校の入学式に合わせて髪を染めたい。数日後に高校生になる乃々花の願いに、さすがの両親も渋った。
「桜色にしたいの! メッシュで入れて、全部染めないから私のそばかすにも合うと思うんだ」
 想像した両親は、否定しなかった。黒髪とメッシュのコントラストからの、そばかすの頬が眩しい笑顔。似合う。確かに似合う。あいにく彼らは『この娘にしてこの親あり』を地で行く家族だった。
 両親と乃々花との違いは、魅せるのみに考えを振り切れない部分だ。どれだけに自分たちは似合うと思っても、周囲と合わせるのも学校生活だ。無意味に周囲と孤立させたくはない。教師陣に目をつけられるのも、将来に響く。
 首を縦に動かさない家族に、乃々花は苛立っていった。理想の笑顔のためには引き立てるパーツが必要だ。乃々花が乃々花で在り続ける努力を、頭ごなしに否定された気がした。
 焦った笑顔でねだっても、無理だ。歪んだ眉と唇で生まれる、目が淀み曇っている表情など。これまで目を逸らしてきた無力さを今までになく痛感する。乃々花は好きなものを好きでいたいだけなのだ。この笑顔を好きでいて、もっと好きになって、強くできる力さえあれば。
 ――みんな、私に夢中になればいいのに。私だけを可愛がればいいのに。
 ばちん。乃々花のなかで何かのスイッチが入った。脳裏に電撃がる。視界に無くても、感覚だけでメッシュに入れたかった鮮やかな桜色だと理解する。目映い閃光は乃々花の大きな目から、向かい合っていた両親にも爆ぜていた。
 共鳴とでもいうのだろうか。乃々花の意志が彼らに伝わったのを、本能で感じていた。乃々花はゆっくりと微笑む。胸よりも深い、心臓の奥からこみ上げる所在不明の全能感に身を任せていた。笑顔を見た両親は先ほどとは打って変わって、穏やかに笑い返してくれた。今までの悩みを忘れたかのように頷き、受け入れていた。
 それは寛容よりも、従属。もしくは洗脳。むしろそれこそが、【魅了】。
 静かに血潮が沸騰し、体中を波打って駆けめぐる。認められた感覚とは異なる、初めて感じる高揚で鳥肌が立った。むず痒さにこぼれ出そうになる奇声を必死に堪え続ける。
 自分で行ったと、乃々花は自覚していた。こうしたかったのだ。やっと気付いた。自分の身ひとつで相手に価値を認めさせたかった欲求に、うっとりと酔いしれた。
 唯一無二が誰であるのか。
 最も優先させるべきは誰なのか。
 向けられる笑顔さえあれば何もいらなくなるほどに相手を狂わせる能力が、好意を食らい続ける怪物に備わってしまった。
 満たされることを知らない怪物は増長する。誰彼問わず魅了し、盲目的に抗えない相手をひたすらに生み出し続けた。乃々花にとって様々な人が集まる場所は好きに人を引き寄せ、好きに振る舞い、常に自由を選べる最高のステージだ。
 つまり学校は、【魅了】には好都合すぎる狩り場だった。

8.甲田

 能力レベル調査のエキスパート、甲田早苗が指令を受けたのは四月。実際に高校に教師として潜入したのは桜も舞い終わる始業式からだった。設定を破綻させないように留意して生物教師として振る舞うなか、指示された人物に目を光らせる。
 支部長を筆頭とした共感能力持ちに【魅了】として感知されたのは新入生の女子生徒だ。彼女、鹿野乃々花は見た目は奇抜ながらも生活態度や授業は一般的だった。
 心を読んだ当初は『友達が好きな楽しい女の子』だと甲田は思っていた。自身の超能力に気付いていない、あくまでも自らが輪の中心になりたがる注目されたがりの青春盛り。甲田の開花は高校二年生のときだった。まだ自身が何者かを知らない過去と、高校生活を謳歌する姿が少なからず重なる。
 潜入時はよくあることだ。少なからず味わう、感傷に近い懐かしさ。異能の判を嫌でも受けて世界が断絶された衝撃を回想する思考。それでも彼女は、対象の深層心理に超能力者である自覚を促してきた。方法は直接面談して超能力などを説明することもあれば、精度と精神をおおまかに把握して訪問担当に全て任せることもあった。
 今回はどちらになるだろうか。あくまで見守りの姿勢を取った過去の自分を、数日後に甲田は後悔した。

 春を知らせる花びらが散っても、乃々花の持つ鮮やかな桜色は無くならない。入学して間もなく、登校してきた彼女は生徒指導の教員にすぐさま注意を受けた。派手な頭髪を指摘した教員だが、次の瞬間には乃々花を褒めていた。
 規則からの逸脱を止めていた男は口振りだけを変えた。周囲の人間といえば、何も変わらない。指導者の掌返しを異変として捉えなかった。
 今日も元気だと微笑む教師陣。早く行こうと誘う友人。あからさまな変化に注意もしない。おかしいとも思わない。
 ひとつの意思が潰され、日常風景が逸脱することなく強制的に継続される異質。遠巻きに様子を見ていた甲田だけが悪寒を感じていた。足下から全身に浸食するおぞましさに急かされるがまま、彼女は場の全員の心を読んだ。乃々花以外は全員、同じだった。
『鹿野乃々花が全て。愛すべき、愛されるべき鹿野乃々花が全て』
 誰を読んでも一様に、乃々花のことしか考えていない。甲田は焦った。【魅了】でしかなかった。いつからと考えるのも間違っているかもしれない。残念ながら、甲田は読み違えたのだ。
 乃々花が学校に入学した時点でもう、虜になる以外の選択肢は存在しない。泳ぐ目で覗いた少女の心は、最初に読んだ心となにひとつ変わらない意思を持っていた。
『私が好きなものはあなたも好き。私は皆の中心。全員が私を好きになるべき生き物。私は絶対。この世で。誰よりも。何よりも』
 いたずらっぽく微笑む乃々花が、甲田に近付いてくる。人でひしめき合う朝の廊下を、まるで大海を割って進む神話の如く真ん中を開けさせて歩いてくる。そこに指示の動きはいらない。ただ堂々と乃々花が思うだけで人は動く。
 対して、甲田は動けなかった。動いてはならないと直感していた。自分の本能からの警告よりも強い【魅了】を受けて眩んだ者特有の、無意識での従属精神だ。
 後悔は一瞬で霧散していた。自身では強制されていると全く考えず、自らの意思として処理されている。
 乃々花の魅了は完成されていた。どんなエキスパートでも逃げられない。彼女が望めばそれだけで始まり、終わるのだ。
 頭に張り付いた笑顔から逃げられず、甲田は廊下に膝を付いて脱力した。
「先生、私のコレに驚かないのね?」
 質問されている。甲田は答えたくて、必死に頷く。
「先生も、こういうの持ってるの?」
 心を奪われた相手に小細工は通用しない。受け入れたい相手を、拒否できようか。魅入られた者に鍵や錠前は無い。自ら外して、さらけ出してくる。
「あなたと同じ、超能力者なの……あなたのことが知りたくて、此処に来たのよ……」
「へえ! じゃあ初めて同じ人に会った! 早く教えてくれればよかったのに」
「そうね、そうなの。ごめんなさい、もっと早く、鹿野さんに言うべきだったわ……!」
「いいの。私、そういう先生も好きだから。先生は私のこと、好き?」
 答えたかった。応えたかった。必死に腕を差し出して、庇護すべき相手に訴える。その笑顔は何に変えても守らなければならない。
 友であり恋人であり、母であり姉であり妹であり愛そのものである、この鹿野乃々花に。
「もちろんよ……っ! だから、これからも好きでいてくれる?」
「うん。そういう先生だから、私は好きなの」
 エキスパートの甲田は死んだ。命を落とす前からとっくに死んでいたのだ。乃々花を抱き締めて甲田は縋る。廊下を行き交う全は二人に目もくれず、側を通りすぎていく。乃々花に甘えるのは日常。乃々花に甘えられるのも日常。当然であるものに、違和感を感じるわけがない。
 強烈な輝きに自己を灰燼にされた甲田は、盲目的な残骸と化した。
 鹿野乃々花の精度はレベルⅤ。拒まれぬ限りあらゆる万人を崇拝させられる、最上級の災厄だ。

9.変調

 メイクをして。笑顔を確かめて。仮住まいに鍵をかけて、電車に乗る。梅雨の合間にある久々の晴天だ。朝の時間帯でも感じる蒸し暑さは、待ち受ける猛暑の予告だった。
 電車に揺られながらアリスは滝本琉美についての報告を反芻する。我ながら滞りなく終了できた。予知夢がアリスを感知したのも要因のひとつだが、潜入調査は本来、長くて数週間で終われる。
 未だ乃々花の尻尾は掴めず、死亡した甲田について捜査が取りこぼされた形跡もない。冷房でも止まぬ湿気が苛立ちにさらなる拍車をかけていた。アリスは手で自分を扇ぎながら、出所不明のため息を大きく窓に向かって吐いた。
 アリスの出勤時間も変わりなかった。が、到着した職員室は少々忙しない。今日の授業内容を確かめる林原に、鞄を置きながら挨拶をする。
「おはようございます。……すみません、遅刻でしたか?」
「おはよう。大丈夫よ、まだ黛先生はセーフ。さっき急に学校集会するって校長がね。今、放送入れるって……」
 林原の言葉を遮るように、校内スピーカーから連絡用のチャイムが鳴った。教頭の堅い声で、朝休み後に体育館に集まるように全生徒に向けて指示が入る。
「で。私たちも、もうちょっとしたら会議始めるって」
「わかりました。ありがとうございます」
 アリスも手早く一日の授業を把握し、会議で学年別や全体への注意事項を伝達される。終われば全員が生徒とより少し前に体育館へと移動する。
 そこまでは、何の変わりもなかった。変化を感じさせる様子もなかった。
 たとえ変化していたとしても、アリスは初めから『対象外』なのだ。気付けるわけがなかった。

 体育館は熱対策で扉と窓は全開放されていた。校長が壇上から整然と列を作り、座っている在校生を見渡している。教師陣は壁沿いに学年担当、教科担当で分かれて並んでいた。アリスが来てからは初めての全校集会だ。学年別はあったが、教科担当には関係がなかった。
 緊急で集合させられるのだ。さぞ、伝達すべき事柄があるのだろう。職員会議に校長は顔を出していない。生徒のみならず、アリスを含めた聞かされていない大人たちも興味はあった。
「急に集まってもらってありがとうございます」
 南海支部長よりも幾分気の抜けた、優しい声で校長は一礼する。次に続いた言葉に、アリスは耳を疑った。
「では鹿野乃々花さん、お願いします」
 整列して座った群から、ひとりが立ち上がる。誰も止めずに、ましてやざわめきも無い。意気揚々と壇上に登っていく少女を、アリス以外全員が見守っていた。
「おはよーございまーす!」
 呼び掛けに対してマイクに負けない声量が壇上へと返される。教育番組の要領だ。乃々花が満足げに頷くと水を打ったように静まりかえる。
 その落差に絶句しない人間がいるだろうか。唇すら動かせないアリスを後目に、乃々花は軽やかに話を始めた。
「今から鬼ごっこをしようと思います。逃げるのは黛先生。鬼は私以外の全員。人数が不利すぎるから、特別ルール。先生にタッチされたら絶対気絶して動けなくなります。それから……」
 今月の目標を発表するかのような自然な提案だ。前もって決めていたと言わんばかりの説明を一度区切り、乃々花はすんと小さく鼻を鳴らして悲しそうに目を伏せた。
「私も失望しちゃいます」
 泣き真似にどこからともなく声がかかる。頑張れ。泣かないで。アリスの隣にいる諏訪も「乃々花ちゃん」と、悲痛に呟く始末だった。アリスの心身が急速に冷え切っていく。
 気丈にみせかけて涙を拭う首謀者は底抜けに明るく振る舞ってみせる。振りまく笑顔は今日の空よりも突き抜けるように晴れ晴れとしていて、鮮やかさに吐き気がこみ上げる。毒々しさは網膜と脳を焼き尽くす。
「でもね! アリス先生をどう捕まえるかは自由! だから潰しても落としても、殺しても、何してもオッケーです。捕まえて私の元に引っ張ってきてくれたら、私がとっても褒めて愛してあげる。だから、みんな頑張ろうね!」
 天井が激しく波打ってもおかしくない歓声が噴き上がった。熱狂に空気が震える。強く気を持って床に踏ん張らなければ全身が名状しがたい戦慄に襲われそうだ。アリスはちらりと腕時計を見やった。秒針が振り子のように大きく、激しく振り切っている。
 そうか。ゆっくりと細く息を吐き、集中する。爪先を見るアリスに、見えない針が何十、何百と刺さった。周囲の視線が己に集中するのが嫌でもわかる。
 此処はもう初めから、アリスが来る前から、甲田が潜入してからとっくに乃々花の狩り場テリトリーだったのだ。
 アリスは吐いていた息を素早く吸うと素早く一歩を踏み込んだ。内履きの靴とタイトスカートでも、体育館から素早く脱出する。
「あ、フライングだぁ。でもね、許しちゃう。みんなは私の合図でスタートね!」
「はぁい!」
 背中から聞こえた返事の大合唱に、アリスは拳を強く握った。
 体育館からなるべく距離を取りながらも、ポケットに忍ばせていたスマホで外部に連絡する。鬼ごっこに興じる必要はないが、外に出て被害が拡散する可能性は否めない。
「辻間さん。鹿野乃々花、【魅了】レベルⅤ。むしろそれ以上です。学校内は範囲内、外はどうですか?」
 後方支援部署は万が一に備えて常に待機していた。画面越しの辻間の声も、やはり平常ではない。
『こっから敷地に入った途端、全員魅入られる。助っ人は出せない』
「ですよね。情報隠蔽と遮断はお願いします」
『了解。専用銃と弾薬を【転送】する』
 目の前に出現した銃と弾をアリスは受け取った。緊急措置用の対超能力者特殊武器だ。
 超能力は人間が持つ電磁パルスが変異し、特異的に作用する生理現象の一種だ。パルスの波形が乱れたり、相殺される波長があれば能力自体を無効化できる。
 転送された銃に人を撃ち抜く殺傷能力は備わっていない。代わりに予備も渡された特殊弾が装填されていた。一発でも撃ちさえすれば超能力を停止させる電磁波が生まれ、先に仕込まれた麻酔針が刺されば対象は昏倒する。

「確認しました。現時刻より強制停止措置フリーズ、執行します」

 リボルバーの中身を確認する背中に、ひしめき合う狂乱が迫っていた。

10.邂逅

【魅了】は超能力者自身が設定した条件を覆さない。つまり、乃々花が『鬼はアリスのタッチで行動不能となる』と決定しているのであれば、絶対的な前提となる。
 わらわらと群がってくる生徒たちに軽くでも触れながら、アリスは必死に乃々花を探した。ゲームを提示しておきながら見物という楽しみを無視して、体育館に居続ける性格でもないだろう。条件通り、触られた相手はすぐに倒れる。伸ばされる腕を避け、捨て身での衝突もかわしていく。通ってきた廊下や教室には、幾重にも人が折り重なるように気絶していた。
 魅了された者に怪我を負わせるつもりはない。だが人数は減らさなければ巻き込んでしまう。武力は控えたいとは思っているのだが、最低限に足を払ったり、体幹を崩す程度の動作は行っている。【視力】さえあれば弱点になる古傷や、庇いたい部位は手に取るようにわかった。
 ただし。エキスパートとはいえ、体力には限りがある。人海戦術をとった乃々花のゲームに単身で対処するには、手の届く場所にある道具も使わなければならない。それは周囲も同等だ。
 今もひとりを昏倒させたアリスめがけ、どこからか椅子が飛んでくる。
 掃除用の箒。教科書。筆記用具。物が溢れる学校に投げられないものはない。手当たり次第に投げつけられるものからアリスは軽やかに逃げる。余波で当たる者がいても、今は知らない。後で処理担当がどうにかしてくれるだろう。
 アリスは消火器を取ろうとした生徒の腕をひねり、消火器を奪った。周囲に消火剤を発射させると風圧で辺り一面に白煙が拡散される。煙などアリスの目にはあってないようなものだ。場に乗じて逃げ、近場の背中を触っていく。視界が晴れた後、噎せる群衆に残されたのは床に伏せる同志のみだった。
「まだどっかにいる!」
「探さなきゃ!」
「捕まえろ!」
「乃々花がそう言ってるんだから!」
 足音は絶えない。乃々花を慕う声も止まない。密集した集団から腕だけが伸ばされる光景は、触手の壁かと勘違いする。アリスは立ち止まると無表情で天井に発砲した。乾いた発砲音にうぞうぞと蠢く集合体は静止し、数本の腕が引っ込む。そのまま銃口を群に向ければ、強固な絡まりはほどけて散り散りになった。
 殺傷能力はない銃弾だが牽制には使える。特殊弾のため無駄撃ちはできればしたくはない。しかし、使えるものは使わねば。廊下の角を曲がり、机や椅子を高く組み上げてバリケードにする生徒たちを歪な山ごと蹴り飛ばした。
 人数がどこまで減ったか。様々な場所で倒れている生徒や教師の姿は増えても手応えが感じられなかった。一度体勢を整えたいと考えて、視界に入った生徒の顔に意識を取られる。
 予知夢と念写について話し合った、見知った顔だ。魅了対象はアリス以外の人間。滝本琉美も例外ではなかった。
 虚仮威しの威嚇射撃が遅れる。アリスの二の腕を別方向から掴んだのは、教師の坂本だ。
「黛先生も超能力者なら言ってくださいよ。乃々花さんの個性、凄いでしょう! あんな才能誰だって敵わない! 黛先生がどんなものだって!」
 心からの賛辞でありながら、不快感で鼓膜が呻く。信用のない雑言にしか聞こえない不協和音にアリスは顔をしかめて、坂本に触れた。倒れる間際に腕を振り払おうとする。が、その腕は別の誰かの手が掴み、振り払えばまた次の誰かが。ひとりずつを犠牲にして、腕から体ごといち方向に誘導される。群衆のうねりに逆らえない。
 気付いたときには、遅かった。どん、と肩を強く押されて解き放たれる。体は宙に浮き、四肢は放り出される。アリスは階段へと背中から突き落とされていた。
 異口同音にげらげら笑う声が降り注ぐ。舌打ちする暇もなく、衝撃と痛みが彼女を襲った。

 アリスが逃げて戦力を減らす手段を選んだ一方。主催の乃々花は、喧噪にまみれた校内を悠々と歩いていく。待っているだけではつまらない。開催を宣言したならば自ら狂乱の海に降り立つべきだ。
 鼻歌混じりの少女は初めからアリスが超能力者であることを知っていた。魅了した甲田から、家族間で情報を共有するように聞いていたのだ。
 調査員が任務で死んだ場合。死亡調査をふまえて後任の超能力者が派遣される。故意他意に関わらず必ず適応される規則だ。
「じゃあ、誰が来るかわからないの?」
「そうね。私が選ぶわけじゃないもの。でも、同類に殺されたってわかったら大体決まってくるわ」
 桜色の混じった手触りのいい黒髪にブラシを通しながら、甲田は穏やかに説明した。髪を結わせている乃々花の手には今まで組織に報告してきた文章を印刷した書類が収まっている。目を通しながら乃々花は自分の不利になる部分を黒いサインペンで塗り潰していた。
 堂々と行われる隠蔽に甲田は声を荒げもせず、慈愛に満ち足りた表情で乃々花を愛でるのみに専念する。
「そうなの? たとえば、どんな人?」
「一番凄いと、アリスね。彼女にしかできないことも多いけど、そのぶん問題も多い。超能力関係の鎮圧なら、彼女に任せるのが妥当かしら」
 紙につけていたペン先が食い込んだ。圧を掛けられた書類にインクが丸い染みを滲ませていく。
 気にくわなかった。自分より注目され、価値を見いだされる人間がひとりでも存在するなんて。しかも超能力者として同じ立ち位置の相手だ。
「……そのアリスって人を好きにさせたら、私はもっと一番になれる?」
「かもしれないわね。でも、あなたは皆の一番よ」
 ぽつりとこぼれた乃々花の提案を、やはり甲田は否定しない。書類と手鏡を交換して、乃々花は自分を確認して微笑む。
 こんな完璧な笑顔の持ち主の立場を、誰かが横取りする可能性を示唆された唇で『一番』と言われても信じられない。生きていく限り似た問題には直面するだろう。問題はひとつずつ解決しなければならない。
 壁は乗り越えてこそだ。障壁にも価値がある。今回は華麗なる道のりの第一歩。乃々花という最大にして最強の、無敵を築く礎となる。
「ね。先生は私の言うこと聞いてくれるんだよね?」
「もちろんよ! 言ってくれるなら何でも叶えてあげる!」
「じゃあ、私のためにね」
 甲田は【魅了】が放つ極上の笑みに、ひたすら無心で頷いた。
 小さな唇が囁いた願いが最悪をもたらすとしても。

「アリスが来るようにして、飛んで、死んでみせて」

  ◇  ◆  ◇

「せーんせっ、大丈夫ですかぁ?」
 乃々花が空き教室のドアを思い切り開ける。数歩先の教卓では上半身を預けるように腕を乗せて俯く人影がいた。アリスだった。
 表情は焦燥し、左足のストッキングはところどころ破れて血が滲んでいる。靴もどこかで落としてきたのか、片方しか履いていない。
「大丈夫に、見える?」
 余裕のある表情に切り替わるが、乱れた髪の隙間から覗く目には覇気が無かった。機嫌よく一歩ずつ近づく乃々花は、黒板に背をつけるアリスと卓を挟んで顔を合わせる。
「どっかから落ちたとか」
 白々しい態度には不遜で対応する。
「酷い鬼ごっこのせいでね」
「えー。楽しくないですか?」
「どこが」
「私は楽しいけどなぁ。だって、先生が私のために頑張ってくれるから」
 誰のためだ。絶叫したいのを堪えてアリスは銃弾の残りを確かめた。
 押し殺した慟哭すら乃々花には面白いらしい。くすくすと緩みを絶やさない顔は憎たらしいほど楽しそうだ。
「何がしたいの。鹿野さん」
「先生が私に相応しいって、知りたいの」   

11.告白

「相応しい……?」
「そう! 私が最高の笑顔を向けたい最高の相手!」
 乃々花は嬉しそうに胸の前で両手を組んだ。やっと自分の言い分を聞いてくれる、自分だけを見てくれるのを心の底から純粋に歓喜している。追いつめておきながら様子のギャップにアリスは怪訝な表情を隠せない。
 眉をひそめる顔は浮かれる視界には入らなかったらしく、言葉を跳ねさせながら気分よく語り始めた。
「私ね、私ができる最高の笑顔をしたいの。私を皆が好きになるのは当然で、私も愛するのも当然でしょ? だから笑顔で居続けるのが私であるためなの。私をもっとよくしてくれる最高の人を見つけるのも大切なんだ」
 傲慢な美学が独自の理論を展開していった。乃々花自身は笑顔を武器としている。超能力があったとしても怠れば輝きはくすむ。日々磨き続けることで【魅了】という本能に見合った、むしろそれ以上の己を自負できると確信していた。
「欲張りね」
「そうだよ。だから狙った人を落とせない私は最高じゃないの。私が最高じゃないと思った人も」
 高揚していた瞳がすっと凍てつく。
「いらない」
 髪色の暖かさとは真逆の冷たさに空気も固まった。己をひたすらに崇拝する有象無象は一辺倒の扱いでいい。しかし気に入った者は掌にのせて逃がさない。一度でも失望した瞬間に興味は失せ、有象無象以下に成り下がる。
 発した四文字に限りない残虐性を詰める乃々花に、アリスは少女の本性を見た気がした。
「甲田早苗も?」
「うーん、甲田先生はちょっと足りなかったの。私のことを一番に考えてくれて、仲間で、優しくて、凄く大好きだったのに……」
 瞳の奥を濁らせたまま、無邪気に笑った。
「あなたを凄いって言うから、いけないんだ」
 甲田はアリスが凄いと言った。一言でも、乃々花より褒めた。それだけで甲田に対するありとあらゆる感情は凪いでしまった。荒れ狂いも満ち引きもしないが、名指しされた存在を繋ぐ唯一の人間だ。
 引きずり出すにはきっかけが必要になる。とても大きく、強いフックがいる。人が引っかからずにいられないものは遠く近くに関わらず、誰かが死ぬことだ。
「私も会ってみたかったから甲田先生に頼んだの。そのアリスにも届くように『飛んでみせて』って」
 精神関係の超能力者がタッグを組めば、無断で潜入するのも容易い。無人の屋上に着くと、甲田を手すりに登らせて歩かせた。乃々花が願えば逆らいもせず、彼女は飛んだ。軽々と四肢を晒して落下していく姿は、恍惚を通り越した表情もあってあまりにも滑稽だった。思い出した乃々花は堪えきれず、くすりと吹き出す。
「きれいだったなぁ、先生。あんなに大きくジャンプするって思わなかったもん。すぐ落ちるのに! おちるのに!」
「落としたのはあなたでしょう!」
「でも、そうしたかったのは先生でしょ?」
 声を荒げたアリスに対して、日常の延長線のように乃々華は返す。
 頼んだだけ。願っただけ。望んでみただけ。
 落ちたのは、甲田が勝手に乃々花の思いを叶えただけ。
 願望通りに、アリスは颯爽と現れた。甲田の後任として勤め出した彼女は超能力者やエキスパートらしさはない。歳が一番近い大人といった雰囲気で、意図を抜いても興味を引かれていただろう。調査員としても悪意を抱かせる行動もなく、能力を見せることもしない。出方を伺われている乃々花も特に異能を使わなかった。
 感知しなくて当然だ。学校はとっくに【魅了】が蔓延している。今更改めて力を行使すべき部分が無い。単純に操り出すよりも、相手が顔の下に秘めている焦りと苛立ちを想像して乃々花は楽しんでいた。
 言うほどでもないと感じた絶対的な自信により、アリスは泳がされていた。水槽の観賞魚だった。行動を見られるだけで意味がないと、おざなりにされた。乃々花の目となり手となる配下に観察されていると知らず、隠れてため息を吐く様子は伝わっている。
 そろそろ魅せてあげてもいいかも。見下す態度そのままに、傲慢に手を差し伸べてやろうかとした矢先だった。校内でアリスに優先された人間がいたのだ。
 さすがに第三者の介入は予想外だった。しかもアリスはあっけなく、そちらを優先した。乃々花はぽっと出に負けたのだ。
 負けたと思いたくなかった。しかし、確実に負けた。アリスについての報告が消えた数日間の腹立たしさはたとえ誰を殴り蹴っても払拭されず、忘れもできない。
 だが。どれだけ組織ぐるみで人払いをしようとも、本人に聞いてしまえば関係がない。休み時間のあいだに乃々花は聞いて回った。呼び出されたのが滝本琉美であることを突き止め、本人に何があったかを問いつめる。
 入学してから何かと初めての多い期間だった。
 初めて超能力を持つ同類に会った。
 初めて能力があっても自分より優先された人間を知った。
 初めて標的の意識を奪われた。
 初めて屈辱で自分を嫌悪した。
 初めて、横取りされたくないと思った。
「さっさと合うかどうかしなかった私が悪いのは、わかってる。でもね、私を放っておいた先生も悪いよ。私だけ見てたら、こんなことにならなかったんだし」
 乃々花の両肘が教卓に乗せられる。その両手に可愛らしく顔を置いて、にんまりとアリスを見つめる。余裕めいて——事実余裕をもって、あとには洗脳されるだけが残されている相手を、乃々花は慈悲深くも容赦ない憐れみを込めて見つめている。
「これはね、先生のためなんだよ」
「学校の全員を、巻き込むのが?」
「皆わかってくれるし。そうなったのは、ぜぇんぶ先生のせいだもん」
 アリスがリボルバーに弾を入れ直しても少女の微笑はやまない。むしろより深くなり、愛に満ち満ちた目の奥に底がない闇を見せる。
「甲田先生が言ってたの、嘘じゃなかったみたいだけど。怪我するし大変そうだし、期待はずれだったなぁ。でも及第点だから、あとは遊んであげる」
 乃々花は告白する。始まりであり、終わりと言わんばかりに。
「好きだよ、先生」
 アリスは視線を外せない。告白に、返事をするだけしか許されてもいない。
「ありがとう」
 ただ、続く言葉は乃々花の範疇からはずれていた。

「私は嫌いよ」

12.ふさわしいもの

 乾いた銃声が室内に反響する。ぱん、とあまりにも綺麗に轟いた音は前触れもなく、乃々花の左側を通り過ぎていた。教卓に寄りかかったまま動けなかった相手を前にして、アリスは面倒くさそうに息を吐いた。長く、重く、胸に溜めていた鬱憤を全部吐ききるため息だった。
「これは警告。従うか執行されるか、決めて。いますぐ」
「は……ハァ!?」
 乃々花の疑問はひとつも言葉にならずに意味のない威嚇になっていた。
 どうして撃ったの。そもそも、なぜ撃てるの。笑顔を浴びたのに、私の【魅了】はどうなったの。
 小悪魔めいていた表情が歪み、同等に余裕も捻れていく。もう一度目を合わせようとした乃々花の、今度は右側に破裂音が響く。耳元を掠めた空気の感触に後ずさる。
「ひ、い……!? なに、なんなの!?」
「決めてって私は言った。従えばこのまま【500】に判断を任せる。執行するなら、あなたは超能力を停止される。それだけなんだけど」
「待って!? なんで!? 何で効いてないわけぇ!?」
 乃々花の心が助けを求めた途端、開いたドアから残っていた生徒たちが雪崩のように押し寄せる。残らされていたとも知らない集団は求めに応じ、体ごとアリスに突撃した。
 次の瞬間、不思議な現象が起こった。立っているだけのアリスを、誰も触れられなかった。あと一歩、手を伸ばせば届く間合いで静止した。通り抜けたとも、避けられたとも違う。到達すらできない境界線、次元ごと触る手段を薙ぎ払われていた。
 アリスは乃々花に目もくれず、集団ひとりひとりの肩を叩いて床に転がす。足に怪我を負っているにも関わらず、役目御免の通達を施す動きには痛みや、迷いがない。
「教えないのはフェアじゃないからね。私のは【視力】と【拒絶】。見る能力と、外部の影響を選んで遮断できる能力」
 集団を手早く捌いたアリスの左手が負傷した片足に伸ばされる。太股から足首に掛けて埃を払うように手をかざす。退けられたそこからは痛々しい傷が抹消されていた。存在しなかったように白い肌が見えているだけだ。
 超能力者に影響を与えようとするものならば、【拒絶】は全てキャンセルできる。滝本が見た光景、アリスがガラスの雨を浴びても無事だったのは能力を発動させたからだ。彼女の前には散弾も毒ガスも、全て無意味になる。核弾頭を落とされたとして、無傷で背伸びをしているだろう。
 与えられるものは空気に等しく、小石ひとつにも満たない。洗脳も同じだ。精神が他者によって揺らぐ可能性は、超能力では微塵もない。
 つまるところ、初めからアリスと乃々花の相性は最悪であり、最高だった。わざと魚は泳がされていた。受けたものなど、どうとでもなる。
「さすがにここまにされるとは思わなかったけど、これくらいは……ね」
「なにそれ! 無敵じゃん! なにそれ!」
「そうでもないよ。やりすぎるとあとで注意される。不摂生すれば自分に全部返ってくる」
 弱点がなさそうにも思えるが、能力を伸ばす暗示など自分の能力を高める要因も受け入れられない点だ。だが、今回の調査には不必要だった。
「あなたの気持ちはわからないでもないけど……自分を揺るがすものがないかって、ちょっと探してるところはあるかもね」
 聞き終わることもなく、乃々花は背を向けて走った。背負ったリュックについた、悪魔の小さな羽根が揺れる。
 また『初めて』を味わった。初めて、誰かに助けを求めた。心からこの恐ろしさから救ってほしいと。恐ろしさを知らないものが、恐ろしいの形を知った瞬間だった。
 逃げる背中に向かってアリスは銃を構える。腕時計を確認して、言い放つと同時に引き金を引いた。
「鹿野乃々花の強制停止措置フリーズを終了します」
 銃声ののち、対象は音もなく膝から崩れ落ちる。校舎のどこからともなく、異変に気づき始める声が涌いてきた。【魅了】が停止し、洗脳が解けた合図だ。
 アリスは銃を手放し、外で待機している辻間に連絡を入れる。コールが止むまでの間、麻酔で眠らされた乃々花を見つめていた。
「大丈夫。あなたが『私に相応しくなかった』だけ」
 感傷や憐憫と言った情は瞳にありもしない。状況そのままを報告するかの吐露だった。

  ◇  ◆  ◇

「お疲れさん」
「お疲れさまです」
 昇降口付近で校舎に出入りする後援部隊を見つめていたアリスに、辻間が缶コーヒーを渡してきた。
「今回も結局派手にやってくれたな」
「だから潜入は向いてないんですって」
「もうちょっと手加減しろ」
 アリスの電話を受け、辻間率いる部隊が校内に突入した。すでに乃々花は【500】に回収され、今は事後処理を任せられている部署が出入りしている。校内にいた人間全員に記憶の改竄と治療が施されている真っ最中だ。
「あとは辻間さんたちに任せます」
「報告書忘れるなよ」
「わかってます」
 缶の半分を飲んだところで、アリスは持ち出した荷物からメイクポーチを取り出して顔を整え始めた。ところかまわない見慣れた作業に辻間は呆れながらも、自分の平常を保ち続ける姿勢に感心する。
「ほんとメイク好きだな」
「好きですよ。これだけが私を変えてくれるので」
 メイクだけがアリスに唯一、意思を持って施せる。外見を飾り精神を鼓舞する、アリス自身に影響をもたらすことができる手段。武装であり、自己表現だ。拒絶をしても、しなくても意味を持たない。
 辻間には虚しく聞こえた。【拒絶】こそ世界から拒絶されている。【魅了】をもってしても、誰かの部品としても存在できない。孤独を抱えるしかなかった。乃々花は確かに『魅力的』な少女ではあった。だが、アリスにとっては笑顔を作る約束を誓った相手の足元にも及ばない。
 信じたものより確固たるものがあるはずない。そう信じたいのは、アリスの方かもしれない。だからこそ【500】のエキスパートとして組織にいることを望んでいた。還り死ぬべき居場所への固執と己の意味への執着は鹿野乃々花以上だろう。
 ファンデーションをのせたアリスに色が宿っていく。瞼、眉、頬。そして、唇。オレンジ色が濃く出る赤が鏡のなかで微笑んだ。そこに生物教師の黛アリスはいなかった。

「じゃ、解決祝いにデパコス見てきまーす」
 教職でなくなったエキスパートは颯爽と立ち上がり、コーヒーを片手に歩き出す。校舎には一度も振り向かず、敷地から去った。
 変われない自分を変えてくれる、まだ見ぬ相応しい色を求めて。