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小説『君のことを知りたい』

「え、ちょうど今日うどん食べたいなって思ってたんだ」

 思わず笑みがこぼれる。すると照れくさそうな顔でこちらを見上げる愛ちゃんが、

「えへへ。最近レポート提出の連続で忙しそうだったから、夕飯は胃に優しいものがいいかなと思って」

 そう幼さの残る表情ではにかんだ。嬉しさと愛おしさが湧き水のようにとばとばと溢れ返り、俺は彼女をぎゅっと抱き寄せた。

「愛ちゃん、どうして俺の考えてることが分かっちゃうの?」

 そう恋人どうしの甘やかな口調で聞いてみる。愛ちゃんは、同じ大学で出会った俺の自慢の恋人だ。付き合いはじめて2ヶ月ほどになるだろうか。彼女といるとこんな風に自然とでれでれとした口ぶりになってしまう。普段の自分はどちらかというとクールな芸風でやらせてもらっているため、こんなふにゃけた姿を知り合いに見られてしまったら恥ずかしくて息の根が停止してしまうかもしれない。けれどそれで成仏してしまっても構わないかも、とかぼんやり考えてしまうくらい、今、俺は彼女にどっぷりとはまってしまっている。

 愛ちゃんは潤んだ瞳でじっとこちらを見上げて、恥ずかしそうにこう言った。

「なんだろう……、きっと、みーくんのことが好きだから、なんとなく分かっちゃうような気がする」

 天使かな? と幸せなめまいを覚えながら、俺はいっそう強い力で彼女を抱きしめた。

「好きだよ」

 彼女の小さな耳たぶに口づけながらそう伝えると、愛ちゃんの肌の温度がほのかに上昇したのが分かった。以前はこんな自分じゃなかった。愛情表現が薄い、もっと言葉で伝えてほしい、そんな風に何度女の子たちに怒られて、何度泣かれてきたことか。

 そもそも距離の近すぎる関係が苦手だった。物理的にも心理的にも。俺はひとりの時間も大切にしたい。つねにそばにいられると気を遣ってしまって心が休まらず、結果的に冷たく接してしまう。だから友人にも恋人にもつねに一定の距離を測り、踏み込まれる気配を感じた瞬間さりげなく遠ざけたり、避けたりしながら自分なりの心の平穏を保ってきた。

 愛ちゃんは、俺のパーソナルスペースに無造作に踏み込んでくるようなことは絶対にしない。

 きっとそんな俺の気持ちを理解して、近過ぎず遠くない場所からいつも見つめてくれている。そんな健気な彼女の姿に、愛おしさは日に日に増していき、今や俺のほうからその距離を飛び越えて彼女に近づきたがっている。彼女にもっと触れたくて、彼女をもっと知りたくて、暇さえあれば会いに行く。愛ちゃんはそんな俺をいつも優しく受け止めてくれる。

 彼女の魅力は未知数。愛ちゃんは時に独特な切り口で自論を語り出したりもする(可愛い)。

「私スマホの指紋認証って苦手。なんか、前に一度登録してみたことがあったけど、全然認証してくれないんだもん。何度も弾かれるとむかついてこない?」

 以前、俺が指紋認証でスマホのロックを華麗に解除している隣で、愛ちゃんがそう唇を尖らせていた際にも、ずいぶん愉快な会話が繰り広げられた。

「いやいや、多分その時調子が悪かっただけだと思うよ?」

「ううん、何度やっても私の指紋、なんか相性悪くて。もしかしたら指紋が日々成長しちゃってて認証されないのかも」

「それはそれは興味深いなぁ」

「どうしよう、申請したら重要無形文化財に登録されちゃうかも」

「俺の彼女が文化遺産だなんて!」

 と互いの指紋をなぞり合いながら軽口を叩き合い幸福を噛み締めていた。

「ねぇ、私タイム測るから、指紋認証とパスコード入力どっちが早いかやってみて」

 くすくす笑いながら愛ちゃんがそんなことを言ってきた。

「私分かる。多分パスコードのほうが早い」

「いやいや」

「よーい」

「もう?!」

「スタート!」

 愛ちゃんが言うことは絶対だ。俺は持っていたアイスコーヒーをさっと手放して反射的に指紋を画面に押し当てる。しかし水滴が邪魔をして何度も失敗してしまう。

 5度目の挑戦でようやくロックが解除されたかと思えば「よーい!」という声ふたたび。愛ちゃんはくすくすと笑っている。弄ばれるというのも案外ぐっとくるものがある。

 高速でパスコードを入力して一発成功。タイムを大幅に縮めた。

「ほらね、言ったとおり」

「愛ちゃんってたまに突拍子のない人になるよね」

「それに応えてくれるみーくんが好きだよ」

 などと突然のカウンターをくらい、あの時は胸がきゅんと甘酸っぱくなったものだなぁとしみじみ思い返す。

「じゃーん! Amazonで見てたら可愛くて、つい買っちゃった!」

 ある日、愛ちゃんがそう言ってきらりと光る右手をこちらに見せてきた。

 わお、と純度の高い驚きの声がこぼれる。

 やっぱり、神様が紡いだ赤色の糸で繋がれているのかもしれない。

 こんな奇跡みたいな偶然、めったに起こらない。

「それさ、俺もまったく同じで、この間ポチったんだよね」

 俺は自分の右手の人差し指にはまった指輪をそっと掲げてみせた。

「えっ、すごい……! 奇しくも、お揃いになっちゃったね」

 愛ちゃんが頬をりんご飴色に染めてはにかむ。それが可愛くて俺も頬がほころぶ。

 互いに指輪のはまったほうの手を重ねあい、どちらともなくキスをした。

 それにしても、こんな運命的な出来事、起こるものなんだなぁ。

 

♡❤︎♡❤︎♡

 

 私はみーくんのことが大好きだ。

 涼しげな目元。甘やかな声。男の人って感じの骨ばってごつごつした腕。ぎゅっと抱き寄せてくれる優しい体温。みーくんといると心がぽわんと柔らかくなって、そのままとろとろに溶けて、私の内側はあっという間にみーくんでいっぱいになる。

 みーくんはモテる男の子だから。かっこいいし、優しいし。だから私はいつも不安になる。

 みーくんのことはもちろん信じているけど、でもやっぱり、彼の周りに女の子がいるとちょっともやもやしちゃうんだよな。

 そんなわけで、ついつい暇さえあればみーくんのSNSを見にいっちゃう。女の子のフォロワーが増えてないかとか。リプ欄をのぞきながら、親しげなやりとりがあったらどしようってハラハラしながらスクロールしたり。

 疑っているわけじゃないけど、どうしたって、気になってしまう。しかも私ときたら挨拶程度のリプの応酬ですらやきもきしちゃうのだから、いっそ見ないほうが健全のような気もしてくるんだけど(でも見ちゃうよねー)。

 みーくんへの愛情が増せば増すほど、彼のすべてが気になって、しかたなくて。

 ただ、みーくんが自分の領域にずかずか入ってくる人を嫌う傾向があることはもちろん承知している。

 でも好きだからこそ、もっともっともっと、彼のことを知りたくなる。

 交友関係も、趣味も、嗜好も、思想も、性癖も、行動履歴も、全部、全部。

 あの日、一瞬だけ目に入ったパスコード。

「ねえ、私タイム測るから、指紋認証とパスコード入力どっちが早いかやってみて」

 と純粋なお遊びとしてそう言った、だけだった。

 誕生日だなんて、単純なコードにするから。私の網膜は彼が早打ちするその数字の羅列をくっきりと焼き付けてしまったのだ。

 はじめてみーくんのスマホに触れたのは、彼がうちに遊びにきたものの疲れ果てて眠ってしまった時だった。

 最初は軽い気持ちだった。合ってるかな? とただ答え合わせをするような気軽さでタップしてみると瞬く間にロックが解除された。高揚と動揺が胸でシェイクされ、私はばくばくと跳ね上がる鼓動の音がみーくんに聞こえてしまう前に慌ててスマホをもとの位置に戻した。

 最初は軽い気持ちだった。でも一度みてしまうと、どんどんどんどん気になってやめられなくなった。

 みーくんにはいつだって笑っていてほしいから。なんの取り柄もない私だけど、せめて、「この子と付き合ってよかったな」って思ってもらえるように、ずっとずっと私だけを見てくれるように、精一杯頑張りたいから。

 みーくんは普段どんな人とどんなやりとりをしてるんだろう。どんなアプリを常用しているんだろう。メモ帳にはなにを残す人だろう。日頃どんなことを検索しているんだろう。

「え、ちょうど今日うどん食べたいなって思ってたんだ」

 みーくんはそう言って目を丸くしながら、感嘆の息をもらした。その驚きと恍惚の混じったような表情に、私の胸はとくんと甘く鳴った。

「えへへ。最近レポート提出の連続で忙しそうだったから、夕飯は胃に優しいものがいいかなと思って」

 などと言っていかにも気の利く彼女のように振る舞った。普段みーくんは忙しくて疲れている時こそがっつりご飯を食べたがる人だけど、数時間前に彼がうたた寝をしている際にスマホを拝見したところ、”胃腸 痛む”、”疲労 食欲不振”、”消化のいい食べ物”、などといったワードを検索していた履歴が残っていたため、急いでうどんの材料を買いに行った。

 好きだから。彼のことをもっと知って、もっと好きになってもらいたいから。

 いつだってみーくんにとって最高の私でいたい。いけないと、頭では分かっているのに、神様が結んだ赤色の糸が私の身体を引っ張っているみたい。彼が最近ハマっているYouTuberが分かればすぐにチェックしたし、「私最近このYouTuber好きなんだ」とさりげなく語り、趣味がばっちり合致する彼女になりきった。彼がどんな女の子のビデオを好んでみているかも調べればすぐに分かったから私なりに分析もした。喘ぎ声に共通した特徴があることに気づいて実践してみると絡み合った肌はよけいに熱を帯びていった。

  強い思慕が私の背中を押す。好きだから知りたい。彼の完璧になりたい。

 知りたいは愛だ。支配こそ自由だ。沼らせてからが本編だ。

 ある夜、例の如くパスコードのロックを解除して、小慣れた手つきでみーくんのスマホにログインしていた。彼のスマホは今やすっかり私の手のひらに馴染んでいて、まるで私を飼い主だと勘違いしている四角い生き物みたいだ。

 LINEをすらすらと流し見する。みーくんの親友である田口くんとのトークルームが上部にあったため、なんとはなしに開いてみる。私の話とかしてくれてたりしないかな、といつも期待して見てしまう。でもたいがいサークルの集まりのことばかりで私の出番などないのだけど。

 と思いつつやっぱり期待して見てしまうのが乙女心。開くと、

『え、それ大丈夫そう??』

 という田口くんのメッセージに、

『んー……いやぁ、ねぇ?笑』

 とみーくんが返信してやりとりが終了していた。

 何事! と私は急いでメッセージを遡る。するとみーくんの自白のような連投が目についた。

『あのさ。ちょっとまぁ、軽い気持ちできいてもらっていい?』

『なんか』

『まだ分かんないんだけど』

『この前、俺がうたた寝してる時に、彼女が俺のスマホ触ってた気がして』

『なんか色々思い返すとさ』

『俺のスマホ』

『彼女に乗っ取られてるかも……』

 おう……、と思わずこぼれた低い声がぽつりとスマホの画面に転がり落ちる。かも、ということはまだ確証は得てないのだろう。最近ちょっとでしゃばり過ぎてたかもしれない。いけない。これはみーくんのための行為で、彼を怖がらせるようなことは絶対にあってはならない。

「愛ちゃん」

 その時背後から声がして、やば、という声を本能で腹の底まで飲み下した。まずい、動揺しすぎて、警戒機能が停止していた。お風呂から上がるタイミングなんていつもすぐに分かるのに。

 私は波立つ感情をどうにか鎮めて押し殺す。すっと口角を引き上げ、1秒間瞳を閉じて、静かに深呼吸をした。

「ごめん、テーブルに置かれてたみーくんのスマホ落としちゃって。傷ついてないか確認してた」

 みーくんのことをじっと見上げる。違うの、あのね、疑ってるとかじゃなくて、というかもうそういう次元じゃないの。愛なの。知りたいは愛なの。そう想いをこめて見つめるのだけど、眉間にしわを寄せたまま口をつぐむみーくんとは、ちっとも、ちっとも目が合わないのだった。

 ていうか、あれ、みーくん、お揃いの指輪してなくない?

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