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小説『ファインダー越しに見つめる世界』

第一章「(500)日のサマー」

お姉ちゃん、と声がした気がして、イヤホンを片耳外す。

「お風呂上がったよー」

 という妹の由佳の声が頭上からふってきて、ん、と頷きながら私はパソコンの停止ボタンを押した。

「うわ、またその映画観てたの?」

「うわ、とはなによ。なんか定期的に観たくなるんだよね」

「あたしも一回観たけどさ、主人公の男の恋愛思想がキモすぎて無理」

 そう由佳がわざとらしく顔を歪めるから笑ってしまう。『(500)日のサマー』という映画が昔から気に入っているのだけど、今日ふと観たくなり久々にだらだらと流し観ていた。ロマンチストで運命の恋を夢見る主人公の男の子と、チャーミングだがしたたかで現実的なヒロインの女の子との甘くて苦い関係を描いた作品だ。この正反対な恋愛観なゆえにふたりが徐々にすれ違ってゆく描写が見事で、恋愛のうまくいかなさを軽妙に暴き出していく。ヒロインのサマーがキュートで小悪魔的ですごく可愛いのだけど、映画や小説によくあるありがちないわゆる「運命の相手」、「奇跡の出会い」みたいなものを一切夢見ていない性質の子で、迷うことはあれど決して折れない自身の信念を持つ彼女が、私はけっこう好きだ。好みが分かれるヒロインだろうけれど。

 ぱたんとノートパソコンを閉じる。私も入ってくる、と誰に言うでもなく呟いてふらりと部屋を出た。

 リビングを通ると、

「あ、春香ちゃん」

 と声がして、ゆっくりと振り返る。

「この間、シュークリームの話をしてただろう。好きだって言ってたやつ」

 じゃり、と髭を撫でる音がやけに耳につく。乾燥でひび割れた唇から続けて言葉が紡がれる。

「あれ買ってきたんだよ」

「あぁ……どうもありがとう」

「冷蔵庫に入れてるから、あとで由佳ちゃんと、」

「はーい、あとで食べまーす」

こめかみのあたりに苛々したものがよぎって、食い気味に返事をしてしまう。気まずい空気が流れるより前に、私はすたすたと足早に浴室へ向かった。

 湯船に浸かり、持ち込んだスマホでLilyの音楽を流す。ライブの1曲目はこの曲でも素敵だな、などと思いながらポップでノーブルなピアノのフレーズに耳を澄ます。煌びやかでアップテンポな音楽が、胸のうちの憂鬱を連れ去るように流れる。つい最近ライブの開催が発表されたから、近頃は空想セットリストを考察したりしながら、当落の結果を待ち侘びている。


第二章「SNS上でのみ会える女の子」

次曲はなにで繋ぐのがエモいだろう、とふたたびスマホをスクロールする。こうやって音楽を聴きながらお風呂場でくつろぐ時間が好きだ。お湯には神秘が含まれていると思う。包まれていると、心の中の淀んだ感情がじんわり溶けて流れ出ていくような気がする。ほどけた気持ちでぼんやりと音楽に耳を傾けていると、ピコンと通知音が鳴った。画面に目をやると、iからDMを受信した旨が表示されている。開くと、『当選!』という2文字が目に飛び込んできて思わず、わ、とはしゃいだ声が漏れた。

『やった、めちゃくちゃ嬉しい! 今心臓がばくばくしてる』

 と鼓動の高鳴りを感じながら、そう返信する。iは、SNS上で知り合ったLilyリスナーの女の子だ。彼女とは1年近く交流が続いていて、SNS上のみでしか繋がれていないが、今やリアルの友人以上にやりとりを重ねているかもしれない。たしかLily公式SNSが、#わたしが考えるLily最強5曲セトリ、というハッシュタグをつけてファンに投稿を募集するという企画を開催していたのだけど、iとはそれを契機に親しくなった。50曲近くある楽曲の中からたった5曲しか選べない、高難易度の嬉しい試練を与えられてファンはみんな苦悩しながら各々のセンスを披露していたのだが、そんな中、自分と全く同じ選曲・曲順の投稿を発見して私は仰天した。それがiとの出会いだった。それも、いわゆる定番曲、人気曲で固めたセトリならまだしも、私はメジャーセカンドシングルにしか収録されていない曲(それもライブでもたった一度きりしか披露されていないレア曲だ)など組み込んでいたため、その投稿を発見した瞬間、まるでドッペルゲンガーに遭遇してしまったかのような強烈な衝撃を受けた。どきどきしながら黙視を続けていたのだけど、なんと彼女のほうからリプが届き、私は秒速で返信した。それ以来互いの投稿に「いいね!」やコメントを送り合ったり、新曲が出るたびに感想大会を繰り広げたりと自然に繋がり続けている。SNSは随分昔から利用していたけど、ここまで親しくなった人物ができたのは初めてだった。だからこそ、その彼女と今度のライブで初めて対面するというのがもちろん嬉しさもあるけれどそれ以上にすごく緊張もしている。私は、人と関わるのが本当に下手くそだから。今も昔も。


第三章「 甘くて苦いシュークリーム」

「シュークリームの話、覚えてたんだ」

 ぽつりと落ちた独り言が、湯船に落ちてぶくぶくと沈んでいく。胸の内にはまたモヤモヤとしたものがあぶくのように浮かび上がってくる。せり上がってきた感情を噛み殺そうとしたけれど、奥歯の隙間からはみ出た気持ちが口からこぼれていく。

「シュークリームが好きなわけじゃなくて、思い出が大事なんだよ……」

 言葉にするとやっぱり胸がつきんと痛んだ。お父さんがいつも仕事帰りのお土産に買ってきてくれていた、スーパーの安いシュークリームの甘ったるい味が、べったりの舌の上に蘇る。以前、

「春香ちゃんはお菓子とかあんまり好きじゃないのかな」

と聞かれたことがあった。彼が手土産に持参するお菓子に私が全く手をつけずにいたから問いかけてきたのだろう。

「シュークリームが好き。スーパーにある、なんてことない安いやつ」

と、私は中島さんに言った。自分がどういう気持ちでその話題を口にしたのかよく思い出せない。中島さんがシュークリームを買ってきてくれたところで、決して、父の代わりになんてならないのに。
 ドライヤーで乾かしたばかりの髪がふわふわと揺れる。キッチンで洗い物をしている母に

「お風呂あがったー」

と声をかける。母は、中島さんがいるからまだメイクを落とせない。入浴はもう少しあとになるだろう。そんなことを考えながら冷蔵庫からシュークリームをふたつ取り出す。

「ありがとう、中島さん」

 声にそっけなさが滲んでいるのが自分でも分かる。中島さんはさして気にするそぶりもなく、はあいとゆるい返事をした。

「夜のデザートでい!」

 部屋に戻ると、由佳がベッドから跳ね起きて無邪気に目を輝かせた。その姿に、私はまた心臓の裏側あたりがモヤモヤとしてくる。

「由佳はさ」
「ん?」
「……お父さんとの思い出が、上書きされるみたいな感じしないの」

 子供じみた思考だと自覚があるから、口にした瞬間首のあたりがかっと熱くなる。あー、と由佳が間延びした声をこぼし、ややあってこう言う。

「別に、お父さんと中島さんってどうしたって違う人間なんだし、そもそも上書きって考え方が分からんよ。別フォルダでしょ」
「まぁ、うん、それはそうなんだけどさ」
「あたしだって、お姉ちゃんと同じくらいお父さんのことが好きだったから、今でも家を出てっちゃったことに傷心しちゃうけどさ」
「……うん」
「でもしゃーないことって、あるよ。てか、そう思うしかないっていうか。そう思わないとやっていけないっていうか」

 と由佳があまりに淡々と言うから、私は諭されたような気持ちになり黙って手のひらの中のシュークリームに視線を落とした。


第四章「 中島さんという人」

2年前、深夜のリビングで父がどうしても他の女の人と一緒になりたいのだと母に頭を下げていた現場を、トイレに立った私は偶然見てしまった。ちょうどその1年前に父の転勤が決まり、仙台から神奈川に引っ越しをして、家族みんながようやく新しい生活に慣れ始めた頃のことだ。それから二人で何度も話し合いを重ねた末に、母は父を手放してあげた。それからの母は、私や由佳の前では気丈に振る舞っていたが本当は心の底から狼狽しているのが痛いくらいに分かって、だから私たちは一層母に寄り添い家族の絆を固くし合った。そんな最中、現れたのが中島さんだった。彼は最近うちの家事や雑務の手伝いにきてくれている、母の同僚の男の人だ。中島さんがうちにくるようになってもう3ヶ月ほどが経つが、近頃の母はふとした横顔が艶っぽく以前の明朗さを取り戻しつつあるように思う。
「同じ会社の人でね、すごくよくしてくれて助かってるの」
としか、彼のことについては説明を受けていない。けれどきっとお互いを大切に想いあっているのだろうことは、子供の私たちからみても1足す1の答えを出すくらい簡単に分かる。

 しんとした部屋の空気に一滴の温度を落とすような声で、由佳が

「それにあたし、中島さんのことけっこう好きだよ。いい人そうだし」

 そう言うと、クリームのついた指で最後のひとくちをぱくりとした。私はまた閉口する。

 私は、どうしたって、由佳のようにすんなり受け入れきれない。

 むしろ、どうして由佳はそんなに簡単に父を赦せて、そんなに気軽に中島さんを許容できるのだろう。

「ダイエット中だから、由佳にあげる」

生ぬるくなったシュークリームを無理やり手渡して立ち上がる。おもむろに机上の一眼レフカメラを取り首から下げると、私は逃げるように部屋を出た。


第五章「今夜の月は綺麗」

夜道を散歩したい気分だった。2月の夜はまだ寒い。けれど月の色はだんだん春めいて、柔らかい金色に変化している。うちは神奈川の田舎のほうだから、街明かりも少なくて濃紺な夜に月がよく映える。

 今夜の月は綺麗だ、そう思って、空に向かってカメラを構える。

 指先でピントを合わせていると、ふいに涙が込み上げてきたからぎゅっと目をつむり、瞳の奥に押し込んだ。このカメラをくれたのは父だった。写真を教えてくれたのも父だった。今思い返してみても、私たちはちゃんと父に可愛がられていたし、優しかった思い出ばかりが蘇ってくる。記憶の中の父はいつも顔をくしゃくしゃにして笑っている。好奇心旺盛な私たち姉妹にいろんな遊びを教えてくれた。その中で私はとくにカメラに関心をもち、父と一緒に様々な写真を撮った。いい写真が撮れると父は私の頭を優しく撫でてくれた。その大きくて分厚い手のひらが好きだった。母から、父が他の家族の父になったのだということを知らされた。母は憎んでいるようでもあったし、ひとりで抱えきれず憔悴しているようでもあった。私はものすごい裏切りを受けた気分になったし、母を傷つけ続ける父を強く憎んだ。父は、もう、私たちだけの父ではなくなって、一番愛されるのは新しい家族なんだ、と思うと涙がこぼれるのを止められなくなってしまった。父が出て行ったあとですら、私は、きっと世界で唯一の子供なんだからとまだ深い繋がりや愛情を期待してしまっていたのだと思う。その想いも打ち砕かれて、心はぽっかりとした空洞が広がった。

 それなのに、もう何度も怒りと悲しみに黒く塗りつぶされたのに、優しかった父の姿が消し去られることはなくて、どうしても父を嫌いになりきれない自分がいるのだった。父への嫌悪と未練がぐちゃぐちゃにシェイクされた暗い感情は、結局のところ、行き場なく彷徨った果てに、中島さんにぶつけられているようにも思う。

 ぶん、と強く頭を振り、カメラに集中する。今夜は綺麗な満月で煌々と光っている。ふたたびピントを合わせ、息を潜めてファインダーを覗き込む。夜空に浮かぶ輝く月。一番美しい角度、画角を探る。少ししゃがんでみたり上体を傾けたりしながらようやくベストな風景を捉えているうちに、かっと眼球が開く。ここだ、と思いのままにシャッターを切った。

ふぅ、と詰めていた息を吐く。白い息が夜の空気をたゆたい、消えてゆく。上手になったね、と褒めてくれる父はもういない。


第六章「ブルーアワーの空の色」

部屋に戻り、カメラのデータをスマホに取り込む。由佳はイヤホンを差して、KpopアイドルのMVを夢中で鑑賞している。

 稀に、一眼レフカメラで撮った写真をSNSに投稿することがある。私が常用しているSNSは音垢だから頻度は低いけど、その気まぐれにあげた写真にもわずかながらのリアクションがつくことがあり、それが結構嬉しかったりする。

 先ほどの月の写真を投稿すると、すぐに通知音が鳴った。iから、いいね!を意味するハートの反応とリプがきている。『月、めちゃくちゃ綺麗』というシンプルな文言が、真っ白な粉砂糖をひとくち舐めた時みたいに、私の心を甘くする。痺れるような気持ちで指先をスライドし、彼女に返信する。

『今夜の月はすごく綺麗だよ』

『うそ、ちょっとベランダ出てくる』

 というメッセージを最後にしばらく沈黙していたが、しばらくしてまた通知がくる。

『やっぱり月がうまく撮れんよ』

 そんな一言とともに、月が浮かぶ夜空の写真が添付されている。おそらくスマホで撮影されたのであろうその写真は、たしかに月があまりに遠くて小さいのだけど、周囲に高い建物がなく、広い夜空の月明かりにのみ焦点を当てた写真は素朴なのにどこか宇宙的な壮大さもあり、不思議な魅力を発揮していた。

『いや、その土地の空気感が伝わってきて、純粋に素敵な写真だと思ったよ』

 そう返信しながら、iはたしか東北に住んでいるのだと以前聞いた気がしたのだけど、もしかしたら仙台なんじゃないだろうかと直感的に思った。決定づけるような風景が映り込んでいるわけでは全くないのだけど、神奈川に引っ越してくる前は仙台で暮らしていたから、なんとなくあの朴訥とした土地の匂いを彷彿させた。

 仙台時代のことを思い返すと、とびきり楽しかった記憶と、最後の最後にうまく気持ちを伝えきれず、気まずいまま別れることになってしまった切ない記憶の両方が蘇り、口の中が苦くなる。親友の女の子がいた。引っ込み思案な私にいつも楽しげに語りかけてくれて、彼女と話しているとささいな話題も全て可笑しくなって、笑って、私たちはいつだって一緒だった。彼女を好きな男の子がいたのだ。彼はクラスでも人気のある涼しげな顔つきをした文化的な人だった。仲を取り持ってほしいと丁寧にお願いされて、彼と彼女はとても似合いそうだなと勝手に胸が躍った。だから頑張って、できるだけ自然に、間に入ろうとした。けれど気を利かせようとすればするほど、彼女はだんだん私を避けるようになり、迷惑だったなら本当のことを全部話して謝りたかったけれど、彼から絶対に思惑を伝えないでほしいと懇願されていたこともあって、結局周囲の顔色を窺ってばかりで誰にも自分の本音を話せないままだった。さらにちょうどその時期父の転勤が言い渡され、私はごめんもばいばいも言えずに転校してしまった。

 もしかして仙台に住んでるの?と文字を打っている途中に、iからまた写真とメッセージが送られてきた。

『昨日撮ったやつなんだけどさ。さまちゃんがこの間教えてくれた、ブルーアワーって時間帯の空の写真。私もこの濃い青色の空がすごく好きみたい』

 広大な空一面が澄んだ群青色に染まった写真だった。綺麗、と思わずこぼれる。ブルーアワーとは日の出前と日の入り後の空が深い青色に染まる時間帯のことで、去年観た映画の中ではじめてその言葉を知り、その特別めいた言葉の響きと美しい空の色にすっかり魅了されてしまった。それに1日がはじまる直前と1日が終わる直後のいっときだけ、世界が海のような宇宙のような青色に包まれてしまう光景には、言葉にしがたい清らかな神秘を感じる。


第七章「素敵なものだけカメラに収める」

自分が好きなものを、こうして同じように好きになってくれることが心から嬉しい。iとやりとりをしていると、会ったこともないのに、まるで古くから友人であるような懐かしさや、安心感みたいなものを感じるのだから不思議だ。そう思うと急に温かいものが目の奥から駆け上がってきて、衝動的に泣きたい気持ちになった。どうしよう、今、ものすごく誰かと話したくて、すがりたい気分だ。

『めちゃくちゃ、突然なんだけどさ』

 文言を確認するより前に、勢いで送信してしまっていた。iからすぐに『お、うんうん』と短い返信がくる。

『すごくプライベートな話で恐縮なんだけど……軽い気持ちで聞いてね。なんかさ、最近、母親の新しい恋人みたいな男の人がうちによくくるんだけど』

『ふむ、なるほど』

『なんていうか、どうしても、その人を受け止めきれなくてさ。あ、うち離婚してて。父は父で、別の家庭で幸せになっちゃって、最低だ、お母さんが可哀想だ、ってすごく悔しい気持ちになるのに、私めちゃくちゃお父さん子だったから……優しかった記憶ばかり思い出しちゃって、父のことを忘れられなくて、嫌いにもなれなくて』

『でも、母に父とやり直してほしいとかそういう願望があるわけでもなくて、ただ、自分の感情がまだうまく整理できなくて、その新しい男の人を許容できるキャパがないというか』

 メッセージを連投し終えたあとで、唐突にこんな重たい身の上話をしてしまった後悔が押し寄せてくる。逆の立場をになって考えてみても、返答に困って苦い顔をする自分がゆうに想像できる。どうして私はいつも相手の気持ちを思慮せずに突っ走ってしまうのだろう。あぁ、とひとり頭を抱えていると、ピコンと通知音が鳴る。

『さまちゃん。そんな大事な話を私なんかに相談してくれて伝えてくれてありがとうね。その新しい男の人はさ、悪い人なの?』

 iの優しさに胸の奥がじわじわと和らいで、私の心を覆っていて自己嫌悪の膜がぼろりと剥がれ落ちていく。

『正直、悪い人では、ない……』

『そっか。まぁ、難しい問題ではあると思うけどさ。結局のところ、さまちゃんがどうしたいかじゃない? その人に無理に寄り添う必要もないと思うし』

 そう、iに言われて、私は改めて強く自覚するのだった。

 私は無理に寄り添おうとしているわけでも、本気で拒絶しているわけでもない。むしろ、本心では、中島さんという存在と、きちんと向き合いたいとすら思っている。

 でも父に対する未練に似た想いを捨てきれなくて、その子供じみた感情を私はきっと中島さんに爆発させてしまいそうで、そんな滑稽でみっともない自分の姿を見たくないし、そんな自分に呆れる母や由佳や中島さんの顔も見たくない。

 だから、関わるのが怖くて、逃げてばかりで、中島さんの前ではいつだって喉が硬く凍って何一つ本心を言えなくなってしまう。

 さまちゃんがどうしたいかじゃない、というiの言葉が、ふたたび網膜に浮かび上がる。

 向き合いたい、と頭では思っているものの、いざとなると感情がいっぺんに混ぜっ返されて、まとまりきらない気持ちはやがてイライラしたものに変わり、私はいつも俯き黙ってしまう。

『なんか、ちょっと、気持ちが楽になった。ありがとう。iちゃん、また写真送ってね』

そう送り、SNSを閉じた。

 洗面所に向かう途中、楽しげな笑い声を耳が拾う。リビングで談笑している母と中島さんだ。メイクもあるだろうが、母の頬は血色がよく、くんと高く上がっている。その向かいで目元を柔らかくして微笑む、中島さん。

 私はポケットからスマホを取り出した。その時衣擦れの音がして、スマホを構える私に中島さんが気づく。カシャ、と音が鳴る。シャッターボタンから指を離すとなんだか気まずいような小っ恥ずかしいような思いになり、二人の顔を見ずに慌てて部屋に駆け戻った。

「お姉ちゃんどうしたの、ばたばたと」

 由佳の声を無視して、上がった息を整えながらスマホの画面を見る。カメラに気づかず朗らかに笑う母と、ぽかんとした表情でこちらを見る中島さん。彼の間の抜けた表情に、思わずふっと息が漏れる。

 私はイヤホンを耳に差し、Lilyの音楽を流した。彼女の声を耳から身体中に流し込み、まだ早鐘を打ち続ける心臓を落ち着ける。

「自分が素敵だと思ったものだけ、撮るようにしてるんです」

 以前、中島さんにそう話したことがある。この言葉はまっさらな本心だった。私が好きだと話したカメラにも興味を持とうとしてくれる、人のいい中島さん。素敵な二人。彼は、あの時話した私の言葉を、覚えていたりするのだろうか。


小説「ファインダー越しに見つめる世界」
三月のパンタシア「春嵐」原案小説

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