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小説 『真冬の薄明に手を伸ばして』

第一章「水色のまどろみ」

冬の乾いた光が机に降り注ぐ。窓際の席は否が応でもこのうっとおしい日差しがまとわりついてくるのが煩わしい。昼休み、私は目を細めながらスマホの画面を見下ろし、埃を払うような適当さで指を滑らせて、SNSのタイムラインをぼんやり眺める。音楽、ゲーム、美容、ゴシップ、あらゆる情報が私の網膜を通過していくが、そのほとんどはいつの間にか脳のどこかで消えていく。しばらく眺めてみるも、小さくため息を吐き画面を閉じた。どうでもいいノイズで頭の中を濁し、思考が曖昧になる。この何も考えずにいられる時間が私は嫌いではない。

 ちらりと目だけで空を仰ぐと、薄灰色の雲が動き、もう日光は遮られていた。外の景色に目をやる。うちの教室からはグラウンドが見渡せて、その隅に設置されている部室棟までよく見える。部室棟、といえば部活の時間以外は主に恋人たちが利用するもので、今も、いくつかの扉から男女が出入りする姿が伺える。彼氏もしくは彼女ができると、昼休みに部室に連れ込み一緒にお昼を食べる、という奇妙な伝統があるのだけど、どうしてあんな汗臭い場所に閉じ込められてまでいちゃつきたいのだろう、とやや滑稽にも思う。

 あら、と心の声が漏れる。陸上部の部室から出てくるみぃこの横顔を視界が捉えた。そういえば最近彼氏できたとか言ってたっけ。みぃこは動作が大きいから、はしゃいでいる様子が遠目でもよく分かる。ふうん、という気持ちでさらりと目を逸らすつもりが、だんだん苛立ちに似たもやもやした感情があぶくのように浮かび上がってきて、私は気を紛らわすようにふたたび視線をスマホに戻した。ずりずりと画面の上で指をスライドする。もうすぐ大会近いのに、なんていう理不尽で一方的な思いを、擦り潰すように。

 ふいに、ある投稿が目につく。Summerが「now playing」という一文とともにサブスクのリンクを貼り付けている。Lilyの「水色のまどろみ」だ。曲名を見た途端、分かる、と私は深々と頷いた。音数は少なく素朴だが一音一音に煌めきが滲んでおり、跳ねるように歌うボーカルが特徴的なアップテンポなこの曲は、冬の昼下がりの気怠さを拭い去ってくれるみたいだ。脳内で再生させただけで、頭の中の風通しが少しよくなりぱちりと目が冴える。この時間帯にぴったりな曲だ。「分かる」と心の声のままリプを送ったところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。慌ててお弁当箱を片付け。スマホをポケットにしまう。


第二章「 SNS上でのみ会える女の子」

5限は数学。カツカツ、規則的な音を立てて先生が黒板に数式を羅列していく。それをノートに写しながら、脳裏ではSummerが投稿していた曲がまた頭をめぐる。BPMは160くらい。ポップで華やかなピアノフレーズと、ボーカルの丸みを帯びた声の良さがすごくよくマッチしていると思う。Summerも同じ高校2年生だから、昼休みのまどろみから目覚めたくてこの曲を聴いていたのかもしれない、と想像すると、会ったこともないのになんだか勝手に親しみを覚えてしまう。

 私はLilyという女性アーティストのファンだ。Summerもまた同じで、彼女とはLilyをきっかけにSNS上で繋がった。きっかけは、たしかハッシュタグ系の企画だったっけ。Lilyの公式SNSで、『あなたが考える最強の5曲セットリストを教えてください!』のような内容の投稿がされ、#わたしが考えるLily最強5曲セトリ、というハッシュタグをつけてファンが投稿するという企画だった。たった5曲しか選べないのかと悶えながらも、私は自分が好きな曲、再生数の多い人気曲、それらの曲を並べたときに文脈の反れない、かつコアファン向けの曲、というようにとにかく練りに練って、なんとか5曲をセレクトした。もしかしたらLily本人が見てくれるかもしれないと思うと、たとえ数日かけてでも全力で張り切るのがファンというものだ。投稿が完了してひと息つき、どれどれ、とハッシュタグ検索をして他のファンの人たちのセットリストを眺めている中で、私は思わず目を疑ったのだった。

 自分と、全く同じセットリストを投稿している人がいた。それがSummerだった。それを発見した瞬間、私は頭の中でどでかい打ち上げ花火が上がったかのような衝撃を覚え、まぶたの裏側にきらきらと火花を散らしたまま、自らリプを送ったのだった。Lily専用アカウントを作ったのは最近で、基本的には見る専門の私からしたら、とても大胆な行動だったが、昂まった気持ちが考えるよりも先に勝手に指を動かした。慣れないことをしたため、リプを送った直後「全く絡みのないアカウントからのリプ、キモかったかな……」と早々に不安になったが、Summerはすぐに返信をくれて、ほっと胸を撫で下ろしたこともよく覚えている。お互いどういう流れでこのセットリストを組んだかをやりとりし合った。理由はそれぞれ異なっていて、彼女の思想はちょっとトリッキーですごく思慮深くて、やりとりをしているうちに私はすっかりSummerのことを好きになってしまったのだ。それ以来、何気ない投稿でもよく絡むようになり、実は同い年であることや、彼女が横浜に住んでいることなどを知っていった。


第三章「空想の中を走る」

瞳を閉じ、脳内を満たす音楽に意識を委ねる。BPM160はランニングするのにちょうどいいテンポだ。音に乗って小さく顎を揺らす。瞼の中の薄闇で、ビートに合わせて走り出す自分を空想してみる。軽やかな足取り。息はほんの少し上がっていて、心臓は心地のいいリズムで脈打っている。新鮮できらきらした空気が肺いっぱいを満たしている——。

「おうい」

 というみぃこの声で、現実に引き戻された。授業はすっかり終了していて、休み時間の喧騒が耳になだれ込んでくる。

「藍、爆睡だったじゃん」

「おはよ」

「まぁ午後一発目の数学はダルいわ」

「んね」

「あんな長い数式覚えて、何に使うんよ」

 と嘆くみぃこにくくっと笑ってしまう。それすぎ、と同調しながら、私は大きなあくびをした。

「なに、藍、寝不足なの?」

「んー、昨日の24時にLilyのライブ映像が公開されたから、なんかずっと観ちゃって」

「でたよLily」

「そー。私の推し」

「ほんと好きだよね」

「私って一度好きになるとめちゃくちゃ一途なタイプだから」

「はいはい。それはそうとさ、最近、調子どうなの」

 と、みぃこが事もなげにそう言って、私の右足を指した。

「あぁ、まぁまぁいい感じだよ」

「そっか」

「ん」

「てか、もう年末ですわね」

「ね、12月は走るように去っていきますわね」

「藍は冬休み、何するの?」

みぃこは軽い調子を装うのが上手だ。本当に上手だけど、それがこちらへの気遣いなのだということに私はすぐに気づいてしまう。

「ううん、とくにまだ考えてはないけど、色々やることはある気がする」

「何その曖昧な言い方! もしかして藍、彼氏できたか?!」

「いやできてないし。あ、みぃこ昼休み部室使ってたでしょ」

「わ、バレた?」

「私の席からモロバレだから」

「てへ。まぁなんていうか、彼氏できると張り合いが出るよ。恋愛も部活も勉強も頑張らなきゃーって」

「進研ゼミの漫画の人じゃん」

 と茶化すもみぃこは照れくさそうにはにかんでいる。部活、という響きが脳裏を漂流し、意識に絡みついてくる。

 ずくんと右足が痛む。

 みぃこが言う。

「冬休み、暇なんだったら練習顔出しにきなよ」

 みぃこはやはりとても自然な口ぶりだが、声の響きに少しの緊張が滲み出ていているのだが、空気を伝って私の耳まで届く。

「まぁ、行けたらいくかな」

「うわ、それ行かない人の常套句」

 とみぃこが頬を膨らますから苦笑してしまった。
その時チャイムが鳴り、みぃこはハッとした表情を見せて「現文の予習やってないんだった!」そう言って駆け足で席へ戻っていった。教室の埃が舞い、日差しに反射して鈍くきらめく。私は窓を開けて、澱んだ空気の入れ替えをした。


第四章「真冬の河川敷を走れない」

放課後、甘い夕日の色が青に滲み出している。東北の冬は夕暮れからもう夜みたいに寒い。冷たい空気が頬を切る。下校する生徒たちに紛れて河川敷を歩いて帰途をたどっていると、ふいに自転車に乗った中学生らしき男の子と、それを走って追いかける友人らしき男の子が隣を通り過ぎていった。風に乗って、楽しげな笑い声が運ばれてくる。空気が私の短い髪をわずかに揺らす。鋭く透明な匂い。記憶に浮かび上がる冬のグラウンドの光景。リュックの肩紐をぎゅっと握りしめる。
 ひと息吐き、私は、スニーカーの爪先に力を込めて、地面を蹴った。
風の抵抗を感じながら、走る。前髪がぶわりと後ろに流れる。少しずつスピードを上げる。体の軸を意識して地面から受ける力を推進力に変える。制服のスカートが太ももに張りつく。
 あ、いけるかも、と大きく踏み出そうとした瞬間、景色がぐるりと切り替わり、空が真夏の群青色に変わった。

 夏の大会。位置について、用意、の声。号砲が鳴る。スタートダッシュは好調。緊張と高揚が心臓を高く跳ね上げる。追い風が吹いていた。風を裂くように走り、レース前半からトップを走り抜ける。
 自己ベストだ、といっそう鼓動が高鳴り、爪先に力を込めた瞬間だった。右太ももの裏側に激痛が走った。一瞬、呼吸ができなくなり、なんとか酸素を取り込もうと深く息をして、それからはもう頭が真っ白で気づいたらトラックの上に倒れてうずくまっていた。遠くで部員たちの声がした。そのままタンカに乗せられ、呻き声だけを残して私は競技場を去った。
 河川敷で、まるで足が固まってしまったみたいに、立ち止まっていた。風は吹いていない。下校中の生徒たちの笑い声が空気をたゆたっている。
 今年の夏に肉離れを起こした。大会中の出来事だった。医師からは、どんなに入念にウォーミングアップを行っていても、なる人はなるものだと励まされた。それからリハビリに励んだ。2ヶ月後には完治して、先生からも戻って大丈夫だと判断された。どきどきしながらひとりグラウンドに立ち、久々に地面を蹴る感触に胸は早鐘を打った。
 でも、だめだった。最初の数秒はよかった。けれど足をすすめていくうちにどうしても、意識が、負傷したあの瞬間にさらわれてしまって、どうしても足をかばうような走り方になってしまい、どうしてもどんどん失速していくのだった。頭の中を空っぽにして、忘れる努力をして、もう一度トライしてみるもできない、全然、うまくできない。つい数ヶ月まで綺麗に定着していたフォームを保てない。体の軸が掴めない。思うように走れない。痛みの記憶を、払拭できない。

 はぁ、と低く暗いため息が漏れる。久々に試してみたけど、やっぱり今日もうまく走れなかった。白い息が視界を覆い、世界を淡くぼやけさせる。
 部活に戻るのか、戻らないのか。私の気持ちはずっとその曖昧な部分をゆらゆらと漂流している。私は陸上が好きで、走りたくて、競技にだって戻りたい。そのくせ、怪我をして以降一度も部活に顔を出せていない。だって、怖い。以前の私を取り戻せずそのままどんどん記録が落ちて、どんどん周りに差をつけられてしまうかもしれない。そんな自分の姿を、私は見たくなかった。だめになっていく自分を、腐っていく自分を、私は多分受け入れきれない。だったら、そんなダサい思いをするくらいなら、いっそのこともう潔く引退してしまいたい。という思いも胸をよぎるのだけど、結局のところ、やっぱり陸上を諦めきれなくて、曖昧にぼやけた場所に突っ立ったまま過ぎてゆく日々を傍観しているだけで、そんな自分のカッコ悪さにも苛立つのだった。


第五章「ブルーアワーって知ってる?」

ばたん、と私は銃で撃たれた人みたいに河原に倒れ込み、寝転がった。スマホを取り出し、SNSを開く。SNSの大量のノイズに埋もれてしまいたい気分だった。

 一件、通知がきていた。開くと、SummerからDMが届いていた。『ライブ発表されたね! たのしみすぎるよ』という文言に、滞っていた思考に新鮮な空気が流れ込む。すぐさまLilyのアカウントに飛ぶと、約一年ぶりに、ワンマンライブの開催が発表されていた。場所は東京。去年は部活の大会と被って行けなかったから、次こそはと心待ちにしていた。

 と、気持ちが明るくなるのも束の間、外周している陸上部の集団がこちらに向かってくる姿が見えて、また気持ちが固くなる。なるべく平然を装って、私はななめ上の空を仰ぎながら歩く。

 すれ違いざまに、みぃこと目が合った。平然を装うつもりが、反射的に視線を伏してしまう。つきりと心臓が痛む。こんな、こそこそと逃げるようにして一生向き合うことのできない自分が、やっぱりカッコ悪くて嫌いだ。

 冬休みに入っても、だらだらと日々を溶かし、走らない毎日が続いていた。今日も相変わらず、ぬくぬくとした部屋で漫画を読み耽る。名のある賞で大賞を獲った作品はさすがに面白く、一巻を読み終えた時点でも満足度がかなり高い。電子書籍を閉じ、感想でも書こうかとSNSを開く。

 わ、と声が漏れた。Summreが写真を投稿している。空一面が濃い青色に染まった写真だった。Summerも私と同じ音垢だから、基本的には音楽の話題が中心になってくるけど、彼女は時折自分で撮影した写真をアップする。そのセンスがとても、とても素敵で、私はいつも手放しで「いいね!」してしまう。

『さまちゃん。めちゃくちゃ綺麗……!』

そうリプを送る。毎回メッセージを添えるわけではないが、Summer とのやりとりはいつも豊かな気持ちになれるから、我ながら積極的に絡んでいる気がする。ややあって、返信を知らせる通知音がピコンと鳴る。

『ブルーアワーって知ってる?』

 ブルーアワー、と初めての響きが口の中で甘酸っぱく転がる。

『え、なに、知らない!』

『日の出前と日の入り後の、空が深い青色に染まった時間帯のことなんだけど、この空がすごく好きなんだ』

 ブルーアワー、ともう一度、誰に言うでもなくひとり呟いてみた。Summerの、こういう文化的な部分に強く惹かれている自分がいる。同い年なのに私が知らないことをたくさん知っている女の子のように思えて、親しみと同時に憧憬も抱いていた。

 Summerとは、ライブを連番で申し込むことになっている。つまり、SNS上でしか結びつきのなかった彼女と、初めて現実世界で邂逅することになる。連番で申し込もうよと勢いのままに提案した私だったが、実のところ、これまでネットで知り合った人と実際に会った経験がなく、今からすでに緊張もしている。すごく楽しみだと思う反面、それと同じくらいの不安を抱いているのも本心だった。

 人付き合いがあまり得意じゃない、という自覚がある。今だって、みぃこと本心で向き合えないまま、自ら壁を作って拒絶している。それどころか、みぃこからの遊びの誘いすら、「ほんとは彼氏と過ごしたいのに、どうしようもない私に気を遣って誘ってくれてるんだな」と地獄の底でこねくりまわしたような捻くれた感情が湧き上がっていて、いつも断ってしまう。

 そうやって、いつも素直になれなくて、自分の気持ちを曝け出せずに、せっかく親しくなった友達との距離をいつも遠ざけてしまうのだ。

 中学時代のことを思い返すと、今でも胸がぐ、と切なくなる。ハル、という親友の女の子がいた。中学1年生の頃。朝礼前の教室で小説を読んでいた私に、「その作家私も好き」と彼女から話しかけてくれたことが出会いのはじまりだった。何をするにもそばにいて、何を話してもきゃらきゃらと笑い合って、かといってたくさんを語るわけではなく、けれど盛り上がった時の爆発力は凄まじくて、とにかく、私にとって彼女が隣いることは、目玉焼きの隣にカリカリのベーコンが添えられていることみたいに、とても自然で、ないと物足りないような存在だった。


第六章「腐っていくのは」

2年生の夏だった。ハルが急にある男の子とよく一緒にいるようになった。中学2年生といえばすでに恋愛に興味しんしんで、好きな男の子ができるなんて普通のこと。そう頭では理解し、受け入れているつもりでも、私はハルとふたりで話したいし遊びたいのに、ハルがその男の子をしょっちゅう連れてきては3人で出かけようと画策してくるから、私はだんだん苛々したものを隠せなくなってしまい、あからさまに不機嫌をむき出しにして振る舞った。そうすれば、ハルだってまた私だけに特別な親しみを向けてくれるだろうと期待した。でもハルは気まずそうに距離を置くばかりで、だから私はむきになって別の女の子とつるむようになったりして、そんな風に意地を張ってぎくしゃくしたまま日々を消費し続けていた。私は今でも後悔している。どうしてちゃんと素直に気持ちを話せなかったんだろうと。担任の先生からは家庭の急な都合で、としか知らされなかった。ハルはその年の夏休みの間に、何も言わずに転校してしまった。

 あの時、彼女に抱いていた嫉妬に似た感情をきちんと言葉にすることができていたら、何か変わっていたのだろうか。でもそんなべったりと重たい想いを伝えたところでドン引かれておしまいだったかもしれない。
 逃げてばかりだ、とつくづく思い嫌になる。傷つくことを恐れて、痛い思いをする前に自ら拒絶してしまう。だめになっていくのが怖い。傷んだ果実は見た目も香りもグロテスクだ。腐っていく姿を、見たくない。だったら腐り落ちる前に捨ててしまいたい。手放してしまいたい。
 ぐるぐる渦巻く感情から目を逸らし、ただただ平等に過ぎていく時間に身を委ねているうちに、新しい年を迎えていた。暇人である私は相変わらずSNSを巡回する。そして新年早々景気のよいニュースをキャッチ。Lilyがライブ開催前に新曲を2曲連続リリースするらしい。思わず頬がくんと高くなる。ライブへの高揚感がさらに高まってきた。
 ピコンと受信音が鳴る。みぃこからLINEが届いていた。
『明日、初ランやるから、藍も一緒に走らない? そのあとみんなで初詣行こうぜ』
 初ラン、楽しかったよなと、去年みんなで年初めに走ったことを思い返す。みんな年末年始の暴飲暴食で身体が重くて、笑って、すぐに息が上がって、くたくたになりながらも初詣に行ってお餅を食べて。お餅を食べたぶんみんなでまた走って。笑って。
 陸上への想いが、部への想いが、胸の奥から湧き水のようにせり上がってくる。同時にずくんと足が痛んだ。そっと足に手を当てる。怪我は完治している。この痛みは精神的なものから生じているのだと医師に言われた。眉間にしわが寄る。


第七章「新年のはじまり」

大晦日の夜、私は来年の抱負のような思いで、ひとつ誓いを立てていた。「部活に復帰するのか、辞めるのか、はっきりさせる。もう曖昧でいない。」と、密やかに。
 スマホの画面に指を置く。鼓動の震えが指先まで響き渡る。『走ろうかな』と、1文字1文字、時間をかけて打ち終える。
 しかし、ようやく打つことができたのに、次の瞬間私は指を連打してメッセージを削除していた。まっさらのトーク画面を勢いのまま閉じてそのままベッドに投げ捨てる。
 分かっているのに。続けたい。辞めたくなんてない。そんなのもうずっと前から分かっている。諦めたくない。けれど復帰したとして、やっぱりうまく走れなくて、走るほど惨めな結果を出してしまう自分を受け入れられる自信が、まだ、どうしても、ないのだった。なるようになる、なんて言葉はとてもいい加減で、なってしまってからでは取り返せないものだってあるはずだ。
 新年に切り替わったからといって、このじめじめと腐った気持ちごとぐるんと切り替わるわけなどなかった。耳にイヤホンを差し込む。鼓膜をつたい、Lilyの音楽が身体じゅうに流れ込んでくる。その音に意識を沈ませ、私は静かに目を閉じて闇に隠れた。


小説「真冬の薄明に手を伸ばして」
三月のパンタシア「薄明」原案小説

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