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疑問を持つことは不信仰なのか?

疑うことは悪いことなのか?
疑問を持つこと=不信仰という空気がキリスト教界内に流れているように思う。

もし「疑う」ことを悪とし、分別を働かせることを止めてしまった場合、
羊の皮を被った狼が群れの中に忍び込んできたらどうなるだろうか。

カルト宗教では教祖を神格化し、言うことは全て絶対とする。疑いを徹底的に排除し、人の思考を停止させる。

疑うこと、疑問を持つことについて少し考えてみたい。

1、何でも信じる人はむしろ不信仰

A・W・トウザーの著作の中でハッとする節があった。
・私たちの信じようとする絶え間ない戦いの中で、私たちはたましいの幸福のために、時には少しばかりの健全な不信仰が、信仰と同様に必要であることを見逃しがちである。
・信仰とはだまされやすいことではない。何でも信じる人は、何も信じない人と同じくらい神から離れている


私たちは被造物であり、創造主の全ては理解できない。できるはずがない。なら疑問は当然出てくるものである。

疑いには2種あると思う。
1つはそれを理解しようする極めてポジティブなもの。
もう1つはそれを否定、拒否、排除しようとするネガティブなもの。

トウザーの言う「健全な不信仰」とはポジティブなほうである。
1粒の種がどうやって成長し、実を結ぶかも理解できないような人間が真理の道に何1つ疑問を持たないなどできるだろうか?
何の疑問を持たず全てを信じますというような人を果たして信用できるだろうか。

2、分別・洞察力が求められる

イエス様はこう言われた

'にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 '

マタイによる福音書 7:15-20

その実によって見分けなさい、本物か偽物か見分けなさい、なぜなら狼が紛れ込んでくるから、とイエス様は言われるのである。

分別を働かせ、吟味しなさいと。
また語られることが聖書的かどうかを熱心に調べることはクリスチャンとして非常に大切な姿勢であると言える。

'そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。 '

使徒行伝 17:10-11

ベレヤにいたユダヤ人たちはパウロが語ることが聖書に合致するのかを熱心に調べた。逆に素直だからこそ彼らはそれが真理なのかどうかを調べたのである。
逆説的な言い方をすれば信仰があるからこそ疑いを持ったとも言える。

神様は単に否定するだけの疑いや不平不満は喜ばれないが、神を深く知るための過程でぶち当たる壁(疑問)に熱心に立ち向かうことを喜ばれる。

3、大いなる不信仰は大いなる信仰者になるために必要なもの

イエス様の12使徒のうち、疑り深いことで有名なのはトマスである。
そんなトマスを私たちは不信仰な弟子として見がちである。

しかし、トマスの疑いはとてもシンプル、かつ正直さが表れており、トマスの姿勢は今の私たちにも必要に思えてならない。

例えばイエス様がヨハネ14章で
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたにわかっている」と語ったとき一体何人の弟子がその意味を理解しただろうか。
そのときトマスは「アーメン」とは語らず
「わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう。」とはっきりと「わかりません!」と答えた。

「わかりません」と言うのは意外と難しいものである。
プライドが邪魔し、わからないのに「わかっているふり」をしてしまうこと、しかも権威がある人の前では特にそうしがちではないだろうか。

もしトマスが「わかりません」と言わず皆がわかった振りをしてスルーしたならあの有名なイエス様の言葉であるヨハネ14:6は無かったのかもしれない。

またイエス様が復活し、弟子たちに現れたときトマスは不在だった。
イエス様を見たという弟子たちに対して

'ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 '

ヨハネによる福音書 20:25

これを疑い深いトマスと見る人も多いだろうが、この反応はいたって正直ではないだろうか。むしろ「本当は信じたい、しかしどうやったらそんなこと信じられるんだ」という気持ちの裏返しにも思える。

そしてイエス様に会ったトマスは「私の主、私の神よ」と大胆に告白している。

一見不信仰に捉えられがちな疑いは、実は大いなる信仰者になるために必要なプロセスなのだと思う。

伝承によればトマスはアジア方面に福音を伝え、中国まで来たと言われている。

そして景教という形で日本にもキリストの教えはザビエルが来る前にとっくに伝わっていると考えられる。

聖書にトマスの書簡は入っていないが彼の隠れた働きによって日本に福音が届けられたと思うと不思議とトマスに親近感を覚えてしまう。

まとめ

信仰者にとって疑問を持つことはごく自然なことである。
疑問を見て見ぬ振りをし、まるでわかっているかのように通り過ぎようとするのはある意味、信仰の薄い者とも考えられる。

しかし、教会内ではこういった疑問を持つことは不信仰であるというような空気が流れているように感じる。

それは信仰を深める機会を失うだけでなく、狼が紛れ込んできてもまったく見分けることができなくなってしまうリスクがある。

腐った悪い実と良い実の見分けもつかなくなってはクリスチャンとしては役に立たない塩同然である。

私たちは主イエスのお役に立てるようまず自分自身を日々吟味することを忘れず、トマスのように疑問に思うことは正直に語れる人でありたいと願う。そしてそんな場を作っていきたいと思う。


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