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サリエリの信仰は本物か?

何度も読み返している
・真実の福音を求めて 信仰による人間疎外 その後 工藤信夫【著】
の中に非常に有益な話が紹介されている。

モーツァルトとサリエリ

モーツァルトに比べるとサリエリの知名度は高く無いかもしれない。
実際どこまでが本当の話なのか諸説あるが、クリスチャンとして非常に重要な話である。

サリエリは才能のある音楽家であり、無償で音楽を指導するなどクリスチャンとして信仰においても業においても模範的だった。

しかし、それはモーツアルトが現れるまでの話だった。

モーツァルトはまさに天才。しかし、その才能とは裏腹に乱れに乱れた私生活を送っていた。モーツァルトがもし勤勉で貞節を守る人間だったら話は違っていたかもしれない。

神を裏切り者としたサリエリ

サリエリはモーツァルトに我慢がならなかった。

サリエリの心情としては
「こんなに自分は節制し、犠牲を払って人にも奉仕してきた。それなのに放蕩の限りを尽くすあのモーツァルトにあのような才能を与えるとはどうにも納得がいかない、、、」と。

そこでサリエリはついに
「今この瞬間から、あなた(神様)と私は敵同士だ」と宣言し、モーツァルトに破滅をもたらすために動き出したのだ。

信仰は試されなければならない

人生が順風満帆なときに神を信じることは難しくない。
平和なときに神様を賛美し、生活が豊かなときに人に優しくすることも難しく無い。

一見、信仰に富んでいる信仰者に見えても苦難や試練が訪れた時に豹変するなんてこともある。

サリエリの信仰はモーツァルトという「火」よって試されるまでその真価はわからなかった。しかし、モーツァルトの登場によってサリエリがこれまで敬虔に生きてきたのは神のためではなく自分のためだった、単に自己実現のために神様を利用していたに過ぎなかったことが露呈したのだ。つまり御利益信仰である。

信仰は試練や苦難を通して本物かどうかがわかる。
私たちクリスチャン一人一人の信仰が本物か偽物かはモーツァルトのような人間が現れて初めてわかるのだろう。

苦しみは始めは喜ばしいものではない。
しかし、ついには益をもたらすものであり、苦しみを通して神の栄光を表すことは神の御心に合致すると思う。

聖書が示す神は試練や苦しみを用いるお方なのである。

'あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。 あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。  

' 申命記 8:2-5,16

しかしながら今の教会は苦難や訓練を忘れてしまったように思えてならない。

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