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子ども達には自由を、イノベーションには競争を(エッセイ)

まずはじめに

私は、長野県で子供クライミングクラブをやっています。この活動でメンバーの子ども達に対して競争圧力をほぼ0にしたいという気持ちがあります。

それは初等教育の段階にある子ども達に対して、競争や評価といったものがベースになる場を用意しても、子ども達にとって得られるものが少ないという結論に至ったからです。

例えば5名のメンバーで、1級が登れるようになることを目標にしようと活動を始めたとします。当然、それぞれの目標達成速度は違うので格差が出ます。

メンバーの誰かが 1級を登れたとして、その事実は2級や3級を達成したことに比べてフィジカル的に勝っています。グレードとしての数字をメンバー内で共有しているので、その格差は絶対的です。先輩がかつて「クライマーは登れて初めて発言権を得る」と言ったことがありますが、まさにその通りだと思います。実績のない人間の発言だけを信頼するというのは非常に難しい作業ですが、実績があれば信頼度は格段に上がります。

クライミング大会

この世界では厳格なルールが支配する環境下で選手同士が競い合うのでその傾向はさらに顕著になります。私自身は大会出場経験はほぼ無いと言ってよいですが、岩場の開拓という現場においても競争はあります。いわゆる初登者争いといったようなものです。

これは何もクライミングの世界に限ったことではなく、社会全体が競争と評価によって成り立っています。というより、競争と評価が不可欠なシステムに我々は生かされていると言い換えることもできます。良い面と悪い面があることは事実ですが、この要素が全く無い社会では、進化や革新が起きにくく、またそこに生活する人々のやる気ややり甲斐といったモチベーションも低くなってしまうことは、かつてのソ連の計画経済が早い段階で機能不全に陥った歴史からも明らかです。

水道修理業者

以前クライミングセンターでこんなことがありました。

男性用小便器の水洗の勢いが弱くなったので大家さんを通して業者を呼ぶと、点検のようなものをして、特に修理はせずに「うちでは直せない」と言って去っていきました。

かわりに別の業者に電話で問い合わせると「◯◯さんに頼んで欲しい」と言われました。そこで私は「頼んだんですが、直せないようなのでこちらに問い合わせています」というと「そこは◯◯さんの仕切ってる(縄張り)なのでうちは出来ない」と言われました。

結果的に、男性用小便器のメーカーのホームページを私自身が探し出し、故障しているだろうと思われる箇所の設計図をダウンロードして、それをもとに分解、壊れている部分を見つけ出し、部品を取り寄せて私自身で修理を完了させました。

長年の専門家でも直せないものを素人の私が直したのは凄いでしょう!と言いたいところですが、論点はそこではありません。競争と評価が生み出す『技術向上を促す土壌』が地元の縄張りといった先進国らしからぬ背景によって阻害された結果、素人でも直せるような修理ですら業者が直せないという結果に繋がった分かりやすい例です。

競争と評価のない教育

そこまで言うのならばなぜ社会にとって必要な競争や評価というエッセンスを0にしたいのかというと、先にも書いた通り、初等教育段階の子ども達にとって効果的かどうか?という別の視点がここからは必要になります。

赤ちゃんは生まれてまずはじめに家族という小さなコミュニティーに属します。この段階では家族こそがこの世の全てです。それから一定の期間を経て幼稚園や保育園に入り小学生へと進んでいきます。このフェーズではとにかくたくさんのことにチャレンジして、より多くの楽しい感覚を得ることが重要です。

楽しい感覚があると努力を努力と思わなくなります。勉強がなぜ苦痛なのかというと努力しているからです。私は物理学が好きですが、勉強している最中は楽しくて時間を忘れます。苦痛を感じながら得た知識と、楽しくてしょうがないというモチベーションで得た知識では吸収力が違います。

新しい知識や新しい体験は楽しいというベースが出来上がると「次は何をしようか?」という好奇心が湧いてきます。好奇心に誘われて行動した結果が楽しければ継続します。楽しくなかった場合は、一度考え、その場から一度離れたり、他の子が楽しんでいたり、そうでなかったりする様子を見ながら、次は別の形で向き合うことを覚えたり、または全く離れる場合もあります。

ここで重要なのは、競争と評価のないコミュニティでは、誰も誰かの行動を評価しないので、人はそれぞれ感じ方も行動も違うといった多様性を、何のバイアスもかかっていない状態で知ることができる点です。そしてこの全体のスキームがデフォルトとなります。

人それぞれというデフォルトを子ども達自身の中に構築することによって、実際に競争と評価の世界に出会ったときに、過剰に評価に振り回されることなく行動することができます。それが小学生高学年あたりかなと私は考えています。

勘の良い子は中学生あたりになれば、競争と評価はイノベーションを起こすために必要なツールであることに気付くこともそれほど難しいことではないでしょう。もちろん大人のサポートが必要となるとは思います。

競争と評価の世界観

ここで1級を目標に活動していた場合を考えてみます。ここで重要なのは早い段階で競争と評価の世界そのものに触れることができる点です。競争と評価の世界がデフォルトされた世界観です。

人間は自分が評価されていると知ると、人間関係を上下といった縦の構造で捉えやすく、それは他者を見る基準にもなります。縦の構造というのはロジカルで構造もシンプルなので、一度身につけるとそこから離れようと思っても難しいものです。

子どもは、特に小さなうちは、悪いことは絶対的な悪であり、良いことは問答無用で良い行いだと信じる傾向が強いです。ロジックが単純なぶん身につきやすく、もし仮に歪んだ解釈のまま善悪の絶対性を身につけてしまった場合は、これほど危険な思考はありません。

そして、ここからが私が競争圧力を0にしたい大きな理由なのですが、競争と評価、善悪の概念、これらは性質が縦の構造として似ているため親和性が高いのです。競争と評価をデフォルトに善悪の絶対的な概念が大きな争いを引き起こすことは過去の歴史からも学べます。この矛先が自分に向けば自己破壊性が強まるので、身心共に危うい状態と言えるでしょう。

保育園

うちの子ども達は保育園に通っています。あるとき、娘が食事を嫌がるようになりました。理由を聞くと保育園で「食べ物を残してはいけない」と教えられたと言います。娘は「食べ始めたら最後まで食べなければ悪い評価になる」と解釈しました。その結果、新しい料理や食物を口にすることを避けるようになったのです。

確実に残さずに食べられるものだけを口にすれば評価は良い状態で保つ事ができます。この戦略に至った娘にはリスペクトですが、やや歪んだ対処方法であることは明らかで、何よりチャレンジに対する機会コストを発生させてしまったことは大きなマイナスです。

私は保育園や先生方を否定しているのではなく、小さな子ども達に善悪ベースで大人が向き合うと、想像よりも大きなマイナスインパクトを子ども達に与えてしまうことが多いのです。

もちろんその後、娘には「みんな好き嫌いはある」という出発点から初めて、チャレンジから遠ざかってしまうことの不利益を伝えましたが、なかなか骨が折れました。

まとめ

教育にはしかるべきタイミングというものがあると私は考えます。

よって私は小学生以下の子ども達と一緒にクライミングを通した活動をするにあたって、競争と評価の概念を一切排除することに決めたのです。

私は「こうすると効果的だ」という提案を子ども達にします。その提案を受け入れるかどうかは子ども達の自由です。

高いところが苦手な子ども達はボルダリングを楽しめば良い。スリルが好きならリードクライミングをすれば良い。お菓子を食べたかったら椅子を人数分用意してパーティ形式にすれば良い。

私のやり方は短期的には大した効果を発揮しないと思います。しかし5年後、10年後、その効果が出てくると考えて今の活動を楽しんでいます。

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