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アートウォール佐久時代

2001年クライミングジムがまだ世の中にそれほど無かった時代に、長野県の佐久市という、これまた何も無い(失礼)場所に当時としては異例の10メートルを超えたクライミングジムを私の先輩でもある先代のK氏(以下K氏)と、その父が建てました。

建てた理由はいろいろあると思いますが、凄いのは、この時代に、この規模で、知名度のやたら低いスポーツに投資する、その気持ちというか覚悟を想像すると、ただただ凄いと言わざるを得ません。

私がアートウォール佐久に最初に行ったのは2004年。平日の夕方から夜にかけて練習をしていましたが、いつも決まったメンバーで4~5人程度。新規ユーザーは皆無。週末は誰も居ないか、閉まっているかのどちらかでした。

真剣に登る人、休憩室のこたつからほとんど出てこない人、壁で雄叫びを上げる人、テレビを見ながらいつのまにか寝ている人、いろいろ居ました。

そんな状況なので、新規ユーザーは増えません。まさにたまり場です。

ボルダ―に指定されたルートは無く、ルート自体自分で作ります。グレードも特に無いので「易しいね」とか「これは難しいね」とか「簡単だけど面白い」とか数値では無く、大まかな感想としてのグレードがぼんやり存在している感じです。

ロープはグレードと指定されたルートはありましたが、ほとんど、いや全てと言って良いほど足自由のルートだったので、その時の登り方でグレードは変わりました。

時々、足限定ルートを作っても「外っぽくない」つまり不自然、という理由であまり好まれませんでした。ほぼ完璧に、自然の岩場で強くなるための練習場として機能していました。

ある時、週末にK氏が現在公開中の佐久志賀の岩場に連れて行ってくれました。これが私にとって正しいクライミングとしての初めての自然の岩場になりました。いわゆる外岩デビューです。

しかしながら、この時私は大変失礼なのですが「かっこわりぃな、この岩場」と思ってしまったのです。理由はひとつ、ボルトです。

とはいえ、クライミングをやったこともない若造が経験者にそんなことを言っても何も得はないので黙っていました。なぜ、そんなことを感じたのかと言うと、まぁイメージなんですが、クライマーという人種は人工物に頼らず自分の手と足だけで、つまり身体能力を駆使して登るものだ、という先入観があったのです。もちろん中間支点にボルトを使用するという知識もありません。

グレードも知らされず、自分で簡単そうなルートを選んで何本も登りました。

後でK氏が「あのときは何本登るんだと思った」と疲れた事を打ち明けていたので、自分では気づかないうちに没頭していたんだと思います。

それから、すぐにアートウォール長野のM氏に連れられて中国に開拓に行きます。まだ開拓が何たるかもよく知らず、なんとなく中国まで行きました。このとき、海外での自由なクライミングスタイル、というよりM氏の自由なスタイルが凄く自分に合っていると感じました。

日本でのパートナーはアメリカ人のジャクソン君。我々のクライミングスタイルには、いくつか限定がありました。

1.ゲレンデのボルトルートで5,11b以下は登らない。

2.基本的にはトラッドルートを登る。

3.ボルダ―はやらない。(ジャクソン君はボルダ―が苦手)

4.冬は1ヶ月間から2ヶ月間休みをとって毎年違う国でクライミングをする。(今でもこの癖が抜けず、冬は休みがちです。すみません、、、)

というわけで、瑞牆山の十一面岩には何度通ったか分かりません。小川山はやはりボルトを見るのが苦手であまり通いませんでした。

そんなこんなで2~3年日本に滞在していたジャクソン君ですが、サンフランシスコに帰国します。それからしばらくして、小川山の開拓で名高い通称【縄文人】と一緒に、佐久周辺の岩場の開拓をはじめ、ますますクライミングにのめり込みます。ほぼ毎日開拓です。

その後、カンボジアの今は亡き伊藤氏に誘われ、カンボジアでの岩場の開拓にも没頭しました。

この時もジャクソン君との冬の1ヶ月間から2ヶ月間の旅は続きます。私たちは事前にほとんど情報を仕入れず、いきなり現地に行くのでいつもスリルがあります。情報を仕入れない理由はめんどくさいからです。でもこれが楽しい。情報が無いということは現地の人に聞く必要があります。繰り返す旅の中で一気に英語を覚えましたね。

2008年の終わりぐらいから、徐々にアートウォール佐久に人が増え始め、経営的にも余裕が出そうな雰囲気になってきました。しかし、ちょうどこのくらいの時期にK氏が「やめようかな」とこぼすようになります。

私は開拓と海外のクライミングばかりで、考えてみると日本の一般的なクライミングシーンにはとても疎かったと思います。ヨセミテに1ヶ月、ユタ州に1ヶ月、一時帰国してタホー湖に2ヶ月滞在とか、、、。

なのでこのとき日本のクライミングの流れがどう変化してきたのかというのは、別の世界の出来事のように傍観していました。

よく覚えていることがあります。あるとき小川山に行く機会があり、クレイジージャムを登ったとき5.9に感じました。あまりにも簡単でなぜ5.10dというグレードがついたのか全く理解できませんでした。と同時に、ヨセミテのグレイシャーポリッシュやインディアンクリークのスプリッタークラックを登っている国のクライマーの凄みを自分のこととしてはっきりと認識した瞬間でもあります。経験に勝る知識なしです。

2009年、K氏と沖縄にボルダートリップに出かけ、夜のキャンプ場で泡盛を飲みながら、盃を交わす、じゃないですが、引き継ぐことをなんとなく決めたのです。

翌年の2010年、地元の人にも知ってもらうため、名前をアートウォール佐久から佐久平ロッククライミングセンターに変え、ロッククライミングの総合施設として引き継ぎ、今に至っています。


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