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9年間の変遷と、決意。

 弱みから目を背けない事を、先週の記事で宣言したので、3.11を基準に過去を振り返ります。

◯2011年3月11日。震災が起きました。
 卒業式を間近に控え、社会人になる実感を、ちっとも感じていなかったあの時期。当時の野球部の後輩と車で出かけていたときに異変を感じ、前の車がハザードを付けながら急停止。最初は、後輩がめっちゃノリノリでリズムを取り始めたのかと思いました。でもBGMは「若者のすべて(フジファブリック)」、どう考えてもノる曲じゃない。車が揺れたんじゃなくて、地面ごと揺れていました。
 寮へ避難し、ことなきを得ましたが、後輩の実家が江ノ島。あそこまで潮が引くのはおかしい。尋常じゃない光景を見て、これはただ事じゃないと思った。そんな1日でした。
 結局卒業式は中止。大教室に、学籍番号順に並べられた証書を受け取るだけ。入社後の新人研修も、合宿所ではなく本社で行うなど、当初としては異例続きの対応で、フワフワしていました。

◯2012年3月11日。池袋マルイの1Fフロアにてレディスバッグを売り始めて半年が経つ頃。一年目の恩恵を受け、それなりにやっていました。愚かにも「意外とできるじゃん俺。」と思い始めていました。こっわ。

◯2013年3月11日。辛かった時期。ボロが出始め「あいつ全然だめじゃん。」の雰囲気。そして、売場の先輩に超失礼なことを重ね、しかも自覚せず総スカンをくらい、干されていた時期を抜けたあたり。恥ずかしくてなんとも・・・

◯2014年3月11日。この一年は自分の中で変化が。同じ売場に優秀な同期が。売場責任者やフロアの統括者にも恵まれ、景色が変わる。競争意識が復活しアグレッシブになる。とても楽しい一年になっていた。

◯2015年3月11日。昇格し錦糸町のお店へ異動して半年近く。クレイジーで愉快な仲間。リーダーという立場での役割理解に苦しみ結果が出ないながらも悪くない心境。そして、体調崩し行った病院で転倒し足首を怪我するという珍事の直後でもある。そしてこの後、志半ばで異動する。

◯2016年3月11日。労働組合の一部組織へ。初めてのデスクワーク。福利厚生周りの仕事を行う中で痛感していたのは「パソコンが全く使えない。」こと。忘れてた。俺、野球しかやってなかった・・・

◯2017年3月11日。担当が変わり従業員の自己啓発を支援する事業部へ。このセクションでの2年間が、僕の人生を大きく変える事になった。
「とりあえず何か勉強する」ことへの違和感未来に対する問いかけに答えられない謎(僕も含めて)。ベストセラー書籍「ライフシフト」との出会いと、シェアビジネス台頭による「副業」への関心。働き方改革から「生き方改革」。世の中が変わっている。そして、今私が理事を務めるSCJのメンバーと、ひっそりと対面していた。(後述の所属長の同級生でした)。さらに、今もメンターとして定期的にお会いしている人とも出会うことができた。その人からの言葉は「人生の操縦桿は、自分で操縦する。」ということ。人生観が大きく変わる。

◯2018年3月11日。この事業部を去るまで残り20日ほど。社内の昇格試験に2回も落ちる。この時応援してくれたメンバーには、今も感謝の気持ちでいっぱいです。そして今も懇意にしている、当時の所属長とともに「キャリアコンサルタント」の学習に勤しむ。

◯2019年3月11日。今までの人生で最も大きな変化。まずは異動し本部へ。慣れない仕事ばかりで「できない。分からない。」ですら口にできず。5月に一度体調を崩す。なんとか復活するものの、依然状況は変わらず。負荷がかかる。逃がせない。消せない。全て抱える。9月まで仕事をやりきり、退職する意思を伝え、覚悟を決めて全力を注いだが、身体が持たなかった。
 7月の終わり、一大プロジェクトの責任者として佳境を迎えつつ、ある日の朝、身体が重い。熱中症を疑い病院へ。40度の熱。風邪でもウイルスでもない。「適応障害」。いわゆるメンタル。そのまま傷病休職、そして不本意のまま退職する事になった。
 今思えば、いくらでも対処することはできた。会社としても最大限のフォローをしてくれたが、自分が未熟だった。ここで戦っていく事を、諦めた。会社には感謝しかない。迷惑かけてごめんなさい。
 1ヶ月以上、なかなか動けない中でいろんな人が連絡をくれた。ちょっとずつ動けるようになり、次の人生を考える力が少しずつ湧いてきた。なんてお礼を言ったら良いか、その時の恩は今もこれからも忘れない。
人の心に火をつけたい。」それも、自分がずっと続けてきた野球=スポーツキャリアコンサルタント、もう一つの武器である音感とピアノ技術、もちろん丸井での数々の経験、そして潰れた経験。持てる物全部使って仕事したい。それだけをいろんな人に伝え続けた結果、今のSCJメンバーに代表の中竹 竜二氏をご紹介いただき、SCJに加わる運びとなった。
 その後SCJにて大小のイベントをディレクターとして2つこなし、東京理科大学でのキャリア支援業務を自らの手で掴み、2019年3月11日を向かえていた。怒涛。導いてくれた全ての人たちに感謝したいです。

◯2020年3月11日。SCJに入って1年ちょい。キャリアコーチングセクションを立ち上げプロデューサーとなり、過渡期にあるこの団体の理事に。イベント統括をこなすなど一見順調にも見えたが、違和感。
 何かがうまくいかない。メンバーとの連携がうまくいかない。足元がおぼつかない。事業計画を描くにも、どう考えてもみんなで考えるべきなのに、自分でやる事に固執。メンバーが良い意見を出してくれてたのに、僕は自分の意見に固執固執固執。
 「そうか自分は誰かに認められる」ために動いていたんだ。自分はこれをやっている、すごいでしょ、と。自分が考えたんだ、だから自分はすごいんだ、と。光を浴びたかったんだ、誰かに「亘はすごいな」と言われたかったんだと気づいた。
 なぜなら、丸井を辞める時に、自分の役割を全うできず、存在価値を見出すことができなかったから。同様に野球部時代、怪我ばかりしてチームの戦力としてなかなか貢献できず、僕がチームにいる意義を見出せなかったから。ちょっとだけ活躍できたのが嬉しかったんだ。認められたかったんだ。俺はこれだけのことができるんだと、過去の自分に見せつけたかったんだ
 だから批判から逃げたちょっとだけ承認された今の状況を崩されたくなくて。そのせいでうまくコミュニケーションが取れなくなった。すごい嫌なリーダーだと反省した。絶対嫌だもんこんなリーダーについていくの。笑
これに気づいた時、正直辞めたくなった。
 しかしこんな僕にも救いはあって、見捨てずかまってくれるメンバーがいたんです。変容を促してくれました。僕がリーダーとして、理事としてもう一度頑張るチャンスをもらった3月10日から翌日11日にかけての深夜、恥ずかしさと周りのメンバーへの感謝と、スピッツのせいで号泣しました。

 決意。もう「認められること」を求めないこと。自分でやる事に固執しなくても、とんでもないメンバーがSCJには揃っていて。このメンバーがベストパフォーマンスすれば良い。そうすれば、SCJはもっと良い組織になる。弱さに向き合い、「承認欲求」に別れを告げる事にしました。

上記でちょうど3,000文字。お付き合いいただきありがとうございます。
では。

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