アフター・コロナの社会哲学(7)-ミクロとマクロの相互作用について-

おさらい

前回は以下のことを主張しました。すなわち、計量不可能ゆえに対処不能な「不確実性」は、計量可能で対処可能な「リスク」に転嫁してしまえば、対応できる。

とはいうものの、「自分にとって不確実な問題とは何か」を選ぶのは難しい。どうやってそれを選ぶか。それを考えよう。このような話をしました。

話しは私の思わぬ方向に進んでしまった

本稿の目的は、「社会哲学」という大きな思考枠組みで、アフター・コロナの「社会」と「世界」にアプローチすることでした(社会と世界のちがいについては、これまでの論考をご覧ください)。

いいかえると、本稿はもともと、今後の社会と世界の在り方を「マクロ的に」イメージすることでした。しかし話の流れは、いささかというか、かなり「ミクロ」な方向に進んでいます。しかしそれも、仕方のないことだと考えています。

なぜ仕方がないのか。そして私はなぜそれを許すのか

というのは、私たち「個人」一人ひとりが、アフター・コロナの世界および社会と(積極的な表現を用いるならば)「うまく付き合っていくこと」、または、(消極的な表現をするならば)「うまくやり過ごす」こと。これができなければ、どのような大きな枠組みでの論考も(あるいは大ぼら吹きも)、わたしたちの「生」には、何の役にも立たないだろうからです。

村上春樹の作品を想起したあなたは、正しい

私のここまでの論述を見て、「なんか、村上春樹みたいだな」と考えた人に対して私は、「そのとおりだと思います」と、お伝えしたいと思います。村上春樹は、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」そして「ねじまき鳥クロニクル」で、ミクロ・マクロ・ループを表現しました。ミクロ(個人)の行動が、マクロ(社会)に影響を与えるということです。

誰もそんなことは考えていなかった

従来の社会科学は、「ミクロはミクロ」、「マクロはマクロ」と、切り分けて考えていました。乱暴に言うと、「個人の行動と全体の行動には関係がない」ということです。経済学ではこのことを指して「合成の誤謬」と言います。ところが、ほんとうに、そうでしょうか。どうやら、そう言い切れない社会構造になってきたらしい。というのが、私の見立てです。

再帰性の理論と複雑系の理論(特にフラクタル)

社会哲学に「再帰性の理論」があります。たしか、ポパーが提唱したはずです。要するに、自分の行為は、マクロに影響を与えて、それは再びミクロに反射するのだ、ということです。

これとは別に、「フラクタル」の理論があります。全体の構造は部分の構造と同じだ、という主張です。氷の結晶を拡大して見てみると、部分と全体が同じ形をしています。

要するに両方とも、「部分と全体は、分かれている。なんてことは言えないのではないか」という、指摘をしたわけです。これは、社会科学にとっては、ショッキングな指摘だった。こう言わざるを得ません。

今日のお題はまた持ち越します

というわけで今日は、ミクロ・マクロ・ループの話をしました。結局、「不確実性をどう選ぶか」という話には、触れることができませんでした。けれども、皆さんには、もう答えが、分かっていると思います。

次回は、そのわかり切った答えを、書きたいと思います。



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