見出し画像

「社会を創生する」論。再び前振り

おさらい

こんばんは。先日は、次のことを話しました。すなわち、社会がどのように構成されていくかを考える方法論は、二つある。一つ目は、西洋社会哲学の伝統である「社会契約論」であり、二つ目は、日本の吉本隆明の「共同幻想論」である。このことを話しました。

お詫び:今日は論理展開できません

今日は、後者の、吉本隆明の「共同幻想論」を用いた社会創生について、考える予定でした。しかし残念ながら今日は、時間がそれを許しませんでした。というわけで、本格的な論理展開は、明日以降になります。いつもご覧いただいている皆様、まことに申し訳ございません。

考えるヒント

というわけで今日は、せめて、共同幻想論を用いた社会創生理論の、利点と不利点についてヒントを提出しておきます。これは、私の備忘のためです。しかし同時に、皆様に、「社会をどう創生するか」について「考えるヒント」(小林秀雄)を提供しておきたいという思いからでもあります。

聞こえはいいですが要するに、「今日はもう、書く時間がありません」ということを、別言しているだけです。それはともあれ、皆様もぜひ、考えてみてください。

共同幻想論の概略

吉本隆明は、人間の社会的な行為を「幻想」という形でとらえました。自分1人で持つ幻想が「個人幻想」、2人で共有する概念が「対幻想」、3人以上で共有する概念が「共同幻想」です。要するに吉本隆明の場合、「社会は3人以上から生まれる」と考えるわけです。

ヱヴァンゲリヲンの登場人物は共同幻想を抱きうるか

さてここで、前回も引用した『エヴァンゲリオン』を引いて考えてみましょう。ずばり、「シンジ、アスカ、レイ」の3人は、社会を形づくっていたでしょうか?または、形づくることができるでしょうか?

また、別の例を引くと、アスカは、ミサト(が無理やり引きずり込んだ)とシンジの2人と、同じ屋根の下で暮らしています。しかしそこに、「社会」はあったでしょうか?

ヱヴァンゲリヲンはなぜ絶望的なのか

別の言い方をすると、エヴァンゲリオンの登場人物たちは、それぞれに(一応は)様々な人間関係を持ちます。けれども、その中でどれくらいの数のものが、「社会」と呼べる関係性だったでしょうか。それを冷静に考えていくと、「ヱヴァンゲリヲンの中には、人間の正常な社会が、ほとんど描かれていない」という結論に、至らざるを得ません。だからヱヴァンゲリヲンは、救いがない話に見えるわけです。

ここから、どのようなヒントを汲み取れるか

上記のことが、「共同幻想論による社会創生」を考えるための、ヒントになります。ポイントは、次のようなことになると思われます。「思われます」と書くのは、私自身、書いている途中で、新しい切り口や新しい見方を、どんどん生み出して、論述の流れをどんどん変えてしまうからです。けれども、致命的に重要(クリティカル・インポータント)な点は、次のことと思われます。

考えるヒントの具体例

すなわち、①3人以上の人が集まっても、社会が形成されない場合、その理由は、何か。②その理由は、数学的に言うと、必要条件か、十分条件か、それとも必要十分条件か

トランキーロ。おやすみなさい。

というわけで、また明日、お会いしましょう。「トランキーロ」で、お願いします。おやすみなさい。

親愛なるあなた様へ あなた様のサポートを、ぜひ、お願い申し上げます。「スキ」や「サポート」は、大学院での研究の励みになります。研究成果は、論文や実務を通して、広く社会に還元したく存じます。「スキ」そしてサポートのほど、よろしくお願い申し上げます。三國雄峰 拝。