「幸せの定義」とは?バングラデシュ一人旅で感じたこと
バングラデシュという国は知っているだろうか?
日本と国旗のデザインが似ている国、アジアの貧しい国、ローラの生まれ故郷、ユニクロとかのアパレル製品が多く生産されている国といった具合が大方の日本人が持っているバングラデシュに対するイメージだろう。
実際にはあまり多くの人はバングラデシュがどこにある国かすら知らないかもしれない。
しかし、近年は1億7千万人におよぶ人口と若さ(平均年齢27.6歳、JICA調べ)で高い成長率を誇る国として注目され始めている。
今回は2023年の8月にバングラデシュでバックパッカーした時の体験談を書こうと思う。
渡航の2週間前に思い立ったバングラデシュ行き
バングラデシュに行くことが自分の中で決まったのは本当に突然のことだった。
付き合っていた彼女に振られて、お盆休みの予定が全部キャンセルになったのだ。
急に1週間もの予定が無くなってしまい、海外でまたバックパッカーに行こうという思いがじわじわと湧き上がってきたのだ。
さて、どこに行こうか、、、、、。
どうせ行くなら成長著しい国で、観光地化されていなくて(外国人観光客がいない)、現地の人たちとの交流が楽しめて、情報が少なくて旅の難易度が高い国。
そうだ、バングラデシュに行こう!
さっそくバンコク経由でダッカまでの航空券を予約して、Facebook上で3年前からやり取りが続いているバングラデシュ人の友達にこれから渡航することを伝えた。
ちなみに日本人は現地の空港でビザオンアライバルといい、到着時に無料でビザを申請できる。難易度の高い旅を求める割にビザだけはなるべく取りたくない自分にはありがたかった。
僕がバングラデシュという国を知った日のこと
そもそも僕がバングラデシュという国を知ることになったのは5年前の2019年にさかのぼる。
当時大学2年生だった僕はたまたま新大久保のイスラム横丁の「ナスココート」で焼き鳥を食べている時、たまたま仲良くなったバングラデシュ人の青年モミヌルと連絡先を交換したことから始まる。
始めて名前を聞く国、インドと似て非なるイスラム世界の奥深さを感じ、僕は彼と連絡を取り続けた。
モミヌルは日本人である僕を友達として自分の誕生日バーティーやイフタールに招待してくれた。
その場にいる日本人はいつも僕ただ一人だけ。それでも寂しさは感じることはなく、みんなフレンドリーに接してくれた。
寛容なイスラム教という宗教、そして寛容なムスリムたち、彼らへの興味関心から本格的なイスラム圏の国に行ってみたいと思うようにいつしかなっていた。
その夢が彼女に振られたことである日突然叶ったのだ。
混沌の首都・ダッカ
これまで訪れた国とは明らかに雰囲気が違うことは飛行機を降りた瞬間に感じた。
空気がどんよりと重たいが、そこに寂しさはなく、むしろ活気を感じる不思議なものだった。
空気だけでなく周りの人たちの風貌はいかにも「ムスリム」でイスラム帽をかぶり、もじゃもじゃな髭を生やし、白いプンジャビを身に纏っている。
日本から見た場合、バングラデシュより西から文化圏は大きく変わる。ミャンマーまでならグラデーションはあれど中華文明や仏教を中心にどこか大雑把でも「相通じるもの」を感じられるが、バングラデシュから西は文化・習俗が全く変わる。
空港はやはり後発途上国ということで古く、一応タクシー乗り場なるものはあるが、混雑と出迎えの数が多すぎて機能していないに等しかった。
そこで空港から10分ほど歩いてダッカ・エアポート駅へ行くことにした。
ひとたび大通りを出ると無数のリキシャ、バス、バイク、人が濁流のごとく流れている。当然、人口密度世界トップクラスなので人でごった返してしる。
人の波に圧倒されてそうになった時、10歳くらいの少年がベンガル語で話しかけてきた。
もちろん何を言っているか分からない、だけど少年の様子を見るに珍しい外国人への好奇心と駅まで道案内してあげようとする親切心を感じた。
少年に連れられながら僕はダッカ中央駅行きのホームまでたどり着いた。
ここで何か少年からお金でも求められるのかと思いきや、何も要求してこない。
僕がお礼にコーラを買って渡そうすると、少年は首を横に振った。
彼の親切心を疑った自分の狭小さを悔やむと同時に、彼の親切心に感動してしまった。
ディーゼル機関車に牽引された列車がホームに入ってきた。
線路上で遊ぶ子供、列車の屋根に乗る人、バングラデシュの駅はなんでもありだ。
列車に乗り込むと外国人が珍しいせいか、5人くらいから握手とセルフィーを求められた。
そして席に座っても、周りからジロジロと視線を感じた。
そういえば、空港を出てから一度も外国人を見ていない。
「これが旅人に出会わない国」バングラデシュなのか。
駅を降りたら早速にリキシャ(自転車タイプの人力車)に乗った。
街は異常な渋滞具合で、先ほど空港以上に人、バイク、自動車が信号も無く縦横無尽に行き来している。そんなだからリキシャでの移動が一番早い。
しばらく走ると大きなバザールとモスクが見えてきて、興味を持ったのでそこでリキシャを降りることにした。
喧噪の中の静寂 -Baitul Mukkaram Masjid-
バングラデシュ最大の国立モスクと言われるBaitul Mukkaram Masjidに到着した。
ちなみにバングラデシュ最大のスタジアムもこのモスクに隣接している。
モスクの周りは大渋滞と喧噪で混乱しそうになるが、このモスクの中だけは清潔で静かでなんとなく落ち着けるそんな雰囲気である。
日本で例えるならば東京の明治神宮のような場所だろうか。
サンダルを脱ぎ、大理石でできたツルツルのタイルの上を歩いて行く。
途中で大音量のアザーンも聞こえてきた。「これが本格的なイスラム国家か」。
初めてのモスクをただただ眺めていると、三人組の少年たちにセルフィーを求められたので応じた。やはり珍しい外国人観光客に興味津々らしい。
また積極的に写真を求めてくるあたり南アジアの人々のハングリー精神を感じる。
写真を撮っていると、今度は物乞いの子供たち3人にお金を求められた。
少年たちが追い払おうとしても中々離れない。
少年、物乞いの子供たちに続いて、今度は立派な髭をたくわえたイマーム(お坊さん的な人)に話しかけられた。
彼は宗教活動で東南アジア各国へ出張に行くことが多く、英語が上手だった。
簡単に自己紹介をし合うとなぜか僕との会話を動画に取り出した。さっきまで英語で話していたのに急にベンガル語でどうやら僕のことを紹介している。
このようにバングラデシュは外国人観光客が珍しいこともあり、多くの人からセルフィーや動画を求められることが今回の旅を通して多くあった。
特に日本人に対しては日本がバングラデシュ独立以来さまざまな支援をしてきたこともありその歓迎会度合はすごかった。
結局、肝心のモスク見物はダッカで会う約束をしていたショリフルと夜になって再度訪れた。
ショリフルと実際に会うのは今回が初めてだが、かれこれ3年前から連絡を取り合っている。ちなみに彼は前述したモミヌルの幼馴染である。
午後8時、喧噪の中からMessengerのGPS機能でお互いの場所を共有してようやくチャイ屋台の前で合流することができた。
さっそく彼と例のモスクへ行くことにした。僕はじっくりとモスクを見物したかったし、彼はムスリムとして夜の礼拝がある。お互いに目的地が一致していたのは好都合だった。
モスクの地下には足洗い場があり、そこで手足口を清める。
階段を上がるとあたり一面大理石のタイルが広がっており、モスクの明かりを美しく反射している。
礼拝の時間が近づくとどこからともなく何百人ものムスリムがモスクに集まってきた。
そして「アラー・アクバル」と一斉に礼拝を始める。
みんな真面目にお祈りをしている。僕は外国人だしムスリムでは無いので外からその光景を見ていたが、その真剣さは遠くからでも伝わってきた。
バングラデシュはまだまだ発展途上で街中はゴミだらけだし、ルールもあって無いようなもので、5S(整理、整頓、清潔、躾、清掃)が全くできていない。
しかし、宗教に関してだけはみんな真面目に戒律の則った暮らしをするし、モスクはきれいに維持管理する。もちろん聖典であるコーランはしっかりと本棚に片付ける。
自分と家族と宗教は何よりも大事にするが、それ以外はいい加減なイスラム社会の一面を見られた瞬間だった。
貧困と笑顔と等身大のバングラデシュ人たち
朝になり再び僕は街に出る。
バングラデシュの最高学府であるダッカ大学、オールドダッカ、日本が支援して完成したダッカメトロ、ショッピングモールをひたすらバスにリキシャ、それと徒歩で周った。
バングラデシュは都市国家を除くと人口密度が世界一の国である。
特にダッカに至っては人口密度が東京の10倍もあり、どこもかしこも人、人、人であった。
しかし、その中に外国人を見かけることはなかった。
これが「旅人に出会わない国」バングラデシュである。
だから外国人が珍しいのか多くの人から声をかけられた。たとえ英語が話せなくてもベンガル語のまま話しかけてくる。
一緒に写真を撮ったり、チャイを飲んだり、現地人のフレンドリーさにはこちらが困惑するほどであった。
これまで9ヶ国訪問してきたがこの国ほどフレンドリーな国は無いような気がした。
観光地化されておらず、現地のありのままの暮らしを見て、現地の人と交流をする。決してごく普通の観光ではないが、バックパッカーの醍醐味を詰め合わせたような旅だった。
その一方で、バングラデシュは今でも非常に貧困層が多い。
多くの高齢女性や子供の物乞いから食べ物やお金を求められた。
それにしてもなぜ女性・子供ばかりなのだろうか?
ショリフルに聞いてみたところ、バングラデシュではまだまだ女性の社会進出が進んでおらず、旦那との離婚や死別と同時に女性が貧困に陥ることが多いのだとのこと。
また子供自身も物乞いをするために手足を切断させられたりすることもあり、成人男性の物乞いの姿は日本では想像もつかないような凄惨な光景だった。
それでも子供たちや道行く人たちはたくましく明るく生きている。
イスラム社会にはザガード(喜捨)といって貧しい人たちに寄付をする習慣があるし、人と人との距離が近い。
ショリフルや他のバングラデシュ人の友達もラマダン中は村の貧しい人たちに食料を配ったり、食事に招いたりしてムスリムとしての五行に励んでいた。
また、たとえ貧しくなくとも「旅人」である僕に対しても多くの人たちは親切に様々な場面で今回の旅を助けてくれた。
僕はイスラム教徒ではないし、彼らの文化や価値観を断片的にしか知らないかもしれない。
バックパッカーのバイブルである『深夜特急』を書いた沢木耕太郎氏は著書の中で「分かっていることは何も知らないということだけ」と述べていた。
だからこそもっと彼らの生き方や見ている世界を知りたいと感じた今回のバングラデシュ旅行であった。
帰国後、僕の中の「幸せの定義」は変わった
日本に帰国し自宅にたどり着いた瞬間、安心したのか急に疲れがどっと出て2日間熱にうなされていた。もしかしたらバングラデシュで流行していたデング熱らしきものに罹っていたらしい。
高熱にうなされながらも、自分はこの清潔で安全で、快適な日本に生まれることができて良かったと感じた。バングラデシュに行くまではこのことを当たり前だとして特に幸せと感じることはなかった。
それどころかいつも他人と比較ばかりしては、勝手に自分が不幸だと感じることさえあった。
どれだけ自分が優れた人間か、どれだけ利用価値のある人間なのかを証明しようか、そんなことばかりを考えていたような気がする。
仕事や恋愛、普段の人間関係においても。
東京にいた時はそのような考え方に息苦しさを感じつつも、それが正しいのだと思い込んでいた。
今回のバングラデシュ旅行で家族や友達を大事にして、等身大で日々生きている現地の人々を見て「幸せ」とは何かを改めて考えさせられた。
確かに途上国に住む彼らは先進国に住む僕たちよりもお金の面では恵まれていないかもしれない。
それでも彼らはイスラムの価値観をベースに自分と家族、そして身近な友人を大事にしながら今を懸命に生きていた。
Facebookでバングラデシュ人を含め、多くのムスリムたちとここ数年で知り合うことが増えたためか、タイムラインにはいつも彼らの投稿が流れてくる。
彼らの投稿のほとんどは自分自身の自撮り写真、家族や友人と写っている写真である。
最初はバングラデシュ人たちの投稿を見ると「どんだけ自分大好きなんだよ」と斜に構えて見ていたが、次第に等身大の自分や家族・友人に誇りを持っている彼らの幸せそうな姿を純粋に微笑ましく思えるようになった。
その一方でインスタグラムを見ると周りの日本人や先進国の友人はブランド物や高級店での食事、または恋人自慢など常に「他人ウケ」を意識したものが多い。
これを見た自分は妬みも交じるが、心を削られるし正直ウザいと感じている。
だから僕はもうインスタグラムをやめた。
僕はムスリムではないし、彼らの食生活や六信五行をこの日本で実践できる自信はない。
だけれども、彼らムスリムが実践している家族・友人を大事にし、他者に対しても寛容な心で持って接していけるように努力したいと思った。
それでありのままの等身大で、今目の前にある幸せというものを決して当たり前と思わず大事にしようと決めた。
だらだらと長文になってしまったが、僕は今回の旅行も含めてムスリムの価値観を学ぶことができて本当に良かったと感じている。
それではまた、次の旅の準備をしよう。
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