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今朝平遺跡 縄文のビーナス 37:役行者と龍蛇神

昨日、今日と4年ぶりの秋祭りでしたが、本日午後は雨の予報で止むなく祭りは午前中のみで中止になりました。本来なら同じ学区の北部の氏神に全町内に3体づつ保存されてきている猩々(ショウジョウ:マントヒヒのような姿をした2足歩行する大きな架空の生物を被り物にしたもの)が大集結する予定でしたが、残念!!
それはともかく、愛知県豊田市足助町(あすけちょう)の荻野不動明王前から足助川に沿って上流に向かう県道33号線を上ると、足助川は大きく右(南)にカーブして辿っているレイラインから外れて行きました。しかし、レイラインに沿う北東側から菅生川(すごうがわ)が足助川に流れ込んでおり、その菅生川に沿って北東の上流に延びる県道366号線が存在しました。366号線に左折して入る桑田和町(くわだわちょう)交差点まで510mあまりでした。桑田和町交差点から366号線に入って豊田市竜岡町(たつおかちょう)の龍岡神社(たつおかじんじゃ)に入る路地の入り口までは460m以内でした。

愛知県豊田市竜岡町 龍岡神社/石造物群
竜岡町 龍岡神社/石造物群岡町 龍岡神社/石造物群

龍岡神社への路地の入り口からは西に向かって路地が下っており、40mあまりの右手にステンレスポールの手すりが光っていました。

愛知県豊田市竜岡町 龍岡神社社頭 

GoogleMap(この記事の地図作成には使用していない)では上記写真左側の建物が「龍岡神社」と表記されていますが、これは間違いで、GoogleMapに表記されている場所は民家です。

路地は狭くて愛車を駐めると地元民の邪魔になりそうなので、路地入り口脇の草地に駐めました。
徒歩で路地を下っていくと、右手の石段の麓に出た。

龍岡神社 入り口石段/社号標

石段左手の石垣の上に「村社 龍岡神社」と刻まれた社号標。
石段の上、左手にも石垣が組まれており、石段の正面奥は遠景の山が見えているだけだった。

石段を上がっていくと、90度左に折れてさらに石段があり、その石段上には石鳥居と、その奥に社殿が見えていた。

龍岡神社 石段/石鳥居/社殿

石段を登ろうとすると、石段のコーナーにヒメソルバが生えていた(ヘッダー写真)。
ヒメソルバは好きな花で、春と秋にピンク色の小さな球形にまとまった小さな花がたくさん咲くが、この日は8月の中旬で花は見られなかった。

石段を上がると境内は背丈の低い雑草で覆われ、特に参道は設けられていなかった。

龍岡神社 石鳥居/社殿

石鳥居は石段から10m以内に設置してあり、台輪鳥居だった。
鳥居の先10mあまりに瓦葺切妻造平入の社殿が設置されている。
参道の両側は社叢が茂っているが空は開けている。

社殿は戸と腰板部分以外は白壁で、右端2間部分は物置のスペースのようだ。

龍岡神社 社殿

社殿の前に至って軒下を見上げると、縦長のすっかり焼けた扁額に達筆の老竹色で「龍岡神社」と浮き彫りされていた。

龍岡神社 社殿 扁額/頭貫/注連縄

扁額を受ける鉄製と思われる受け金具に真紅の布で覆ったクッションが挟まれていたのが目に付いた。
額を受けている頭貫(かしらぬき:装飾の彫られた横向きの構造材)には両端に、お決まりの唐草模様が凹刻されていたが、その唐草の根元が面で凹刻されている、あまり見ないものだった。
それに頭貫使用材の向かって左に向かって細くなっていることが目に付いた。
社殿前で参拝したが、龍岡神社に関する情報は社名と住所くらいしか見当たらなかった。
存在地の町名が「竜岡町」となっているが、元は社名と同じで、大字が「龍岡」だったという情報があるが、神社名と町名が同じなのを避けさせようとする政治的なもので「竜岡」になった可能性があると思われる。
そして、祭神に関しても何も情報が見当たらない。

社殿の脇に回ってみたが、裏面に本殿は存在しなかったので、現在は拝殿と本殿に分離してなく、社殿は1棟のみになっており、その社殿内に龍岡神社は祀られているのだと思われる。
ただ、航空写真を見ると、拝殿の裏面に本殿らしき建物が連なっているものが存在するので、かつては拝殿と本殿に分離していたのだと思われる。

現在の社殿は単に覆屋という訳ではなく、ご神事を行うスペースも存在するのだと思われる。

この社殿の左手(南側)には自然石を組んでその上に方形の石版を乗せた基壇が設けられ、その上に石祠と宝篋印塔(ほうきょういんとう )の相輪部分のみが置かれていた。

龍岡神社 境内社/宝篋印塔相輪

この石祠に関しても情報は無い。

社殿側から参道を振り返ると、常夜灯、石鳥居、狛犬、常夜灯が並ぶ境内から、麓に畑地や住居の存在する山が眺望できた。

龍岡神社 境内からの眺望

龍岡神社を下って、愛車を駐めた路地の入り口に戻ったのだが、この入り口から366号線を北東に向かうと、20m以内が変則の十字路になっており、その東側の角地、366号線の右手の巨石が顔をのぞかせている崖の麓に6体の石像と1基の板碑が並んでいることに気づいた。

竜岡町 龍岡神社/石造物群
竜岡町 石造物群

石像のうち5体は石仏で観世音菩薩、地蔵菩薩、馬頭観音などは含まれていると思われるのだが、摩耗が激しくて他像と区別するのが困難な状況だ。

しかし、1体だけ特徴があることから確定できる石像があった。
以下の写真、中央の役行者像だ。

中央の石像:役行者像/向かって右の石像物:板碑

役行者像を知らない人が見ると、この石像では小人に見えるかもしれないが、役行者像の基本は椅像(いぞう:腰掛けた像)で、石に腰掛けた姿勢で高下駄を履いている像なのだ。
ここ竜岡町の名称には龍蛇を表す「竜」が付いているが、役行者には各地に複数の大蛇伝承が存在し、内容はそれぞれ異なる。
以下は奈良県御所市蛇穴(さらぎ)の野口神社の由緒の場合だ。

646年(大化2年)のこと、茅原郷から蛇穴の道を通り、雨の日も風の日も毎日葛城山へ修行に通う役行者がいました。河内からこの地に移住してきた茨田の長者のひとり娘がその行者に恋慕の情を抱きます。しかし、業に身を挺する者には、熱き恋心は届きませんでした。娘は女の情念から蛇身となって追いかけますが、折しも田植時期で村人が弁当を運んでいると大蛇が火を吹いていたので、驚き提げていた味噌汁をぶっかけ逃げ帰りました。そして村人と共にその場所へ行くと、大蛇は静かに傍らの井戸の中で身を潜めていたので、巨石でその井戸を覆ったという説話があります。
その場所が現在の野口神社の地と言われており、境内には井戸を模った石組みの蛇塚があります。その娘の霊を供養するために、「蛇綱曳き」神事が始まったと伝えられています。

蛇穴 野口神社『由緒』一部

上記「蛇綱曳き」神事の場合は地名「蛇穴」に竜蛇神の「蛇」が付いているが「さらぎ(蛇穴)」とは「新たに入植した地」を意味する「新来(さらき)」からの転嫁と言われるが、もともと「新来」は「さらけ」と読み、「蛇がとぐろを巻く様」を意味したという。
そして、野口神社『由緒』には以下の文も存在する。

蛇穴村には古くから竜神信仰があり、神社の南西に年中絶えることのない湧水が下流の村の灌漑用水として大切に活用されてきました。当社はこの湧水の守り神として奉斎されたと伝えられています。

蛇穴 野口神社『由緒』一部

●龍蛇とは
「蛇」は灌漑用水の表徴としての「蛇」ともみられるのだが、ここ竜岡町の「竜」も、上記2番目の地図を見ると分かるように、龍岡神社と役行者像のある南40m以内に菅生川(すごうがわ)に流れ込む用水路(名称不詳)が存在するし、龍岡神社の北30m以内には菅生川、西400m以内には菅川、南西430m以内には足助川(あすけがわ)と、河川と用水路の集中している町なのだ。
さらに、役行者には葛城山(かつらぎさん)と吉野山の間(20kmあまりある)に石橋を架けるために蛇神(葛城神)を使役したとする伝承、そして熱海温泉街の元となった走り湯(現・伊豆山温泉)の発見者とされており、土木事業と湧水・温泉に関わった伝承が存在し、やはり蛇神が介入している。
この土木事業と治水という側面に関わる伝承は、やはり後進の行基や空海に受け継がれている。

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野口神社の由緒にある役 小角(役行者)は36代孝徳天皇(中大兄皇子の叔父)により大化の改新の詔が出された時13歳でしたが、現在の金剛生駒国定公園に聳える葛城山に登り、藤葛の皮で編んだ衣を着て、松の実を食べ、滝行などの修行を始めた年齢でした。

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