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中条遺跡 土偶A 3:遺跡と井戸

このページでは愛知県刈谷市の中条遺跡(なかじょういせき)の場所と環境を紹介します。

●中条遺跡 土偶A

中条遺跡は昭和34年に刈谷高校郷土研究クラブ員により発見された縄文期(中期・後期)〜室町期にわたる複合遺跡である。
中条遺跡の存在する住所は「刈谷市重原本町(しげはらほんまち)5丁目地内」とされている。その場所は本刈谷貝塚(もとかりやかいづか)の中心地となっている本刈谷神社の東北東3.3km以内に位置している。

1MAP愛知県中条遺跡

ただし、他の遺跡のように案内板はどこにも存在しないようなので、愛車で重原本町5丁目地内の道をすべて走ってみたが、2車線道路は重原本町を縦断する1本のみで、あとは未舗装の混じった徒歩でなければ抜けられない部分のある農道が3本、住宅街部分は軽四輪がギリギリ通れるような不条理な道で、内、袋小路が5本。

2MAP重原本町中条遺跡

中条遺跡の発掘場所は一般道路から離れた私有地内のようだ。
重原本町5丁目地内を愛車で走っていた時、長篠川の高い堤防上に上がろうとして、未舗装の農道から勢いよく、堤防上に乗り上げたら、危うく深さが7mくらいある長篠川内に落ちそうになってしまった。
知らない場所に一人で行くと、クレヨンしんちゃんの原作者臼井儀人さんのことが頭を過ぎることが時々ある。
それはともかく、重原本町は愛知県碧海郡にあった重原村の一部だったという。
重原本町は刈谷市の中心地にありながら、東側に隣接する知立市(ちりゅうし)に面している。
知立市が刈谷市の中心部に食い込む形をしているからだ。
その市境になっているのが長篠川だった。
重原本町は並行して流れる2つの川、猿渡川(さわたりがわ)と下り松川に挟まれて北東から南西に延びる丘陵上に位置している。
3方を川に区切られた地形なので、築城するには良い地形だなと思ったのだが、調べてみると案の定、中世には居館が存在し、その居館跡から中条遺跡は発掘されたようだ。
現在のこのあたりの猿渡川は片側しか護岸されておらず、堤防高と堤内地盤高の差が2m未満で、度々溢水しており、まして縄文人は危険な重原丘陵下に住居を構えることはなかったろう。
下記写真は重原本町と猿渡川の間に広がる田園地帯から中条遺跡の存在する丘陵を撮影したものだ。

3刈谷市重原本町5丁目

下記写真は真夏の正午。
重原の丘陵上の畑地で野良仕事の合間に木陰で涼む地元民。

4刈谷市重原本町5丁目

田園地帯から重原本町5丁目の丘陵上に向かう道に入ったところ、石碑に遭遇した。

5乞井戸

ここは重原本町2丁目だ。
石碑の背後は土留めネットで覆われ、寺院くらいでしか見かけない直立して枝を張らない高木が空に向かって伸びている。
石碑には「乞井戸」(こいど)としか刻まれていない。

6乞井戸碑

この重原には弘法伝承があるらしく、刈谷市教育委員会の案内書に「重原の三井戸」という以下の案内があった。

重原に・乞井戸・佐次兵衛井戸・慕井戸(したいど)と呼ばれる3つの井戸がある。弘法大師が重原に訪れた時、飲み水に困っている村人のために、祈って杖で土地に穴を開けると清水がコンコンとわき出たという伝説がある。

ネット上には佐次兵衛井戸以外は残っていないという情報がある。
ところで、弘法大師は弁才天を真言密教の守護神として位置付けており、高野山の七つの水源や京の本拠地とした東寺に弁才天を奉っており、自身が彫像したと伝わる弁財天像も各地に存在する。
弘法大師はこの地、重原に隠れた水源があることを見抜いていたが、それは縄文人も同じだったと考えられる。
となれば、この複数の土偶が出土している重原の丘陵には弁財天も祀られている可能性があることになる。探してみるとしよう。

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中条遺跡は田園調布から上野毛に至る多摩川北岸の高級住宅地と相似な丘陵上に位置しています。現在の高級住宅地の多くの場所から古代人の住居が見つかっているように、縄文人は現代人にとっても好い土地は必ず抑えているんだよね。

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