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中条遺跡 土偶A 7:井戸と龍

刈谷市の西福寺に寄ったことから、目的地の井戸弘法が西福寺の前身の寺院の奥の院であることを知り、井戸弘法に向かうことになりました。

●中条遺跡 土偶A

大位山 西福寺(さいふくじ)の東50m以内に位置する井戸弘法は井戸山泉龍寺(いどさんせんりゅうじ)の通称です。

1井戸弘法

井戸弘法の前に出ると、江島神社(江ノ島)の鳥居と瑞心門を習合したような

ド派手な山門が目の前に立ち上がっていた。

2井戸山泉龍寺山門

寺号標には「三弘法発祥の地 井戸山泉龍寺」とある。
「三弘法」とは弘法大師が自ら彫像した三体の弘法大師像のことらしい。
それはともかく、この唐風建築物も構造はル・コルビジェのピロティー形式を取った鉄筋造の建物だ。
門前は広い駐車場になっている。
弘法大師の御命日(毎月旧暦21日)には観光バスで白装束の信者が押し寄せるのだろう。
駐車場に愛車を駐めて、山門をくぐり抜けると、参道は寺院らしくない一般道の路地のような雰囲気に変わったが、15mも進むと正面に派手なセルリアンブルーの瓦で葺いた宝形造重層屋根を持つ吹きっぱなしの建造物の前に出た。

3本堂井戸

しかし、本堂らしき建物が見当たらない。
だが西福寺で、ここ井戸弘法が西福寺の前身の寺院の「奥の院」であるという案内書を読んでいたので、ここの本堂は、さっき見てきた西福寺の本堂に当たるのだと勝手に解釈した。
しかし、後になってネットの情報で上記写真の左端の円柱の並んでいる建物が本堂であることが判った。
だから本堂の写真は、ほぼ上記の写真のみとなってしまった。
「奥の院」とは真言密教の総本山である金剛峯寺(こんごうぶじ)の空海入定の地を示す場所のことだ。
もちろん空海(弘法大師)が刈谷市で亡くなった訳ではなく、井戸弘法が金剛峯寺の奥の院に当てられているということだ。

宝形造重層屋根の建物に向かうと、この鐘撞堂(かねつきどう)のような建物の周囲には大粒の砂利が敷き詰められており、屋根の下に井戸らしきものがあることに気づいた。

4井戸/弘法堂

そこには巨石をカットして組まれた井桁があり、市松模様に組んだ簀子(すのこ)で蓋がしてあった。井戸だ。

5井戸弘法

傍には灌木が植えられている。
簀子越しに井戸を覗き込むと円形で大きな焦げ茶色に焼き上げられた土管が地下に向かって延びているようだ。

井戸の上を見上げると井戸堂には天井が張られており、天井画で埋まっていた。

6井戸堂天井絵

中央には定番の龍の絵が嵌め込まれているのだが、桟に沿った部分が風化しており、風化した部分がちょうど龍の口の部分を通っていたのが残念だった。
しかし、龍の角と鱗、三本の爪で握った渦巻き紋のあるドラゴン・ボールは明快に確認できた。
他のコマは日本の基本的な装飾である花鳥風月で埋められていた。

この井戸に関する以下の案内も西福寺に掲示されており、井戸弘法には見当たらなかった。

「一ツ木の地でのどが渇いた大師が水を所望したが,日照りで田畑は乾き井戸水も涸れて住民が難儀をしていたという。 これを気の毒に思い杖でトントンと地面を突くとそこから澄み切った冷たい水がドンドンと湧き出て来た」

シチュエーションは異なるものの、基本的には以下で紹介した三ッ井戸弘法堂に掲示されていた『重原弘法大師三ッ井戸縁起』と同じ内容だ。

この井戸の南側には井戸堂と同じセルリアンブルーの瓦で葺かれた弘法堂があった。

7井戸弘法弘法堂

左右の看板には金文字で「井戸弘法大師霊場」「三弘法発祥の地 井戸山泉龍寺」と箔押しされている。
弘法堂の傍には「御遺跡大師井霊場」と刻まれた巨大な板碑が建てられていた。
そして、太子堂内には正面中央に着彩された弘法大師幼児像と成人像が重ねるように奉られていた(ヘッダー写真)。

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弘法大師が掘り当てた井戸は列島の各地に存在します。
アフリカなどで、日本人などが井戸を掘るボランティアをしても、銅像が建てられることはあっても(井戸以外の例ですが)、弘法大師伝承のような話が伝わって残ることは無さそうです。
それはアフリカ人がみんなスマートフォンを使用しているからなのか、弘法大師のような聖人ではないからなのか。
現在、最も多くの映画が製作されているのはアフリカですから、アフリカ人が物語が嫌いな訳じゃないと思われますし。


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