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麻生田町大橋遺跡 土偶A 133:徐福と徐古座侍郎

豊橋市牛川町の牛川稲荷社の社殿の東側に回ってみると、社叢の中に石造伊勢鳥居が設置されていました。

石鳥居の前にやって来ると、奥に竹棒で瑞垣が組まれていた。

石鳥居に掛かった注連縄越しに先を見ると、社殿の西側には無かった大きな塚が組まれ、その頂上には白壁の社らしき建築物が建てられていた。

上記写真足元を見ると石橋が架かっており、水は無くなっているが、周溝が塚の周囲に設けられているようだ。
牛川稲荷社の境内にあるものに関する情報が無く、当初は弁財天が祀られているのかと思った。

鳥居をくぐって瑞垣の巡らされた境界線から塚を見上げると、塚上に石碑群があるのかと思った。

しかし、それらをよく見ると、いずれも後背を持つ石像だった。
明快な像が無いのと近づけないことから、断定はできないが、仏像や神像が混じっているのではないかと思われた。
となると、御嶽山信仰の霊神塚であり、しかも、この稲荷山の中心になる塚ということになる。
霊神塚であるなら、周溝を持つ霊神塚に遭遇するのは初めてのことになる。

この周溝を持つ塚の北西に地続きで稲荷山古墳1号墳が存在する。

この周溝を持つ塚の東側の社叢の中に黒い切妻屋根を持つ小さな石祠が祀られていた。

石祠の入り口は開口されており、祠内には何と!「徐来 徐福(じょふく)」と墨書きされた素木の板と「一畑薬師如来」のお札が納められ、それぞれの前には石が置かれている。
問題は素木の板の方だ。
「徐来」は初めて見る名称だが、徐福は秦の始皇帝に予算をもらい、東方の三神山(日本列島説がある)に長生不老の霊薬を求め、多くの若者と技術者を従えて船出した人物である。
日本列島には奄美大島から青森県まで、徐福一行の渡来伝承のある地が20ヶ所以上存在するが、三河もその一つで、ここの真東6.5km以内に位置する豊橋市日色野町(下記地
内)には「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがあるという。

しかし、室町時代から安土桃山時代の東三河地域の様子を記載した地域史料「牛窪記」には以下のようにある。

崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…
《現代語訳》
崇神天皇(紀元前97年〜紀元前30年頃)の時代。紀州(和歌山県)手間戸の港から徐氏(徐福の孫)古座侍郎の舟が三河の港、六本松に来た。…中略…古座侍郎が三河に移住してきたことから、本宮山の麓には秦氏の後裔が多い…

「徐 古座侍郎」の「古座」とは紀州(和歌山県)に存在した地名だ。
「牛窪記」は後裔が秦氏を名乗った徐福あるいはその子孫が熊野経由で三河にやって来たというのだが、牛川稲荷の境内に徐福が祀られている経緯は不明だ。
一方、一畑薬師如来のお札は岡崎市藤川町の一畑薬師からやって来たものなのだろうが、一畑薬師の総本山は、やはり熊野と関係の深い出雲市に存在する。
出雲国一宮は出雲大社と熊野大社から成っている関係にある。
薬師如来は東密(真言密教)では胎蔵大日如来と同体と説かれており、真言宗寺院の本尊として奉られる如来なのだ。

社殿東側から表参道に戻る間にも、表参道の東側には複数の大きな板碑が設置されていた。
表参道に出て社頭に向かうと、表参道の東側を覆う社叢の中にコンクリートでたたかれた幅50cm幅の参道が表参道と平行に北に延びており、その入り口左手に「おもかる地蔵 和薫童子」と刻まれた大きな河原石が立てられていた。

「和薫童子」とは「和太鼓集団 薫童子(かおるどうじ)」のことなのだろうか。
もしそうなら、おもかる地蔵はその和太鼓集団が奉ったのだろうが、薫童子は山口県宇部市で主宰されている和太鼓集団なので、なぜここに?ということになる。
しかし、牛川稲荷社と薫童子との関わりに関する情報も見当たらないので、その経緯は不明だ。

おもかる地蔵の参道に入ると、コンクリートでたたかれた参道は途中までで、参道の突き当たりには大きな方形の石の基壇上に高さ20cmほどの舟形の後背を持つ小さな地蔵菩薩が奉られていた。

「おもかる」というのは持ち上げられるか否かで願い事が叶うかどうかなどを計る機能なのだが、このおもかる地蔵菩薩像は小さすぎて、誰でも簡単に持ち上げられ、重さで計る機能はありえない。
おもかる地蔵前の拝石上には寿司屋の湯飲みと石造りの湯のみが置かれ、拝石右脇の地面には2本の同じ石造りの茶筒のようなものが置かれていた。

気づくと、このおもかる地蔵の背後の潅木の中に何やら石碑が設置されている。

一応、おもかる地蔵の基壇の直ぐ後ろの地面には河原石が並べられ、縁石として区切られているのだが、ほぼ真後ろに同じ向きに石碑が設置されていることから、関連付けて奉られているようにも思える。

その石碑の根元をよく見ると、複数の石を組んだ塚になっており、その上に2段に基壇の石を組み、その上に石碑が設置されている。

この石碑に刻まれているものは文字ではなく、石仏の立像のシルエットに見えるのだが、明快な像ではなく、石碑の表面の割れ目が偶然人形のシルエットに見えているだけとも受け取れる。

だが、ただの割れ目とするなら、何も刻まれていない石碑という、不思議なことになってしまう。
もし石仏なら廃仏毀釈で削り取られたものとしか思えない。
しかも石仏だとするなら、像が中央ではなく、左寄りに入っており、石碑自体が左側が割取られているように見えることから、左側面が擦って平面に整えられているように思える。
石仏だとしても地蔵菩薩とは思えないものなので、おもかる地蔵とは関係の無いものかもしれない。

おもかる地蔵前から表参道に戻ると、表参道脇に葉を広げているシダにクロアゲハが止まっていた。

蛾のように羽根を広げて止まっているが、ネットに上がっているクロアゲハの写真を見ると、羽根を広げて止まっている写真の方が多く、珍しいことではないようだ。
蜜を持たないシダに止まっており、撮影しようと近づくと、舞い上がるが、すぐ同じシダに戻って来て止まり、そのシダに執着しているように見え、人をさほど恐れていなかった。

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この後、少し下流の牟呂用水脇、牛川稲荷社の南西120m以内に祀られている浪之上熊野神社に向かいました。


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