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伊川津貝塚 有髯土偶 17:町内の小社の本宮は

愛知県刈谷市小垣江町(おがきえちょう)の小垣江神明神社から北東240mあまりにある刈谷市小垣江町の秋葉神社に向かいました。小垣江町には秋葉神社が2社存在し、目的地は字中に位置する秋葉神社です。中の秋葉神社は平安時代以降に成立した秋葉神社貝塚の中に存在しています。平安時代以降の遺物しか出土しない貝塚って少数派ですね。

愛知県刈谷市小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社)
刈谷市小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社)
小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社)

小垣江町中の秋葉神社に到着した時にはかなり陽が落ち、この日巡る最後の場所になりそうだった。
中 秋葉神社の社地は周囲が一般道に囲われ、玉垣や塀や石垣など無い解放された芝地になっていた。

愛知県刈谷市小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社/秋葉神社貝塚案内板)

上記写真左奥が秋葉神社社殿。
右端の花壇内に設けられたコンクリート造の表示板が三河地区特有の文化財愛護シンボルマークの付いた「秋葉神社貝塚」案内板。
この案内板だけが現場での秋葉神社貝塚の唯一の痕跡だった。

まずは秋葉神社。

愛知県刈谷市小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社)

秋葉神社は1対の幟柱立てを持っており、瓦葺入母屋造棟入の覆屋が高さ1mほどの石垣の上に設置されていた。
覆屋の正面は木部を樺色に染められたガラス格子戸が締め切られている。
覆屋の左脇にはコンパクトでプレーンなイナバ物置が置かれていた。

拝所に上がって参拝したが、秋葉神社は我が町内にも祀られている唯一の神社で、同じ学区の各町内に1社づつ秋葉神社が祀られている。
学区の氏神である七所神社(しちしょじんじゃ)の祭では各町内の秋葉社で保有する逆鉾車が各町内の他の秋葉神社を経由して、最後に七所神社に集結する習わしになっている。
我が町内の秋葉神社の社内にはお札が納めてあるだけなのだが、ここ小垣江町中 秋葉神社の覆屋内には社というよりは厨子が棚の上に置かれており、その中に秋葉神社のお札が納められていた。

刈谷市小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社社殿内)

秋葉神社は元は神仏集合していた宗教施設なので、もしかすると使用されている厨子は当時のものである可能性もある。
そして、神仏集合していた施設というのは秦氏系とインダス文明を開いたドラヴィダ族の文化を受けている出雲族との婚姻を表している施設とも受け取れる。

●あきばさんとは
秋葉神社は中部・東海地区を中心に祀られている神社で、お札が納められているとしたら、そのお札はすべて静岡県浜松市にある総本社の秋葉山本宮秋葉神社から配布されてきたものだ。
社名の頭に「秋葉山」とあるのは仏教の山号の名残を感じさせる。
各町内の秋葉神社は一般に「秋葉さん」と呼ばれていて、「秋葉神社」と呼ぶ者はいない。
戦後世代は毎年、町内でバスツアーを組み、秋葉山本宮秋葉神社の上社(かみしゃ)に参拝してお札を受けて帰ってきていた。
なので「秋葉さん=秋葉山」であることを知っているのだが、今では町内から本宮に行くことは無くなったので、「秋葉さん=秋葉様」と思っている人も多いと思われる。
まして地元の秋葉さんに祀られている神が何者なのか知っている者はまず存在しないし、祭りの場でその神名が出ることも皆無だ。
その理由ははっきりしている。
愛知県は尾張徳川家&家康のお膝元であり、明治政府が統治するようになってから当てがわれた神に興味は無いからだ。
いや、明治政府が統治するようになってから神が変更されたことを知っている人すら少数派なのだ。

『秋葉山本宮秋葉神社縁起』には以下のようにある。

秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で、天竜川の上流に位 置し、標高八六六米の山頂には千古の老杉がうっ蒼と繁っています。 この山は上古から神様の鎮ります御神体山として崇敬され、初めて 社殿が建ったのは和銅二年(西暦七〇九年) 元明天皇の御歌によるも のと伝えられます。
御祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)と申し上げ、火を司り給う神様であります。
御社号は中世両部神道の影響を受けて秋葉大権現と申し上げたが、明治五年神仏分離が行われ、教部省の達しで権現の号を改めて秋葉神社と申すようになりましたが、全国の秋葉神社の総本宮であるところから昭和二十七年秋葉山本宮秋葉神社と改称しました。

『秋葉山本宮秋葉神社縁起』から抜粋

『秋葉山本宮秋葉神社縁起』によれば、祭神は「火之迦具土大神」となっているが、この神は教部省の達しでそうなったもので、それ以前は「秋葉大権現」だったことが解る。
一般に秋葉大権現というと、その姿は以下左の図版のように白狐の背に乗って利剣と索(さく:ロープ)を持ち、火炎を背負った、神通力を持つ天狗の姿で表されている。

      秋葉大権現(禅陀山 圓遍寺)  秋葉山三尺坊大権現(愛知県小牧市 福厳寺所蔵)

天狗の代わりに翼を持った烏天狗の方が多いかもしれない。
狐は稲荷神の使いでもあり、利剣と索と火炎は密教のツールなので、この図でも秦氏とインド系の文化の習合が見られる。
一方で、上記右の像(愛知県小牧市の福厳寺所蔵)のように秋葉大権現を秋葉山三尺坊大権現という実在の修験者として奉る場合もある。
三尺坊は室町時代の人物で、蔵王権現堂十二坊のうちの第一である三尺坊に住持を務めた修験者である。
どちらも像になっているのは密教系だからだと思われるが、小垣江町中 秋葉神社も、我が町内の秋葉山の場合も秋葉山本宮秋葉神社が総本社なので、具象的な像は無く、お札である。

ついでに、2009年9月中旬に参拝した時の写真だが、秋葉山本宮秋葉神社上社(かみしゃ)を紹介しておく。
下社(しもしゃ)は神体山である秋葉山の麓にあるが、上社社頭の大鳥居は秋葉山の中腹にあり、その手前は広い駐車場になっている。

静岡県浜松市天竜区春野町 秋葉山本宮秋葉神社上社 大鳥居

ここからは徒歩で石段を登っていくことになる。
その石段が上記写真大鳥居内左隅に写っているスリムな長い竿を持つ常夜灯が両側に林立している石段だ。
黒鳶色の大鳥居は金属製のようで、「正一位秋葉神社」と浮き彫りされた真鍮製のような社頭額が掛かっている。
鳥居前の左右には銅の巨大な狛犬が高い基壇上に乗って構えている。
社叢は自然林のようだ。

石段を登って完全な石畳の表参道を通って進むと、巨大な神門が待ち構えていた。

浜松市天竜区春野町 秋葉山本宮秋葉神社上社 神門

神門の中央を通り抜けている通路には四神(しじん)が4方の柱から頭を通路に突き出している。
上記写真左が北を表す玄武、右が西を表す白虎だが、赤身の強い木材を使用していて、色が躯体の素木の木部から浮いている。
しかし、現在の上社神門をネット上で見てみると、四神像は完全に神門木部に同化していた。
この13年で風化して同化したのか、あるいは何か処理をしたのだろうか。
神門の向こう側の参道も石段を上がっている。

神門から、いくつかの形態の異なる石段を上がっていくと、最後には銅板葺入母屋造平入の大きな拝殿が構えていた。

春野町 秋葉山本宮秋葉神社上社 拝殿

屋根上には千鳥破風と唐破風を重ね、軒下には諏訪神社のような出雲系の太い注連縄が掛っている。
正面は全面がガラス張り。
ここは台風通過時には強風が直撃する場所なので、強化ガラスが使用されてるのだろう。
拝殿前の巨大な賽銭箱には神紋の楓紋が装飾されていた。

以下は拝殿前から太平洋方向の景観。

春野町 秋葉山本宮秋葉神社上社 拝殿下広場

話は静岡から愛知の刈谷市小垣江町の秋葉神社貝塚に戻る。

愛知県小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社境内)

上記写真は秋葉神社境内の東北の角地から西南西に向かって境内を撮影したもの。
周囲の道路は完全に舗装されている。
写真左隅の樹木の根元の白い花の花壇内に設けられた教育委員会製作の案内板『秋葉神社貝塚』には以下のようにあった。

この秋葉神社は、「おわがたおわがたさん」と地元の人から親しまれ、毎年鎮火の信仰行事が行われている。以前あった県社(あがたしゃ)からその名で呼ばれるようになったといわれる。
この境内地に拡がる貝塚は、衣浦湾(※きぬうらわん)に注ぐ猿渡川(※さわたりがわ)左岸の台地上に分布しており、平安時代前期(9世紀後半)にこの場所で生活を営んだ跡が認められる。カキ・ハイガイ・オキシジミ・アカニシ等 貝類のほか平安時代灰釉(かいゆう)陶器の長頸瓶(ちょうけいへい)・碗・土錘(どすい)・製塩土器の脚等も出土している。
  平成12年3月                    (※=山乃辺 柱)

中 秋葉神社境内『秋葉神社貝塚』案内板

上記写真を撮影した角地の秋葉神社境内に上がって、南西方向を撮影したのが下記写真。

愛知県小垣江町 秋葉神社貝塚(中 秋葉神社境内)

陽はほぼ落ちてしまった。

ここにはもう一つ、小垣江町郷土の歴史研究会の制作した情報量の多い案内板『秋葉神社貝塚』も掲示されていた。
教育委員会の案内板と内容が重複しているので、部分を抜粋して以下に紹介する。

この貝塚は、秋葉神社境内を中心に 広がり、周辺の家の屋敷内にも貝殻が散布している
〜中略〜
境内には、県社(あがたしゃ)と秋葉社があったが、社をまつってきた地元の人々は、大正八年(1919)に県社を神明神社にうつしてまつることにした。地元で「オワガタ」と呼ぶのは、がなまったのであろう。秋葉社の鎮火の行事は今も十二月に行われる。

平成二年夏      

『秋葉神社貝塚』(小垣江町郷土の歴史研究会)から抜粋

何と!直前の記事で紹介した小垣江神明神社の祭神豊斟渟命(トヨクムヌ)・大懸命(オオアガタ)は中 秋葉神社から小垣江神明神社に移されたものだったのだ。

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陽が落ちて撮影不能になったので、帰途に着くことにしました。

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