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名前から生まれるアイデンティティの脆さよ


あれ、わたしの名前って何だっけ?


「さやかん」というニックネームが自分の中で定着してからもう8年が過ぎる。こんなに月日も経てば、ニックネームも十分アイデンティティと成り得るので、わたしの中の名前の要素を満たす条件としては十分すぎるくらいだ。

そうなると、自分の本当の名前を忘れてしまう瞬間がふと訪れる。冗談に聞こえるかもしれないが、わたしは至って真面目である。



わたしの本当の名前は「沙也加」

発音しにくいのと文字りにくいのもあってか、高校を卒業するまでは特にあだ名やニックネームもなく、そのままの名前を呼ばれることが多かった。
大学生の時にライブハウスで出会ったある女の子がさやかちゃんならさやかんだね!」と何の毛無しにつけてくれた名前がわたしの人生で初めてのニックネームで、何だか別のわたしになれた気がしてとても嬉しかったのをよく覚えている。
さやかんと呼んでくれる友人達といる間は、人見知りだった私が不思議と社交的になれて、なんだか自分が自分じゃないみたいだった。

当時はまだmixiが全盛期だったので、ハンドルネームをさやかん(当時はさや缶と表記してた。笑 )に変え、そこからわたしの第二の名前での人生がスタートする。

ここから数えて約8年、出会う人のほとんどがさやかんと呼んでくれるし、わたしもこの名前が呼びやすくて好きだった。時にはさやカフェと呼ぶ人もいたが、別にわたしのことを覚えてくれるのであれば名前なんて何でもよかった。名前なんてただの記号だ。


そもそも名前の由来さえ確かなものがあれば、そこに誇りや愛着が湧いたのかもしれないが、わたしの名前の由来に特に深い意味はなかった。


「自分の名前の由来をお家の人にインタビューしてみましょう。」

小学四年生の時だったか、二分の一成人式で、みんなの前で自分の名前の由来を発表する機会があった。先生から与えられた宿題をこなすため、言われた通り母に聞いてみると、想像の斜め上の回答が来る。

もともとサザンが好きなお父さんの希望で、栞のテーマという曲にちなんで「栞」という名前をつけたかったんだけど、目の前のアパートに「しおりちゃん」が住んでいたから松田聖子の娘の名前と同じ「沙也加」にしたのよ。

当時10歳の私はよく理解が出来なかったが、今改めて読んでも全然よく分からない。笑
別に父と母が松田聖子の熱狂的なファンだった訳でもない。

(ちなみに先週何気なく、名前の由来を17年ぶりに聞いてみたが、全く同じ答えが返ってきて思わず笑ってしまった。)

肝心の発表会では、周りのみんなは「美しく自由に育って欲しいという願いを込めて美由と付けてくれました!」などと、嬉しそうに由来を発表していたが、私は何を話したか全く覚えていないし、どういう気持ちでみんなの発表を聞いていたのかも思い出せない。けれど今となっては、この特に由来がない名前で本当に良かったなと心から思うし、感謝もしている。

何か意味や願いを込めて名前を付けられていたらとしたら、きっとその通りに成長出来なかったことに滅茶苦茶苦しんだかもしれない。同じ「さやか」でも、例えば「清華」という名前を貰っていたとしよう。清らかでも華やかでもなく大人になってしまった自分に嫌気がさして、きっと自己紹介が億劫になっていたはずだ。ネガティブのスイッチが入るとつい考えすぎてしまうわたしには、意味も特になく器だけ構えた、余白のある名前がぴったりだよなぁと、自分でもよく思う。十数年後の娘の性格をしっかり見据えていたのだろう、さすがわたしの両親だ。



どうしてこんなにも自分の名前について深堀りして文章を書こうと思ったのかというと、こんなにも名前に固執していないと思って生きてきたわたしにも、やっぱり名前への捨て切れていない憧れを持っていたことに気づいたからである。

最近仲良くなった人で、わたしのことを「さやかん」ではなく「さやちゃん」と呼んでくれる人がいる。

その人に名前を呼ばれる度にとても嬉しい気持ちになるので、その理由は何なんだろうと考えた結果、その答えが見つかった。

再び小学生の時に舞台は戻るが、当時わたしと同じ「さやかちゃん」という名前の子が二つ下の学年にいた。
田舎の学校なので全校生徒も少なく、学年関係なくみんなで仲良くという校風の学校だったため、昼休みは全校生徒がグラウンドに集合してケイドロなど同じゲームをして遊ぶ。そこに同じ名前の子が二人もいるとややこしいので、不思議と「さやちゃん」「さーちゃん」でいつの間にか呼び分けされるようになった。二つ下の子が「さやちゃん」で、わたしが「さーちゃん」。

「さやちゃん」の方には『小さい・可愛い・ピンクが似合う』女の子らしさの必要条件を満たすその子が自然と選ばれていた。
「さーちゃん」なんて「さやか」の要素は「さ」のたった一文字だけだ。

その子のことは好きだったしよく一緒に遊んでいたけれども、当時のわたしは心のどこかで周りから名前を取られたことに対して、何処にぶつけていいのかも分からない寂しさを抱えていた。小学校を卒業すると同時にさーちゃんと呼ばれることも殆どなくなったが、名前に対してのアイデンティティを喪失するには、小学生のメンタルで過ごす4年間は十分過ぎる。

わたしが自分の名前がどうでもよくなったのはここが始まり。誰に何て呼ばれようがわたしはわたしで変わらないし、同時に呼ばれることのなかった名前に憧れを抱き出したのも多分ここがきっかけ。あの人と話すと嬉しくなる理由は、わたしが昔からずっと欲しかった名前を自然と与えてくれるからだった。


もちろんさやかんって呼ばれるのもとても好きだし、自分の苗字もかっこよくて好きだからそれで呼ばれるのも誇らしい。呼ばれ方なんて本当にどうでも良くて、その時その瞬間、貴方がわたしのことを頭に浮かべて呼び止めてくれたその事実が嬉しいんです。

結局何が言いたかったのかと言うと、たまにさやちゃんって呼んでくれたらとっても喜びますよって言う、ただそれだけの話。

おしまい。

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