10年前のあの日の記憶11

ストーブでコトコトと温め直したカレーと、炊きたてのあたたかいご飯をラップを敷いたお皿に盛り付けた。

コップは紙コップを使い、水を飲む。

そんなキャンプみたいな食事が驚くほどに美味しく感じた。

先の見えない生活に、みんな困惑と疲労が出てきた頃だった。

それでも家族が揃ってあたたかい食事を食べられる、それだけで笑顔になれた。

食べながら、

『○○のガソリンスタンドが開店したみたい』『△△のスーパーが少しだけ生鮮品を売っていた』

そんな情報を交換しあった。

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その日の昼間、やっと携帯を充電することが出来た。

自分の部屋にある電池式のモバイルバッテリーを掘り出すことが出来ず時間が掛かってしまった。

地震翌日の昼間から24時間ほど電源が切れていた私の携帯には、とても多くの着信とメールが来ていた。

その着信の多くが、会社から帰宅することを告げた先輩からだった。

いそいで掛け直すと、

『あんた大丈夫なの!?』

泣きそうな声で喜んでくれた。

通信制限により、着信履歴も表示されていなかったが、地震発生当日にも何度も電話をくれていたそうだ。

「はい、自宅はヒビとかは入っていますが、津波はギリギリ届かなくて…。

途中で電源が切れてしまって、やっと充電できたところで。

たくさん連絡を頂いていたのに遅くなってすみませんでした。」

『あぁ…良かった…っ!あのとき引き留めれば良かったって何度も思ったよ…。』

先輩の家は仙台駅を挟んで私の家と反対方向にあった。

地盤のかたい山側で、仙台駅にも近いエリアだった為、電気の復旧が早かったそうだ。

そこでテレビに繰り返し映し出される津波の映像を見て、私の安否を誰よりも気にしてくれていた様子だった。

ラジオで情報としては『大きな津波が起こり、大変な事態となっている』ことは知っていたつもりだった。

けれど、それはつもりでしか無かった。

目から入ってくる情報は強烈だ。

その頃流れていた映像で心が辛くなってしまった人も多く居たと後から聞いた。

先輩へは、連絡が遅くなって心配をかけたことを詫び、ライフラインが全て止まっていることや、物資を得ることが困難になっている状況を説明した。

同じ市内でありながら互いの現状の違いに驚きながらも、話を聞いてくれた。

社員の数名がこの週末の間に荒れたオフィスの片付けをしてくれていたと後から聞いた。

この先輩もその社員の1人だったが、状況を聞いて参加は難しいと判断し、そのことは伏せていてくれたようだった。

『会社には私から伝えておくから、しばらくは家のことに専念したほうがいい。』

このときの先輩の言葉は本当に有り難かった。

週明けに一度出勤すると約束をして、電話を切った。









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