「スカーレット・プリンセス」:違う視点を得る幸せ
1:違うことがある意味は。
「スカーレット・プリンセス」の、「桜姫東文章」のテキストを舞台形式まで美しく翻案された演出の美しさは、既に2020年のルーマニア・シビウ国際演劇祭のオンライン配信で見たときに述べました。
そして念願の観劇を果たし、改めて考えることがありました。
プルカレーテの演出によって整理と再構築を果たした「スカーレット・プリンセス」は当然ながら歌舞伎で見る「桜姫吾妻文章」と完全に同じではない。
通常の演劇と同じように、あの長い長い入り組んだテキストを読んで、上演に丸一日かける通し狂言を3時間弱の舞台脚本に直したのであるから、その行程にはプルカレーテの理解と解釈が大きく加わり、それを舞台にかける意味を定義されている。
その結果だと思う。
人物の心情の動き、運命の中で不可思議な人の動きの意義、物語としての流れはおそらく「桜姫東文章」より細かくわかりよくなっていると思います。
清玄が彼女と結ばれないロジックはどこに原因があるのか。
犯されて権助に惚れる桜姫の不思議はどうなっているのか。
権助が「奪った家宝」でも「桜姫」でも利益が得られないロジック。
そして、清玄と権助の間柄は。
歌舞伎ではある程度「そういうものです」と流されていく人物の造形も、演劇として再構築する為にはきちんと作り込まなくてはならない。
そこに演出家の意図があり、俳優たちの表現が乗る。
それは「イギリス人が外国人のシェイクスピアを許すように(本作に違和感があっても)許してください」というプルカレーテのコメントが示すように、演劇化したからこそ生じた解釈であり、むしろ逆に歌舞伎の理解を深めることに繋がるでしょう。
オンライン配信では英語で読んだ字幕を今回日本語で読むことができ、おそらく配信で見たバージョンの後から追加になったのだろう部分も加味して、改めて人物の造形と清玄ー白菊丸ー桜姫ー権助の三人四者の関係性も浮かび上がるように思いました。
白菊丸と桜姫、清玄と権助、それぞれ同じ役者が演じる別人同士という組み合わせで考えた上で、この四者をつなぐ筋を考えていきます。
2:白菊丸と桜姫、縒り合わさる運命の糸
物語の始まりは、来世の結婚を約束した清玄と白菊丸の心中でした。
死に後れた清玄は生き続け、死にきった白菊丸ひとり約束通り。清玄の名を記した香箱の蓋を握りしめて女に生まれてきた。
しかし、桜姫となった彼女は清玄には興味を示さず、清玄と同じ顔をした弟の権助に恋をする。
二度にわたって犯され、捨てられた上身分を失い、女郎屋に売られ、尚妻だと言い張り執着する。
にも関わらず、権助の正体が信夫の惣太、すなわち「都鳥の印章」を強奪し家名断絶に追い込んだ父と弟の仇、と知るや彼女は権助を撃ち殺して「都鳥の印章」を奪還し、それを献上するところでフィナーレに至る。
「桜姫東文章」と変わらないあらすじですが、その難解さは、ひとえに全く一貫性のない桜姫の心の動きにあると言っていいでしょう。
ここで、ひとつ疑問があります。
白菊丸はひとり生き残った清玄の裏切りを知っているか。
知った上で転生したなら、裏切られた恨みは当然残るでしょう。清玄を全く覚えておらず、辛く当たって顧みないのはその為だと考えることもできます。
この場合、生まれ変わった目的に「結婚」という要素が捨てきれなかったことが、恋の相手の歪んだ理由になります。
では清玄の裏切りを知らず、生まれ変わりがいることを信じて結婚のため転生したら。
白菊丸の思う「結婚」が具体的には男同士で果たせぬ妊娠と出産であったとしたら。
顔もしかとわからぬ暗闇で与えられたセックスと結果としての妊娠・出産があって、その相手が「約束されし相手=清玄の生まれ変わり」以外の何なのだと執着するに足る十分な理由があることになります。
清玄の祈りによって手が開き香箱によって白菊丸の転生である証明が成されるのに、桜姫が頑なに清玄を拒むことを考えれば前者、恨みも持って生まれてきたが結婚の願いが残っているので筋違いの恋に狂うことになる。
この場合権助が清玄と瓜二つであることに「それでも清玄への愛着が捨てきれていない」意味を見ることができます。
結婚の宿願が果たされたのにそれを否定するような事象を認める訳にいかないとするならば後者、運命の相手を否定するが故に清玄が疎まれることになる。
この場合は暗闇で出会い、その時から恋の狂奔が始まっているのだから権助が清玄と同じ顔をしていることにそもそも意味などないことになります。
私としては権助と清玄が瓜二つ、という設定に意味がないというのは少々無理があるかなと思うので、清玄への恨みを前提の中に含みたいと考えます。それでも恨みの中に捨てきれぬ愛がある。
清玄には思い知らせてやりたくても、清玄とは結ばれたい。
運命でなく子供を生まされたとは思いたくない。
その矛盾した懊悩がある方が、白菊丸の「結ばれたと信じたい」が為に権助に執着する狂おしさがあるように思うのです。
では、桜姫としては権助への執着はどうなのか。
まずもって白菊丸の因縁とは別に桜姫としての人格はあるのかと言えば、私はあると考えた方が合理的だろうと思います。
しとやかな姫の本性が恋の狂奔だというなら、出家によって恋そのものを断つ望みは出てこないでしょう。
桜姫は大身吉田家の屋敷深くに育てられた姫君です。強姦され子供を産まされながら権助が忘れられず、腕に手がかりを刺青せずにいられない自分の異様な想いが怖かったのではなかろうか。
ごく普通の少女ならそうだろう。
自分の中に、自分以外の何者かがいる。生まれつき何かを握って動かぬ左手は如何にも何かの因果に思える。
だからこそ出家することに救いを求めたのではないかと思います。
清水寺で清玄に会ってしまい、手から落ちる香箱の蓋に桜姫がいっそう強く出家を望むのは何故か。身の内に白菊丸としての激情の気配を感じたのではないか。そこへより一層激情を揺さぶる権助が現れてしまう悲劇。
気がついたら境内での淫行を受け入れ、身分を無くしていたのかもしれないと思うと。仏も家も彼女を救ってはくれない、因果の絶望。
結局この恋の因果が消えるきっかけが「権助の正体が信夫の惣太」であるという告白になります。
それはそれであまりにあっけなく。
信夫の惣太は、桜姫にとって父と弟の仇。
この名前でわき起こる怒りは、今度は白菊丸としての意識を圧倒したのか。それともさしもの白菊丸の激情も、清玄の亡霊と所詮代替品の権助の度重なる仕打ちで弱っているのか。
正体を知って、夢は醒めたか。
酒を勧めて権助を酔い潰し、赤子を殺して権助を撃ち殺す。
カツラを取って白菊丸と同じ坊主頭、桜姫に着せられた緋色のスリップドレス。白菊丸と桜姫はどちらが優位でもなかった。
ひとつの体に、17才の少年白菊丸と17才の少女桜姫が共存する。
白菊丸を感じる怒り、桜姫を感じる悲しみ。
ユスティニアン・トゥルクの繊細な演技でした。
scarletはふしだらの色でもあるが、怒りに顔を赤らめる様でもある。
理性もなく制御もできない激情そのものの「姫君」、タイトルに相応しいと思うのです。
3:清玄と権助、収奪した者は望みを無くす
清玄は、恋人白菊丸の生まれ変わりである桜姫にいくら尽くしてもその心も体も得られないまま死ぬ。
権助は、「都鳥の印章」も桜姫も金に換えられず、彼女との子供も失って死ぬ。
しかし清玄は白菊丸との死の約束を裏切ったのであり、勿論権助は「都鳥の印章」も桜姫も偶々手に入れたものを横取りしているのであり、二人ともそれぞれ桜姫も「都鳥」も手に入れる正当性が無いのである。
つまり、自分の犯した収奪の報いを受けて死んだとも言う。
断崖の高さに怖じて約束を破り、恋人の死後も結局複数の稚児と関係を持ったと思えば「徳の高い高僧とは何だろう」と思うし、弱った体にむち打つように赤子を助けても結局桜姫を代償に望むからかと思えば感動や哀れみというより妄執の疎ましさを感じる。
けれども、その流されやすい弱さと弱さを盾にした図々しさは人としてごく普通の悪さである訳で。
白菊と書かれた香箱に、残された赤子に、長浦が拝領した赤いドレスに、失われた恋人を見て泣く喪失の深さ、舞台で直接見ると心を打たれます。
舞台の中、清玄はセイゲンでキヨハルでオフェリアだと呟く一節があった。
以前、オンライン配信で見たバージョンではなかったような気がする。
清玄にかつて侍だった「きよはる」僧侶「せいげん」の二つの読み方があり、それを演じる「オフェリア・ポピ」の外見をしている。
人の多面性、そして愚かで優しく身勝手で献身的な清玄は彼女であり私たちである普通の人で、誰にも起こり得る過ちと悲運を示すのだと思う。
一方権助は奪った「都鳥の印章」を巻き上げ抜け目なく要求額をつり上げていくように見えて、印章を売りつけられる唯一の相手である悪五郎を殺してしまって全てを台無しにしている。
桜姫を売り飛ばせば清玄の亡霊に邪魔されて失敗し、お十を代わりに出すことに成功しても結局その後桜姫に撃たれて命を落とす。
普通の悪党から墓掘り人足まで身を落としたのも、元気よく強がっていても失敗を重ねた為だろう。
「都鳥の印章」と「桜姫」を両方使って身分を戻す賭けに思い至るまで何故これほど掛かるのか、そしてちっとも望みのなさそうな酔いざまはなんなのか。
どうも転機は、墓掘り人足として呼ばれて見た兄の遺体だったように思えます。
「兄上、なんてこと」
ただひとことの台詞だけれど、常に乱暴で伝法で快活な彼らしからぬ「兄上」。
これだけで残月と長浦を追い出して家を乗っ取る様子に、言いがかりだけではない何かが乗るのは不思議でした。
そこはやっぱり演技の力だったと思います。
かつてその非行で家を追われ、出家で縁を切ったきり庇護してくれなかった兄への思いの中に「兄上」と改まった呼び方をする何かが残っている。
なら権助が愛してはいない桜姫の「夫」という立場を離さない理由に「兄から巻き上げてやった」成果を誇る気持ちを読みとることはできないか。
清玄から桜姫(≒白菊丸)、桜姫から権助へと一方向に巡った感情は清玄に向けて返ることになる。
残月と長浦は清玄に毒を盛り、桜姫は清玄を讒言した。
家を奪い取り女郎屋に売る、それは単なる収奪だけでなく彼の秘めた復讐となるでしょう。
さて、桜姫は因果の元に権助の手元に返る。「都鳥の印章」を献上し吉田家の姫君「桜姫」を娶り武士に直る、という計画は「信夫の惣太」が「都鳥の印章」の強奪犯だと知られている困難はあるものの、成ればスラムの底から成り上がれる。
しかし野心にしては、ひどく酔って自暴自棄のように告げる様子は絶望の色を帯びる。
喜びのないその野心は、本当に権太の望みであったのか。
死にたかったのではないか。
兄は死して尚桜姫につきまとい、しかし自分が桜姫に絡んでも現れない。
権助の、上手くやったつもりで何一つ上手くない不遇に、兄の死と自分の前にだけは現れぬ兄の亡霊は止めを刺したのではあるまいか。
桜姫で白菊丸である女に撃ち抜かれ、運命はそこで終わる。
このただ荒っぽいようで傷ついた内面もある権助と、悔いの祈りで立派な僧になり既に老い弱々しいようでいてしつこくその底に暴力性の覗く清玄。
オフェリア・ポピの演技、直接言葉がわからなくても伝わる妙技でした。
4:赤子が死ぬ、世界は閉じてまた生まれる。
桜姫と権助との間に生まれ、名もないまま死ぬ赤子。
権助を殺す決意をした桜姫が、赤子を桶の水へ沈める背景にはこれまで舞台から消えていった全ての人が倒れ伏し、低い声で一斉に「人殺し……」とうめく。
他の誰が死ぬときでもそういう演出はされなかったのですから、この赤ん坊の殺害はとりわけの意味があるということになります。
生まれ変わって夫婦になる、という誓いが歪に捻れたことの象徴がこの赤子だとするならば、誓いが果たされた証明である子供は殺されなければならなかった。
奇跡が歪に起こった世界を終わらせ、正しい世界を始めなければならない。
そして世界が終わるということは、全員が死ぬということだ。
子供を殺し、権助を殺し、「都鳥の印章」を運命を司るように立つ「侍」に献上した後桜姫も倒れ伏す。
そして語り部の口上を経て、全ての人物が回り舞台を生き生きと踊るフィナーレに至る。
回り舞台は舞台の死角部分から登場してくる別の背景ですから、これは桜姫が赤子と共に終わらせたのとは別の世界なのだと考えます。
それが死後の世界なのか、別の次元の世界なのかは受け取り方が違ってくるでしょう。
私は別の、清玄と白菊丸が結婚の宿願を果たす(或いは全く別の人生を生きる)殺された赤子のいない世界なのではないかと思っています。
「桜姫東文章」の「全ては元に戻ることを言祝ぎとする」という当時の歌舞伎特有の作法を、こう作ると演劇として無理のない解釈にできるんだなと思いました。
勿論、人物像の作り方も含めてこの解釈だけが正解なのではないと思います。
シェイクスピア作品が上演される度に、カンパニーごと公演ごとに異なる解釈や切り口を見せその違いこそが上演の価値とされるように、歌舞伎の脚本もそうできるドラマ性があると示した作品ではないでしょうか。
海外公演も熱心にやっていた十八代目中村勘三郎が、平成中村座をシビウ国際演劇祭に掛けたときのご縁がこの作品のそもそもの切っ掛けとアフタートークで聞きました。
異文化とは言え伝統を持ち敬意を払わなければならない神秘の儀式ではなく、演劇として歌舞伎の持つドラマ性を見て欲しいという願いの、ひとつの結実。
本作の発端が東京五輪の文化セクションとして、海外の演出家5人にそれぞれ歌舞伎を演劇にしてもらうという幻のプロジェクトにあったと聞けば、残りの4本は一体誰でどの作品だったのか気にもなるのですが。
(こういう企画を潰すからあのていたらくなのか、あのていたらくの主催に首を突っ込まれないで済んだのが幸いなのかはわからないですね……)
日本人にもしばしば「美しいけど難解」とされる「桜姫東文章」を選び、企画がなくなった後も作品を完成に導いてくれたプルカレーテの勇気と情熱に改めて頭が下がります。
歌舞伎を神秘の儀式にして理解を遠ざけているのは、日本人も同じかもしれませんものね。
「侍」を除いて全ての男性は女性が演じ、女性は男性が演じるこの演劇では、体格差の逆転によって男性の繊細さと女性の強さが引き立ち、また悪事の質がそもそもの性別と結びつかないようにできていたと思います。
しかしその中でも、男性と遜色なく見える長身の入間悪五郎と源吾のアクションはしなやかで美しかった。ことに悪五郎役のディアナ・フフェザンの華やかさはとてもチャーミングでした。
一度の中止を経て日本に来てくれてありがとう「スカーレット・プリンセス」。とてもうれしかったです。
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