「スカーレット・プリンセス」祝祭は時空を超える
1:えらいものを見た。
「スカーレット・プリンセス」を見た。
引き込まれた感想をひとことにすれば「紛れもなく『桜姫東文章』だった」に尽きる。
ルーマニア語で、ルーマニアの役者が、ルーマニアの劇場でルーマニアの舞台衣装で演じている現代劇の形式であっても、それは疑うことなく歌舞伎であった。
すごかった。
日本時間午前二時という未明から二時間半の劇を完徹し、午後二時からの再配信までおかわりさせて頂いた。
ありがとうシビウ国際演劇祭。この演目の来日公演がCovid-19で消滅した恨みが少し晴れた。
何がすごかったのか、何を以て「歌舞伎」を感じられたのか、すごいというのがどういうことだったのか、個人的な感想に過ぎないとはいえ、改めて考えたい。
2:何がすごかったのか。
大きな柱は二つあります。
まず元となる「桜姫東文章」が面白い作品であるということ。
もうひとつは「桜姫東文章」が「スカーレット・プリンセス」に変換されるに際し、歌舞伎という演劇形態そのものを「翻案」したプルカレーテ氏の手腕の鮮やかさにあります。
氏は2017年日本における「リチャード三世」の制作に際し、「日本語でやる時点でそれは既に本当のシェイクスピアではない。そして本場英国と同じようなことをやっても仕方ない」と言っています(公演パンフレットより参照)。
同じ考え方が歌舞伎にも適用されたのだと。
単に「桜姫東文章」の筋を使った西洋演劇の仕立てではなかったのは、歌舞伎でしか表現し得ない魅力を消さないためであったでしょう。
そして「本物ではなく、本物では有り得ないからこそ本物の真似を超えた自分たちの歌舞伎」として上演意義の再定義と再構築を行った。
それゆえに「サクラヒメ=アズマブンショウ」ではなく「スカーレット・プリンセス」。
日本で受け継がれてきた歌舞伎に対する敬意であり、自らの仕事に誇りを持っているからこその題名だと思います。
シェイクスピアと等しく歌舞伎はプルカレーテ氏にとって「海外の古典演劇」であった。
私、漠然と歌舞伎演目の西洋演劇化だと思っていたんです。
そういう考えは、歌舞伎をドメスティックな文化にすぎないと思う無意識の現れであり、裏を返せば歌舞伎は自分たちだけのものだと閉鎖的に考えていた視野の狭さだったんだなあ……と、振り返って恥ずかしく思いました。
勿論歌舞伎を扱おうとするプルカレーテ氏の見識に対する侮りでもあります。
無自覚・無意識だったからこそ、気が付けば本当にみっともなかった。
また、シェイクスピアで見たように「今上演する意義」を再定義した形で見ることで改めて「桜姫東文章」の今日的な魅力を考えることができる訳です。
すごくかっこよかった。
技術はボーダーを超えるし、フラットに物事を見る技術は知識なんですね……。
3:「桜姫東文章」を考える。
「桜姫東文章」は四世鶴屋南北の代表作の一つです。ちなみに初演は文化14年(1817年)。
話の柱はふたつ。
ひとつは清玄と稚児・白菊丸の恋に端を発する恋物語。
もうひとつは「都鳥の一巻」を巡る吉田家乗っ取りの陰謀と名誉回復までを語る仇討ち英雄譚。
「清玄桜姫」という説話ジャンルは、本来桜姫への恋慕故に破滅した清玄が妄執絶ち難く死後も化けて出て付きまとう怪談話なのですが。
清玄と桜姫にそれぞれ釣鐘権助と白菊丸という、言うなれば分身を作ることで恋心の交叉を複雑にし、かつわかりやすい仇討ち話を絡めて見る者のスッキリ感を増す作りになっています。
報われぬ恋の因果と仇討ち、見所満載の娯楽作です。
今の目で見てわかりにくい場所としては、結末の「吉田家の再興に伴い宿場女郎の『風鈴お姫』まで身を落とした桜姫が、元通り吉田家のお姫様に戻る」という「これで全ては元通り、な訳があるか」という部分ですかね。
これは橋本治「大江戸歌舞伎はこんなもの」によると当時の歌舞伎が「登場人物が全員、結局のところ武士社会につながる『一家中』という身内関係」なのでお家の存続が平和の証、事件の起こる前の家という回復された旧秩序に戻るということが最大にして唯一のハッピーエンドの形式であったということになります。
そういう当時の常識とは言え今では不可思議、というところを取り外して考えましょう。
清玄が死にそびれ、転生してきた白菊丸の「約束の恋人」となり損なった矢印の捻れが悲劇を生む恋物語。
当主と子息の命共々奪われた「都鳥の一巻」、その奪還を果たすことで吉田家の名誉回復を果たす、ある種の英雄譚。
桜姫は白菊丸の生まれ変わりであり、吉田家の姫君であるという二点で両方の物語の当事者です。
釣鐘権助は清玄と瓜二つの弟であり、「都鳥の一巻」を奪い取った悪党として同じく両方の物語の当事者となります。
二つの話が「桜姫」と「釣鐘権助」を接点に交叉する。
生まれ変わって白菊丸の自我を無くした桜姫に、年取った清玄は運命の相手の清玄と認識できない。
若き日の清玄と同じ顔の権助が現れれば、そちらが「運命」と結びつき何をされても夫婦になる一念が切れない妄執となる。
因果の輪が整合せず、捻れた形で回っていく、その皮肉な運命と残酷なままならなさ。
その恋の不一致を話全体の主軸とし、一方で吉田家の物語によって終わりに晴れやかさが生まれます。
恋の相手としては矢印が一致しないできた桜姫と権助ですが、敵討ちの相手としては一致を見るんですね。
前世からの因果で恋すべき運命の相手は権助じゃなかった、ということも露見して夫婦関係を清算すべしとなったときに、仇と復讐者という正しくそうあるべき関係が存在することが権助殺害に正当性を与えることになる。
ピリオドを気持ちよく打つ為の吉田家と都鳥です。
噛み合った問題点を解決するカタルシスが噛み合わない恋の話を締めるのです。
吉田家の安定と恋心を簒奪した権助に復讐し、桜姫はそうあるべき平和へ帰って行く。
めでたい。
(そもそも因果の恋には巻き込まれただけ、「都鳥の一巻」の対価に悪五郎から多額の褒美を得ることにも失敗している権助の悲運は……まあ劇中の悪行がほんの一部であり、恨みを死ぬ程買っていよう境遇が故、と思う他ありますまい)
さて。
報われない恋の因果、奪われた宝物を奪還する英雄譚。
運命に翻弄され、ままならない思いの人ばかりの人物造形、その意地の悪さが都会的で現代的でもある。
権威を笑い、純粋を笑い、愛を笑い欲を笑う。その果てに翻弄されるがままの最弱の存在が全てをさらう。
面白いん、ですよね。
清玄と白菊丸の恋を許されぬ恋にする宗教的社会的倫理観は珍しくない。生まれ変わる、という概念もそう珍しくはない。
封建的で「権力者にまつわる宝物」ひとつの喪失が恣意的に一族の危機に結びついてもおかしくない、恣意的な懲罰の振るわれる、法律のない社会体制を歴史に持つ国や地域も珍しくない。
なら、やはり普遍的に楽しまれる要素は、あるんだなと。
思えば私たちにとっても、19世紀初頭の江戸の価値観からは遠く離れていて、それでも尚面白く見えるのは普遍的な力があるということです。
勿論他のエピソードもたくさん含む長い「桜姫東文章」の全てがそのまま誰にでも受け入れられる訳では無かろうけど、それは馴染んだ私たちにも同じ事です。
ではここでもうひとつ考える事があります。
何故「スカーレット・プリンセス」は西洋演劇としての翻案ではなく、歌舞伎という表現形態そのものの翻案を取ったのか。
それはやはり歌舞伎でしか出せない何かが必須と判断されたからでしょう。
それは、何か。
4:「歌舞伎で表現すること」を考える。
歌舞伎とは。
日本国語大辞典(精選版)を引くと「近世初期に発生、発達した日本固有の演劇。(中略)舞踊、科白、音楽を混交させた伝統演劇として完成し、現代に及ぶ。」とあります。
思えば出雲の阿国の「歌舞伎踊り」にルーツを取るのが通説ですから踊りと音楽があって、そこに物語が入り台詞を言うようになって演劇化する。
日本の民衆はどんなときに踊りを見てきたかと言えば、やはり元は祭であったのではないでしょうか。
音楽と舞踊がもたらす祝祭の空間。
華々しい非日常。
どこの演劇もルーツを追っていくと祝祭に繋がるものだとは思います。しかし日本で「芸能」が「芸術」という「アート」の訳語を名乗るようになるのは明治以降つい100年、150年程度のことだと思えば「祝祭」の要素をかなり色濃く残しているのではないかと思います。
単なる非日常ではなく、本質的にめでたいのです。
演目が血塗られた悲劇であろうと、庶民階級を描いた生世話ものであろうと、予定調和な結末に至る様式があるということ自体が観客の要求の現れと考えます。
プルカレーテ氏が「スカーレット・プリンセス」を演出する際に、花道にスッポン、回り舞台に殺陣、見得、黒子、下座と歌舞伎の仕掛けを彼のアレンジを加えつつ投入してきたのは祝祭性を持ち込む意図が無いでしょうか。
つまりありえないことが当たり前に起こる空間そのものを、祝福をもって構築する。
客席へ堤のように突き出した花道は舞台と観客の距離をぐっと縮め、しかし舞台の高さを維持している為に客席そのものとは混じりません。
緩やかな結界。
スッポンからの出入りは舞台下の奈落=別の世界を意識させます。
下座から発せられる音曲は単なるBGMのみならず効果音でもあり、時には詞に「地の文」を混ぜて心情や状況を説明し、時間の経過をも表現します。
舞台は花道という水平の広がりを受け、音によって時間と空間を自在に飛ばす。
「スカーレット・プリンセス」の世界は生死の境があやふやです。白菊は死後桜姫となって舞台に戻り、清玄は青蜥蜴の毒で殺されながらまた息を吹き返す。具体的な場面はなくても死後の清玄は桜姫の元に化けてでる。悪五郎の死体は奈落へ手を振りながら消えていく。
そして権助との夫婦関係を消し去って、桜姫は再興された吉田家へ帰る。
権助が殺してきた人たちを象徴する横たわる人々は、桜姫が「Seal of Miyakodori」を手に奥へ進むにつれて身を起こし、舞台奥に佇む武者姿の「運命」を表象すると思われる人物に「Seal of Miyakodori」が手渡されるとまた桜姫共々地に伏す。
桜姫は吉田家の姫として生きる、そして白菊の因果な恋からも解き放たれた別の時空へ還っていったのではないですかね。
「桜姫東文章」の桜姫が再構築された元の秩序に戻るのなら、「スカーレット・プリンセス」の桜姫は強くてニューゲームの世界へ旅立っていった。
登場人物総出の歌で躍りで、言祝ぎながら幕は下りる。
生死と時と、次元を鮮やかに飛ばしたり戻ったりする物語には、ありえない事象を納得させるだけの祝祭性が必要だった。
ストップモーションで役者を強調する見得は、時間を切り取ることでリアリティを切る。
踊るような危うげのない殺陣。
死角から回り舞台で登場する新しい地面。
いるのに存在しない黒子。
ナレーションと音曲に分割して表された下座から、時には舞台に上がって芝居に干渉するナレーターはメタの視点を捧げ持つ。
舞台上の虚構を強調することで、虚構を虚構と認識する現実との境は薄くなる。
女が男を演じ、男が女を演じ、同時に男の演じる男も女の演じる女も舞台の上には存在する。
生死、性別、社会階層、時間に空間を自在に組み替える「スカーレット・プリンセス」の世界。
あらゆるボーダーを超えるため、超える祝祭を勧請するため、プルカレーテ氏は氏の考察と要求を加えた自分のスタイルの「歌舞伎」を演出に用いたのだと私は解釈します。
運命の残酷、恋の残酷、人の残忍。
振り回されるままのか弱い桜姫が、権助とのつながりを始末してすべてを取り返す結末を思うと「運命を超える」はテーマにあるだろうと思うのです。
風変わりなアクセントとしての要素でなく、必要だから構築された歌舞伎の世界でした。
おもしろかった。
とてもおもしろかったし、無料配信ありがたいのだけれど改めてCovid-19に消えた来日公演を思うのです。
日本語の字幕が欲しい、パンフレットがグッズが欲しい。
いつかまた、機会が戻ってきて欲しい。私はそれを切実に願うのです。
ついでに、プルカレーテ氏の「リチャード三世」についての過去記事もよろしければどうぞ。
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