窓ガラス【エッセイ1】

包摂性とは、外れることを、語れるようになること、だと思う。その先に、お互いを外れていると思わないようになること、それが多様性なのではないだろうか。

外れていることと、窓ガラスを割ることは、違う。しかし、この国では、外れていることと、窓ガラスを割ることが、まだまだ同義で語られてしまい、取り締まりと気づかずに取り締まりに近いことが行われている。

外れていることを、個性と、なぜ捉えられないのか。まだまだそういう社会だから、外れていることが、苦しくなる。

そもそも、なぜ「外れる」のか。
それは、社会の枠組みがあるからだ。
その枠組みが、まだこの国では根本的に狭い。
いや、まだまだ、どの国もそうだ。
この世界の枠組みが、まだ狭い。

取り締まらなければいけないこととの線引きは、もちろんしっかりする。そのうえで、何が、包摂されるべき個性かが、きちんと考えられていかなければならない。

割れた窓ガラスのように個性を取り締まる社会は、人間の広がりを抑止していく。それは、基本的には拡大したいと欲する、人間の願望に反していることでもある、とわたしは思う。

科学を知り、優しさを知ったとき、
人間の眼差しは、温かい。


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