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火加減ができない女と甘く解けるマロングラッセ

栗の鬼皮はかたい。

お尻のざらざらしたところにそっと包丁を入れてきっかけを作ったあとは、渋皮を傷つけないように、優しく、でも力を込めて剥いていかなければならない。左の親指に何度も刃があたり、鮮やかな血が滲んできたけれど、そんなことが気にならないくらい没頭した。

マロングラッセは、とにかく下処理が大変なのだ。何度も水を替えてアク抜きし、渋皮にのこった筋や繊維を1つ1つ爪楊枝を使って取り除いていく。
けれど、柔らかくなった渋皮はとても脆い。さっきまであんなに主張していたのに、今手の中にあるそれに細心の注意を払って向き合わなくては、あっけなく崩れてしまう。


その、一見息がつまる作業は、最近の頑なだった私に逆に息を吹き込んだ。自分の内側に目を向けて、心を少しずつ柔らかく解きほぐしていく感じに似ていたからだ。


「疲れた。」と、口をついて出た


その声は、思ったより自分の耳にダイレクトに入ってきて、反響した。

自分でも気づいていなかったけれど、ここ数週間の私はぎゅっと固くなってしまって力を抜くことができていなかったのだ。毎日楽しいけれど、自分自身に変なプレッシャーをかけていた。そのせいで、はぜた栗のように突然なかから何かが溢れてしまった。

そんな時、思いがけず降って湧いた1週間のお休み。休める、という事実だけで少し心が落ち着いた。我にかえってみると、私はずっと、自分に鞭を打って走っていた。楽しんでいなかった。周りを見ていなかった。

6月に新しい会社に入社して、社名変更・リブランディング、取材、取材、WEBリニューアル・・・と怒涛だった。

久しぶりの広報の仕事を思い出しながら、そして私の知っていた「広報の仕事」よりもはるかにカバー範囲が広い業務に毎日びびっていた。

「これが私のやりたい仕事」と意気込んで飛び込んだからには、とにかく走らざるを得なかったけれど、内心周りの人々の優秀さに圧倒されていた。ずっと強火力で燃やし続けて、ギリギリで燃料補給して走り続けていた。そうでもしないとついていけない。いや、本当は多分ついていけていない。

「悔しい」「できない」、そしてまた「悔しい」「できない」。無限ループ状態。

本当に休んでいいの?という恐怖

余談だが、今回の休みの背景はこれ。

休んでいいと言われて、自分が負けたような気がした。

でも、よく考えたらなにと戦ってたかわからない。自分が負けたと思っていた相手は、多分私と戦ってるだなんて思ってもいないし、むしろ手を差し伸べてくれていた。勝手にシャーシャーと毛を逆立たせていたのは、私だ。

そう気づいた時に、やっと自分の空虚な虚栄心と意味のないプライドが負けた。

身動きを取れなくしていた鎧が、一瞬で砂になったようだった。

火加減ができない女

「自分の感受性くらい」という詩が好きだ。これはいつも私の中にいて、自戒の言葉としてある。

あるんだけれど、ずっと自分を強火にかけていると湯気で曇って見えなくなってしまうのだ。今だって、指先で詩集をめくれば、それがどのページにあるかすぐにわかる。それくらい本も私も覚えている。なのに、見えなくなってしまう。

自分を曇らせてしまう湯気を立てないように、中身同士がぶつかって傷つけてしまわないように、コトコト煮立てて自分のバランスをとる。それが苦手。でも、自分の火加減は自分で調整するしかないのだ。

茨木のり子も、もしかしたら苦手だったんじゃないだろうか。彼女の詩にはいつも一本芯が通っている。でも、その詩をかく彼女の姿を想像すると、なぜか不器用な女性の姿が浮かぶ。

今目の前にある、マロングラッセを煮る鍋の火加減は、ごく弱火。

それでも十分硬い渋皮を柔らかくし、静かにゆっくりと、つやつやの甘く解けるマロングラッセとしての姿に昇華させていく。

「焦るな。ゆっくりと、そしてかける手間の数だけ、美味しくなっていくのよ。」と鍋と、それを見つめる詩人に、言われている気がした。

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