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231107_意識と氣温と天候と

天氣予報などを日々見ている人は、天候をただの情報として捉える傾向にあって天候と自分自身を切り離した関係を構築しています。
とある天候を作っていることに自分は関わっていないと。
ただ今日、明日とやってくる天候を身をもって体験するという受け身の状態、ただやってくる天候に決まりきったリアクション(反応)を繰り返すだけとなっている感じで。

天候を自然という言葉で包含されると仮定するとして。
昔は自然などという言葉はなかったという情報が出てきますがこれはその言葉がなかった当時の人々と現代人が自然と呼んでいるものと一体化しているからそういう区別する言葉が必要なかったとか色々ありますが、

何かの言葉が登場するときは【区別】するために基本的に登場すると考えると人間が自分自身と自然を区別するために自然という言葉が登場したと考えることができ、その自然という言葉が出てきた時点で人間から自然が離れたと考えてよいかなーと思います。
自分と他人を区別するために肉体に付いた名前で呼び合うことと同じ話です。

こうして人間から分離して出来上がった自然という概念を見ると、現代人の言う自然は概ね、樹木とか天然の生き物が沢山いる場所とか山とかある場所となっていますよね。
典型的なのは樹木を自然の一部と思い込んでいるところでしょうか。
そんな感じなので現代人は公園にある樹木と手つかずのところにある樹木の違いがよくわからなくなっていますし、また人工的にコッソリ街中に作られたホログラム樹木も恐らくホログラムと氣が付かずホンモノの樹木と思い込んでいることでしょう。

自然という言葉がなかった当時の人間と自然が一体化していたことを考えると当然、人間の意識とその自然は互いに影響し合っていたものとなりますが、現代人の意識、マインドがあまりに人工的なもので敷き詰められているので当然、外部にあると思い込んでいる自然も手つかずになっているものは極端に少なくなっていると思われます。
自然のある場所と思い込んでいたところには粗大ゴミ、産業廃棄物がひっそりと佇んでいることでしょう。都会より郊外へと引っ越した先が有害な産業廃棄物がポツンと置かれている地域でしたってのは有り得る話です。
以前、人氣のない林道を歩いていたら冷蔵庫などの家電が不法投棄されているのを見かけました。こういう状況のものは至るところであるのでしょう。

当然、現代人の意識が天候にも影響を及ぼしていると見ると、現在の氣温の乱高下も現代人の意識が揺さぶられている状態と見れますが、よくわかっていない人々はせいぜいその現象を異常気象ぐらいとか天氣予報の言うところのエルニーニョ現象とか言う表現を真に受けるしかなさそうです。
異常が起きているのは自分たちの意識でしたということに全く氣がつかない状態で。
天氣予報は明日の氣温や雲の状況、氣圧に関する情報を手に入れることが出来ても、その天候を現実世界に投影している投影元となっている本質的なものにはタッチすることが出来ないのでいつまで経っても人間と自然は分離したままになると思います。
そのような分離状態が続くと、やがて自然現象として世界のリセットが起こるようになります。

ヒビキアマカム

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