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ジャン=ポール=エヴァン

深夜、酔った頭、開けっ放しの窓、冷え切った部屋の暗闇の中考える。

チョコレートについて。

チョコレートとは不思議なもので、私を安心させたり、わくわくさせたり、ドキドキさせたり、緊張させたりする。それは匂いであったり味であったり、形であったり、様々な要因で。特に箱に入ったデパートで売られているようなチョコレートなんかは特別な感じがして好き。買ったチョコレートを受け取る瞬間、受け取って家で並べて眺める瞬間、箱にかかったリボンを解く瞬間、包装紙を破く瞬間、箱が可愛くて置いておくためにテープを綺麗に剥がす瞬間、そして何より、箱を開けた時に香るあの香り。私はチョコレートのプロでも食べ物のプロでもないけれど、わかる。あの匂いは最強だ。幸せがそこにある。幸せが私を呼んでいる。ここだよ〜って、優しい声がする。そして十分に匂いを堪能した後に、その宝石のような形のチョコレートたちを眺める。手に取って、光にかざして眺める。何故か中々食べられない。もったいない。もったいない気がするけれど、食べられずに捨てられるのはもっともったいない。これは私の胃の中に全て入れるべきだ。私の血となり肉となり肌となるのだ。これは全部私のものだ。赤くてハート形のチョコレート。ダイヤ型のチョコレート。平凡な正方形のチョコレート。そのどれもが芸術的で美しい。堪らない。堪らない。素敵だ。もう私にはこれらが宝石にしか見えない。いや、どんな宝石よりも価値がある。それにこの宝石は美味しい。そして胃に入れても優しいのです。

しかし私は安いチョコレートが嫌いなわけではない。スーパーやコンビニで売られているチョコレートだって食べる。むしろそっちを沢山食べる。安いからと気軽に毎日のように食べる。チョコレートに、高い安いは関係ない。何事にも高い安いは関係ないと思ってはいるが、チョコレーに関してはどちらも美味しいと断言できる。

けれど何故だろう。ジャン=ポール=エヴァンは違う。あれは違うものに感じる。明らかに別格だ。まず、誤解を招かないために言っておきたいのだが、私は高級チョコレートを食べ慣れているわけではない。むしろ全く食べない。知っているのは名前だけというのが殆ど。その上で話を進めるが、私の好きな詩人最果タヒさんがジャン=ポール=エヴァンについての好き書いていて、愛が溢れ出していたので、それを読んでより強く食べたくなったのだが、タヒさんの言う通りであった。ジャン=ポール=エヴァンのチョコレートはチョコレートであってチョコレートではない。もうジャン=ポール=エヴァンという食べ物だ。安いとか高いとか関係なく、もう値段とか価値とか年齢とか性別とか全てを飛び越えて愛されるチョコレートの真実のような味。私は他の歴史あるチョコレートの味を知らない。全部は知らない。全くの初心者だ。けれど、初心者でもわかる。まさに運命。そんなチョコレートにこんなにも早くに出会ってしまった。一粒食べただけで語りたくなんてないけれど、一粒食べただけで語りたくなってしまうほど素晴らしいものに出会ってしまった。これが好きだ。久しぶりのこの好きの高揚感。素晴らしい。一粒約四百五十円。私たち消費者のほとんどは、チョコレートが作られる背景を知らない。きっと、生産過程にも、販売過程にも、様々な苦労と歴史があるのだろう。しかしながら、その値段がどれだけの価値があるのかを決めるのは私たち消費者だ。何にも知らない消費者だ。私はこのチョコレートが値上がりしたとしても、他のチョコレートに慣れ親しんだとしても、ずっと食べたいなあと思う。そしてまた、高級チョコレートに慣れ親しんだ頃に、チョコレートについて、ジャン=ポール=エヴァンについて書きたい。

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