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お爺さん(74歳)の思い出 その25 兄弟の事

私は、男3人女2人の5人兄弟です。
昭和19年生まれを筆頭に最後が昭和31年生まれです。

長女は、昭和19年2月生まれで、中学校を卒業後、小学校の給食係に就職しました。当時は、給食といっても脱脂粉乳を、お湯で解いて配る給食係の役割から始まり、パン食となり、パンと惣菜が出されるようになりました。

姉は、18歳で結婚19歳で長女を出産しております。その娘も19歳で結婚20歳で子供を産んでおり、姉は40歳でお婆ちゃんになりました。これも珍しいのではないでしょうか?

農家に嫁ぎましたが、給食係という職業経験を生かし、嫁ぎ先でも学校給食を担当する職を得て、地方公務員(当時は学校給食係も役場の職員同様の扱いでした)となり、定年まで勤めました。農業での生活が厳しくなる中で、公務員となれた事は、家計の助けになったと姉は感謝してると振り返っています。

次女から、高校に進学できるようになりました。長女と長男(私)は中学校まででした、(貧乏のため)それでも、私も姉もそんなに卑下してはいませんでした。周囲には中学校卒で働く人が多くいて、当時の高校進学率は60〜70%くらいではなかったかと思います。

妹は、高校を卒業すると関西に就職していきました。3〜4年で帰郷して結婚する事になります。結婚の相手方が商売を営んでいりことから、経理の専門学校に通った事を思い出します。

次に、次男です。高校を卒業すると同時に、関西の大手鉄鋼会社に就職、持ち前の明るさと、元気さで職場では重宝がられたようです。定年退職まで勤め上げ、3人の子供にも恵まれて、退職後も関西で暮らしています。

最後に3男です。3男は自宅から高校に通学するのがいやで、中学校を卒業するとすぐに、関西の大手造船所に就職して、定時制高校に入りました。当時は定時制の高校は、結構多くの学生が学んでいたようです。

しかし、都会の水が合わなかったのか?4〜5年で退社して、故郷に帰ってきました。再就職は造船所で学んだ、溶接技術を活かして街の鐵工所で働きましたが、技術の差は歴然として(大きな建造物を溶接するのと、町工場での溶接の差)ここにも馴染めずに、実家に帰って家系を継ぐことになりました。

それまで、私が長男として跡継ぎだつたのですが、弟が変わって継いでくれたと言うことです。私にとって大変助かったとの思いです。

今日はここまでにします。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回も宜しくお願いします。

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