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身魂の洗濯、掃除

人間の記憶、価値観、性格などは体験によりつくられると言われます。
 
体験はそれぞれの世界により違います。
 
奪い合う世界で生きれば奪うことが正しいこと、普通のことになります。
 
争い合う世界で生きれば争うことが正しいこと、普通のことになります。
 
騙し合う世界で生きれば騙すことが正しいこと、普通のことになります。
 
憎しみ合う世界で生きれば憎むことが正しいこと、普通のことになります。
 
思いやりの世界で生きれば思いやりが正しいこと、普通のことになります。
 
皆さんは体験を好きに選んで生きてきたでしょうか?
 
おそらく、ほとんど場面を思い返しても好きに選べてないと感じるのではないでしょうか。
 
選べたのはぜいぜい生きてきた世界の狭い範囲の限られたものだったはずです。
 
体験を好きに選べないということは記憶、価値観、性格も好きに選べないということです。
 
この事実からも、どんな人間になろうとも個人に責任はないということです。
 
現在の世界は何か事が起きれば特定の個人に責任があるとし、個人を裁きます。
 
ですが個人は世界が与えた体験によりつくられる故に、個人を裁くのはお門違いです。
 
もし責任があるとしたら人間に体験を与えている世界そのものではないでしょうか?
 
世界は人間の本音、本性である内側によりつくられています。
 
世界とは多くの人々の内側が外側に現れているだけなんです。
 
これが世界に責任があると言われる理由です。
 
だから現在を生きる人、全員に責任があると言えます。
 
より多くの人々が自らの内側に気づき、改心するほど世界もより良く変化していきます。
 
世直し、建て替えとは、このことではないかと私は感じています。
 
現在、動画サイトでは終末論や救世主論に関するものを見かけるようにまりました。
 
今までの生き方では通用しなくなる、という点では終末論は正しいと思います。
 
自らの内側を変えない限り、本当に喜べないという点では救世主論は正しいと思います。
 
天国、極楽、弥勒の世、理想郷と呼ばれるものは決して非現実的なものではありません。
 
全員が本気になれば、労することなく実現可能です。
 
内側にある難しい、大変だ、無理という思いが邪魔をしているだけです。
 
内側を綺麗にすることを日月神示では洗濯、掃除と表現されています。
 
個人の洗濯、掃除は世界の洗濯、掃除に繋がります。
 
以下は日月神示の一文です。
 
 
日月神示
【黄金の巻 16帖】
神まかせがよい人民であるぞ。
この神と認めたら理解して、まかせ切れよ。
太元の神様に惚れ参らせよ。
真の信仰の第一歩ぞ。
雨降らば雨を、風吹けば風をひとまず甘受せよ。
甘受した後、処理して行かなならん。
受け入れずにハネ返すのは大怪我のもと。
何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。
何か迫り来るのは、何か迫り来るものが、自分の中にあるからぞ。
内にあるから外から迫るのぢゃ。
自分で呼び寄せているのぢゃ。
苦しみの神、因果の神呼んでおいて、不足申している者多いのう。
自分で呼び寄せながら嫌がってハネ返す手あるまいにのう。
同じものでも表からと裏からとでは違うのぢゃ。
同じ目で見ても、違ってうつるのぢゃ。
心得よ。
 
 
【扶桑の巻 10帖】
何事が起こって来てもまず喜こんで迎えねばならんぞ、近づいてくるのは呼び寄せたからぢゃ、こんな嫌な、汚いものはごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆己の心の写しでないか。
内に無いものが外から近寄る道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んで迎えるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。
何事も一段ずつ、一歩ずつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。

 
 
【富士の巻 9帖】
神界は七つに分かれているぞ、天(あま)つ国三つ、地(つち)の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国(地獄)も上中下の三段、中界の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれているのぞ、その一つがまた七つずつに分かれているぞ。
今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるのぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あるとくどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世になるぞ。
この世は人間にまかしているのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のような腐った臣民ではないぞ、いつも神の憑(か)かっている臣民ぞ、神憑かりとすぐわかる神憑かりではなく、肚の底にシックリと・鎮まっている臣民ぞ、それが人間の真の姿ぞ。
いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でいてくれよ、地獄の三段目に入ることの表は一番の天国に出づることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリと出て来るのぞ、⦿と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。
何事も洗濯第一。
 
 
【磐戸の巻 16帖】
洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、知恵や学に頼らずに、⦿(かみ)の申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶごころ)になりて、⦿の教え守ることぞ。
身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、⦿の申すとおり背かんようにすることぞ。
学や智を力と頼むうちは身魂磨けんのぞ。
学越えた学、智越えた智は、⦿の学、⦿の智ざということわからんか。
今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。
天災や戦ばかりでは中々埒あかんぞ、根本の改めざぞ。
小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。
叱るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けのよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。
この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、⦿が網かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた始めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。
身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。