見出し画像

わからなくても、出来なくても動揺しないのが成長した証

一人で学びを続けていた頃、人の心はどうすることも出来ないという結論に達したことがありました。

自分の心を何とかしたいという思いで長年、学んできたのに絶望的な結論に行き着いてしまったため心は完全に折れ、私の学びは行き詰まりました。

その後、すぐに師匠から学ぶようになりますが、師匠からも順調に学べたわけではありません。

学びを続けているのに良くなってきている実感がない、ということが何度もあり、困り果てたことがありました。
今ならわかりますが、これも行き詰まりです。

ただ当時は原因がサッパリわからないため、師匠に相談したら以下のようなことを言われました。
『無い壁を自分で作っているからだ』
『わからなければならない、という思いがあるからだ』

以前、心が世界をつくっている、心が動かなければ世界は存在しない、と教えてもらいましたが、まさにその通りでした。

人の心が活動しなければ苦しむことも、悲しむことも、喜ぶこともありません。

今あるもの一切は自身の心がつくり出したものだから、解決できるのも自身であります。

ならばどうすればよいか?
余計なことに気づき、やめていけばいいだけです。
余計なことがなくなるまでひたすら繰り返すことです。

人の心とは無数の記憶の集まりです。
それらは全て体験によりつくられたわけですから、気づきという体験によりつくり変えることが出来ます。

私はそれをひたすら実行し続けたから、こうして皆さんに対して体験記事が書けるわけです。
行き詰まりというとネガティブなイメージがありますが、行き詰まりがあったから真剣に向き合えたのだと思います。

行き詰まりがなければ、真剣になることもなく学びをやめていたでしょう。
行き詰りが与えられるのにもちゃんと理由があります。

師匠にもこう言われたことがあります。
『進んでいるから行き詰まるんだ』
『進んで見える時より進んでなく見える時が進む時です』

以下は行き詰りの相談をした時の師匠の教えと日月神示の一文です。

【師匠の教え】
無い壁を自分で作っているんです。
「成長しなくてはならない」があるから「成長しない」があるんです。
「成長しない」があるから壁が出来るんです。
成長しないことにも動揺しないことが成長と言うんです。

私の言っていることが理解出来ずに間違って訂正され、納得することの一体どこが悪いんです。
智慧がつくことが成長と思ってませんか?

成長とは出来ることを言うのではないんです。
出来ずとも動揺を見せない心が成長なんです。

始めは皆さんそうして来たんです。
間違いを修正され納得する、を繰り返して来たではありませんか?
なぜ今はそれが悪いんです。

ここに問題があるんです。
間違い、修正され、悟る、を繰り返してある程度理解ができ、説明が出来たわけです。

だが私の言うことを完全に理解するには私にならねば無理なんです。
だから理解不能のことも当然出てきます。
そうしたら修正されて納得で何が悪いんです。

どこかに行こうとしてませんか?
今、神の家にいないなら当然どこかが間違っていて、だから壁というものが出来て、壁は間違いに気づかせてくれて、次の成長を促すんです。

俊和さんはこれどう思う。
ある人はカレーライスの話を聞いてカレーライスを食べる前にカレーライスの味が理解できないと心を痛めていました。
俊和さんなら何て言ってあげます。

グルならこう言います。
ラマナ『カレーライスがどんな味なのかまず食べてから考えたらどうだ』

私はカレーライスの味が理解できず、一体何が悪い。
さあ俊和さんなら何て言ってあげますか?

まず、食べる前に分かると思う自体が間違いなんです。
この間違いがどこから現れているか見てごらん。

様々な心の問題が見えて来るだろう。
例えば裁き、例えば比較、例えば負けたくない、例えば計算、例えば・・・と見えて来るはずです。

自分にまだあると自覚してあぶり出して行くことを反省と言うんです。
神の家に辿り着くまでは問題は残り続けるんです。

進むとは心の動揺が現れにくくなってくるだけです。
現れなくなるのは完成後なんです。

先生に指摘されて初めて分かる。
学んでいるんだから当然だろう。
一体これの何が問題です。

問題なのは先生に指摘されて初めて分かることが悪いと思うことではありませんか?
『私はわかっていなくてはダメだ』がないですか?
だからわからないことに心が動揺するんです。

このことを最近言っていたんです。
古くなれば古くなるほど、先輩になれば先輩になるほどこの問題は現れるんです。
特に男性はね。

どうだろうこれでわかりましたか。
この心の問題を見極めて行くのが実践なんです。

それには自分にあることを認めて意識を向けて行く。
これが反省ですよ。

最後に進んで見える時より進んでなく見える時が進む時です。

日月神示
【春の巻 10帖】
同じこと繰り返しているように、人民には、世界が見えるであろうなれど、一段ずつ進んでいるのであるぞ。
木でも草でも同様ぞ。
前の春と今年の春とは、同じであって違って居ろうがな。
行き詰まりがありがたいのぢゃ。
進んでいるからこそ、行き当たり行き詰まるのぢゃ。
省る時与えられるのぢゃ。
悟りの時与えられるのぢゃ。
ものは、放すからこそ掴めるのぢゃ。
固く握って戸閉めていてはならんのう。
扉あけておけと申してあろうが。
着物脱いで裸体となることつらいであろうなれど、脱がねば新しい着物きられんぞ。
裸になってぶつかれよ。
神様も裸になってそなたを抱いて下さるぞよ。
重い石乗せたタクアンはうまいのであるぞ。