見出し画像

出来ずとも心が動揺しないのが成長

師匠から学んでいた初期の頃、私は心の問題を何とかしたいと必死になっていました。

常に師匠のお話を印刷した紙の束を持ち歩き、仕事の空き時間を見つけては読んでいました。

また家に帰れば寝るまでの僅かな時間も師匠の記事を読み、考えるという生活を続けていました。

その甲斐あって私は短期間のうちに心が良い感じに変化しているのを実感していました。

ところがある時から学び続けていても良い感じに変わる実感がなくなってきました。

焦った私は過去に学んだことをもう一度学びなおしたり、師匠以外の教えを取り入れたりといろいろと行いましたが、効果はありませんでした。

当時、私は『出来ないことを出来なければならない』『理解できないことを理解できなければならない』という思いにとらわれていました。

つまり焦り、不安、恐怖が行動の原動力になっていたわけです。

師匠はそれを簡単に見破り、淡々とお説教してくれました。

以下はそのお話です。

学びの過程において多くの人が陥りやすい過ちでもあるので参考になれば幸いです。


【師匠の教え】
無い壁を自分で作っているんです。

『成長しなくてはならない』があるから『成長しない』があるんです。

『成長しない』があるから壁が出来るんです。

成長しないことにも動揺しないことが成長と言うんです。

私の言っていることが理解出来ずに間違って訂正され、納得することの一体どこが悪いんです。

智慧がつくことが成長と思ってませんか?

成長とは出来ることを言うのではないんです。

出来ずとも動揺を見せない心が成長なんです。

始めは皆さんそうしてきたんです。

間違いを修正され納得する、を繰り返して来たではありませんか?

なぜ今はそれが悪いんです。

ここに問題があるんです。

間違い、修正され、悟る、を繰り返してある程度理解ができ、説明が出来たわけです。

だが私の言うことを完全に理解するには私にならねば無理なんです。

だから理解不能のことも当然出てきます。

そうしたら修正されて納得で何が悪いんです。

どこかに行こうとしてませんか?

今、神の家にいないなら当然どこかが間違っていて、だから壁というものが出来て、壁は間違いに気づかせてくれて、次の成長を促すんです。

俊和さんはこれどう思う。

ある人はカレーライスの話を聞いてカレーライスを食べる前にカレーライスの味が理解できないと心を痛めていました。

俊和さんなら何て言ってあげます。

グルならこう言います。

ラマナ『カレーライスがどんな味なのかまず食べてから考えたらどうだ』

私はカレーライスの味が理解できず、一体何が悪い。

さあ俊和さんなら何て言ってあげますか?

まず、食べる前に分かると思う自体が間違いなんです。

この間違いがどこから現れているか見てごらん。

様々な心の問題が見えて来るだろう。

例えば裁き、例えば比較、例えば負けたくない、例えば計算、例えば・・・と見えて来るはずです。

自分にまだあると自覚してあぶり出して行くことを反省と言うんです。

神の家に辿り着くまでは問題は残り続けるんです。

進むとは心の動揺が現れにくくなってくるだけです。

現れなくなるのは完成後なんです。

先生に指摘されて初めて分かる。

学んでいるんだから当然だろう。

一体これの何が問題です。

問題なのは先生に指摘されて初めて分かることが悪いと思うことではありませんか?

『私はわかっていなくてはダメだ』がないですか?

だからわからないことに心が動揺するんです。

このことを最近言っていたんです。

古くなれば古くなるほど、先輩になれば先輩になるほどこの問題は現れるんです。

どうだろうこれでわかりましたか。

この心の問題を見極めて行くのが実践なんです。

それには自分にあることを認めて意識を向けて行く。

これが反省ですよ。

最後に進んで見える時より進んでなく見える時が進む時です。