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無知がエゴを維持し続ける

エゴを持ってはいけない、エゴを捨てなさいといろんな方が言われています。

しかし、皮肉なことに現在の世界はエゴを生み、育てるような環境になっています。

自他の区別があり、個人があるという前提で生きれば誰もがエゴを持ち、強化してしまいます。

自分という立場になるだけですでにエゴなんです。

現代は個人の成果、個人の能力、個人の権利というものがやたら強調され、注目されています。

自分は努力した、自分が成し遂げた、自分が評価された、自分は優れている。

エゴが大好物な、エゴを強化する言葉です。

エゴは自分の事にしか興味ない故に他人事には無関心です。

無関心は一見、危害を加えない行為に見えるので悪いことだという認識がありません。

ですが他者に対する無関心は、自分に対する無関心の現れでもあります。

例えば自分のやりたいことだけやって、嫌なことから逃げ回るとどうなるでしょうか?

周りの人に迷惑をかけるだけでなく、自分もろくな目に合わないでしょう。

自身の問題ごとに無関心なら、尚更痛い目にあい続けるでしょう。

自分の本音、本心と向き合わないことが、自分に対する無関心です。

無関心は臭い物に蓋をして、嫌なことから逃げ回る、究極の我善し行為です。

我善しになるのが人の潜在的思考と言われますが、そうなってしまうのも結局は知らないから、理解できないから・・・つまり無知だからなんです。

無知が我善しを維持し続けているんです。

無知であるが故に無慈悲なことでも平気で出来てしまうんです。

マザー・テレサは『愛の反対は無関心』と言いました。

ラマナ・マハルシは『愛を近くの者から遠くの者へと広げていきなさい』と言いました。

私の師匠は『一切の立場に立って考えなさい』と言いました。

自身に起きていること一切は自身が原因で起こっています。

他者が問題を解決してくれたり、世界をより良くしてくれるのではありません。

自分の問題は自分で解決するよう神より与えられています。

それが人それぞれの進むべき道であります。

だからどんなに逃げ回っても、追いかけてくるんです。

今、自分の内側で起こっていることに関心を持って下さい。

内側を見ることなく、無知を解決する方法はありません。

以下は日月神示の一文です。


日月神示
【春の巻2帖】
神人と申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のために祈り、実践する人のことであるぞ。
神のため祈れば神となり、世のために祈れば世と一体となるのぢゃ。
自分のためばかりで祈れば迷信、我れ善しの下の下ぞ。


【春の巻 13帖】
自分はよいが、世の中が悪いのぢゃと申しているが、その自分省みよ。
自分が神の道にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。
輝いているぞ。
自分にふりかかって来る一切のものは最善のものと思え。
如何なる悪いこともそれは最善のものであるぞ。
この道理よくわきまえて下されよ。
真の神理解すれば、一切の幸福得られるのぢゃ。
世を呪うことは自分を呪うこと、世間や他人を恨むことは自分恨むこと。
このこと悟れば一切はそこから開けてくるぞ。
十のもの受けるには十の努力。


【月光の巻 38帖】
始めの喜びは食物ぞ。
次は異性ぞ。
いずれも大きな驚きであろうがな。
これは和すことによって起こるのぞ。
融け合うことによって喜びとなるのぢゃ。
よろこびは神ぢゃ。
和さねば苦となるぞ。
かなしみとなるぞ。
まず自分と自分と和合せよと申してあろうが。
そこにこそ神の御働きあるのぢゃ。
ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。
元の喜びは霊の食物を食うことぞ。
その大きな喜び与えてあるのに、何故手を出さんのぢゃ。
その喜び、驚きを何故に求めんのぢゃ。
何故に神示を食べないのか。
見るばかりでは身につかんぞ。
よく噛みしめて味わいて喜びとせんのぢゃ。
喜びが神であるぞ。
次には神との交わりぞ。
交流ぞ。
和ぞ。
そこにはかつて知らざりし驚きと大歓喜が生まれるぞ。
神との結構による絶対の大歓喜あるのぢゃ。
神が霊となり花婿となるのぢゃ。
人民は花嫁となるのぢゃ。
わかるであろうが。
この花婿はいくら年を経ても花嫁を捨てはせぬ。
永遠に続く結びぢゃ。
結魂(けっこん)ぢゃ。
何ものにも比べることの出来ぬ驚きぞ。
よろこびぞ。
花婿どのが手を差し延べているのに、何故に抱かれんのぢゃ。
神は理窟ではわからん。
夫婦の交わりは説明出来まいがな。
神がわかっても交わらねば、神と融け合わねば真理はわからん。
何とした結構なことかと人民ビックリする仕組ぞ。
神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。
消えざる火の大歓喜ぞ。
これがマコトの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。
早う神の懐に抱かれて下されよ。