『2、百年経っても読まれる小説の書き方』
私がみんなの小説を読む時、まずここを見る。
最初の四行を読んで、小説が進んでいなかったら、二ページ目の頭の四行を読んでみる。それでも小説が進んでいなかったら、その小説はもう読まない。
最初から最後まで立ち止まって、全く進まない小説を読んだことがある。博士論文を読んでいるみたいだった。全てが「解説」になっていて、されど、それが芸術的であるわけでもなかった。
「小説が進まない」の意味は、最後に私の未発表新作『パトカー』の一部を使ってお話しようと思います。
その次は、意外だと思われるかも知れないけど、私は文末を拾って読んでいく。それは「紋切り型」を探している。紋切り型の数で、何年くらい書いてきた人か大体分かる。
「紋切り型」とは、常套句とも呼ばれ、使い古された当たり前の言葉。もっと個性的で新しい表現をしようよ、ということ。
紋切り型は、文末に現れることが多い。小説投稿サイトを三十分眺めただけでこのくらい出て来る。仰天の紋切り型リストと、私だったらどう書くか? という場面を見てみましょう。
「月が輝く」と書いた人がいたのには仰天した。アントン・チェーホフ(1860-1904)の有名な文学論にこう書いてある。
「言う」のは小説じゃない。「見せる」のが小説なんだよ、ということ。今の世では反論もあるけれども、文学の基本中の基本だから、知っておこう。
書き始めたばかりなのに紋切り型が全くない人もいて、言葉を選ぶセンスがいいんだな、と感心する。それから、紋切り型のカッコいい使い方、というのもあって、それができるようになったらほんとのプロなんだけど、私にはまだトライするチャンスが巡ってこない。
「進まない小説」「紋切り型」と見ていって、次に私が見るのは「会話文」。会話文は物凄く難しい。会話文を見るとその小説家の技量が一発で分かる。「会話文」は小説にしかできない手法。映画にも戯曲にもできない。だから面白くて、美しい。
川端康成の『雪国』から、ノーベル文学賞の会話文を見てみよう。
(著作憲法を理解した上で節度を持って教育目的で引用しています)
この会話がなぜ洗練されているのか考えよう。駒子は以前、島村に日記を書いているんだよ、と話をしていた、という設定。
普通だったらこう書くと思う。
「これ、私が前にあなたに言ってた、私が長い間書き続けている日記よ」
「へえ、これがそうなんだ。僕が思ったよりずいぶん多いね、びっくりしたよ」
自分が喋る時だって、こんなに長々と喋らないと思う。実際自分だったらなんて言うか、それを考えるといい。川端康成の小説はいつまでも「新しい」。私達の小説の方がずっと古臭い。しかも『雪国』は非常に都会的だ。特に会話文が都会的に洗練されている。
この会話文の一番素晴らしいのは、会話をしながらストーリーが進んでいるということ。動詞だけ拾ってみよう。「座る」「すすめる」「覗く」「捜す」「出す」「つまる」。こんなに短い文の、しかも会話文に、六つも動詞がちりばめられている。名人芸としか言い様がない。
では、これから私が最初に言った「進まない小説」とはなんだろう、ということをお話していきたいと思います。私の未発表新作『パトカー』の一部を使ってお話します。
「進まない小説」は小説じゃない。みんなでこのパトカーについて小説を書いてみよう。
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