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最後の夜

彼女と過ごす最後の夜が来る。2人で話し合い決めた最後の夜。嫌いになったわけじゃない。バンドの解散理由が音楽性の違いなら恋人との別れはなんだろうか。価値観の違いか。少なくとも彼女と僕との別れの理由には当てはまらないだろう。

『今から帰るね』

彼女からのメッセージが届いた。

『わかった。今夜はすき焼きだよ』

メッセージを返し晩ご飯の準備をする。今夜はすき焼きだ。しかも奮発して黒毛和牛を用意した。霜降りの綺麗な良い奴だ。食べてもいないのに彼女の美味しそうに食べる姿が目に浮かぶ。最後の夜は2人で鍋を囲もうという彼女の意見だった。

「ただいま。外、ヤバイよ。寒い」

準備も一通り終わったところで彼女が帰ってきた。

「じゃあ先お風呂入っちゃいなよ」

「そうする」

彼女をお風呂に促し残りの準備を済ます。お肉よし。割下よし。野菜よし。卵よし。完璧だ。お酒も冷えている。

後ろでお風呂場のドアが開く音がした。

「ドライヤー持ってきて。乾かしてあげるから」

そう声をかけるとはーいと、気の抜けた返事が返ってきた。トコトコと彼女がドライヤーを持って来るとそれを受け取り自分の前に彼女を座らせ髪を乾かし始める。

「なんで今日は乾かしてくれるの。いつも嫌がるじゃん」

「最後だからね。それにいつもなんだかんだ乾かしてるじゃん」

「えへへ」

彼女のミディアムカットの髪に優しく櫛を入れ、乾かしながらそんなやり取りを交わす。不意にそっと彼女を後ろから抱きしめた。ただ愛おしい。

「どうしたの急に」

「なんでもないよ。ただ抱きしめたくなっただけ」

そのまま少しだけ抱きしめ続けた。

「お腹減ったよ。ご飯食べよ」

彼女に言われご飯をまだ食べてないことを思い出した。食べ始めた途端、2人で大はしゃぎ。

「ヤバイよ。肉が口の中で溶ける」

「うわっ。本当だ。もうなくなった」

「どんどんお肉入れて」

「いや、野菜も食べろよ」

「こんなお肉を前にそんなことはできない」

「バカヤロー。この肉に割下の染みた野菜を巻いて食べてみろよ。たまらないぞ」

「それを早く言ってよ。うわっ。本当だこれはヤバイやつだ」

2人であっという間に食べ切った。片付けをしてると彼女が後ろから抱きついてきた。

「どうしたの」

「ううん。なんでもないの。でも、少しこうさせて」

くっつき虫状態の彼女をそのままに洗い物を済ませる。今は振り向かない方がいいだろう。声が震えていたから。

洗い物を済ませた後お風呂に入ると彼女は布団を敷きテレビを見ていた。

「ねぇ、この映画懐かしくない」

「初めてのデートで見たやつだね」

それは有名なアニメーション会社の映画だった。あの時はああだった。それはこうだった。映画を見ながらいろんな話をした。どれも彼女との思い出は笑顔で溢れていた。喧嘩の思い出も最後はやっぱり笑顔だった。

映画も終わり2人で布団に入った。さっきまであんなに笑い合っていたのに彼女は急に背中を向けた。だからそのまま抱きしめた。

「ごめんね」

そう声をかけた。

「ううん」

そう答えた彼女の声は涙に震えていた。

僕は3ヶ月前鬱になった。元々別の精神病だった僕はその影響もあり鬱を併発した。今の時代珍しい話ではない。平日の今日僕が家にいたのもそのせいで仕事を辞めてしまったからだった。なんとか昔のツテでバイトは始められたがそれでもまだ僕の心は暗い影が大半を占めている。これ以上彼女をこんな僕に縛り付けていることが耐えられなかった。

彼女も決して強い人ではないのはわかっている。それでも優しい彼女は「大丈夫だよ」と言ってくれた。それでもやはり長年の付き合いだからこそ彼女の精神的摩耗は感じ取れる。大好きだからこそ彼女と一緒にいられない。だから別れることを決めた。

「大好きだよ」

「知ってる」

そう言って彼女はこっちに身体を向き直した。その目には大粒の涙が。頬には涙の通り道ができていた。

「ごめんね」

「謝らないで。2人で話し合ったことだもん」

「うん」

「大好き」

「知ってる」

「私のことは」

「大好きだよ」

「なんで別れなきゃいけないの」

「これ以上君の幸せの足枷にはなれない。君に幸せになってほしいんだ」

「私は幸せだよ」

「かもね。でもね、この先はどうかわからない。僕自身今後どうなるかわからない。君だってそんなに強い人じゃないから。今だって精神的に疲れてることくらいわかるよ」

「うん」

「幸せになって」

彼女の顔を自分の腕の中に迎え入れ精一杯優しく抱きしめた。

「僕より良い男なんて腐るほどいるよ。大丈夫。君を1番わかってる僕が言うんだから大丈夫だよ」

「うん」

彼女は少し顔を上げた。

「そうかもしれないけど、貴方以上に私を好きになってくれる人は私の人生でもう現れないよ」

それは彼女から始めてもらう彼女の中の「1番」だった。それだけ言うと彼女も僕もそれ以降何も言葉にしなかった。もはや会話なんて野暮だった。そっと彼女の唇に自分を重ねた。彼女もそれを受け入れてくれる。多分コレは世界一優しいキスだろう。

そうして彼女はしばらく泣き続けた。涙を流せなくなった僕の分も涙を流すように

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