純文学と大衆文学についての私的意見

先日(といってもかなり前だが)Twitterのスペースにて「純文学とその他の小説(大衆文学)とはどのように分けられるのか」という話題が出た。私自身特に意識していなかったのでその時はうまく答えることができなかった。なので改めて考えてみることにした

ここでは私が考える「純文学とその他の小説の違い」についての考察を書いていこうと思う。

まず純文学とは「娯楽性よりも芸術性を重視した作品」とのことだ。次に大衆文学とは「大衆小説とも呼び主に娯楽性を重視した作品」とのこと。

芸術性?娯楽性?わりとフワッとしたものになるが私が読んだ小説をもとに考察を進めていこう。
まずわかりやすく区別するとしたら賞で区別する方法だ。有名なところで言えば芥川賞が純文学の賞、直木賞は大衆文学の賞らしい

次は実際に小説で分けていこう。私が読んだ中での純文学は村田沙耶香さんのコンビニ人間、中村文則さんの何もかも憂鬱な夜に、武者小路実篤さんの友情などがそうだと言えるだろう。大衆文学だと綾辻行人さんの十角館の殺人や住野よるさんの君の膵臓を食べたい、野崎さんのHELLO WORLDなどがそうだろう。

ではどうやって両者を分けていったのかを語ろう。
私が思うに純文学とは「物語のオチに重きは置かずその過程や時代背景により各人による想像の幅を持たせたもの」ではないかと思う。逆に大衆文学とは「明確なオチがありそのオチへと向かう一本道を楽しむもの」であると考えた。

先の作品を例に説明していこう
まず純文学だが村田沙耶香さんのコンビニ人間を例にして話を進めよう。簡単に説明するとコンビニでアルバイトをする35歳未婚の女性古倉恵子が新入り男性白羽にその生き方を否定される、といった内容だ。純文学で大切な要素としては時代背景というものがある。このコンビニ人間においてのキーワードは「35歳の独身女性」と「アルバイト」である。今の時代独身者はそう珍しいものでもないだろう。またアルバイトで生活しているのもそこまで珍しいものでもないと言える。しかし古倉は白羽に「普通じゃない」と激しく否定される。物語上この古倉はどこか障害を抱えてるように書かれている(小説内で明確な表記はない)がそこはよりメッセージを強調するための措置だろう。普通とは何か?幸せとは何か?個人の多様性を受け入れるべきだと言う今の社会にメッセージを投げかけるような内容はかなり話題になった


では次に大衆文学について語ろう。ここでは綾辻行人さんの十角館の殺人を例に挙げよう。孤島に訪れた大学のサークルメンバー。そこには十角館と呼ばれる館があった。次々と殺されていくサークルメンバー。犯人は誰なのか、どんな方法で殺されていったのか。そんな推理小説だ。おそらく大衆文学を語る上で推理小説が1番わかりやすいだろう。いわゆる推理小説とはまず事件が起こりそれを探偵が小さな手掛かりを拾い集めその殺害方法と犯人を当てるという形式になっている。犯人は誰かというオチに向かい進んでいくのだ。先で述べたとおり明確なオチ=犯人は誰なのか、その過程=探偵の推理によるトリックの解明を楽しむものということだ。推理小説の掟として必ず探偵と読者は同じ手掛かりを与えられる。つまり読者の思考は「犯人は誰なのか」という答えと続く一本道になるのだ。純文学とは違い時代背景や社会の風潮などはあくまで物理的なものに留まるのだ。


なんとなくわかってきたのではないだろうか?
純文学とは日常の中にある内面的なもの対してのメッセージであり問いかけなのだ。そこには必ずしも話の盛り上がりはなくていいのだ
大衆文学とはクライマックスへと向かい胸を躍らせるような作品ではないだろうか

ざっくり言えば
純文学=答えは自分の中にあるもの
大衆文学=答えが作品内にあるもの
と言えるのではないだろうか


しかし今現在ではあまり純文学と大衆文学を分けて考えること少なくなってきた。それはいわゆる「芸術性の変化」ではないかと考える。
現代アートという言葉を聞いたことがあるだろう。Abemaの番組しくじり先生でカズレーザーさんが説明をされていたのだが「議論が起きればそれは現代アートなのだ」と。純文学においての醍醐味は「それぞれがそれぞれの解釈をしそれを語り合う」ことにあるだろう。つまり現代アートの芸術性とは社会風刺には留まらず様々な形式により議論が生まれ語り合うことを重要視しているとも言える。

綾辻行人さんの十角館の殺人、トリックとしては「犯人がものすごく頑張った」と言ったところだがそれをミステリーにまで押し上げているのはその小説としての組み立て方だ。あの「一行」で全てがひっくり返る様はもはや芸術と言っていいのではないだろうか。叙述トリックは人によってミステリー好きでも受け入れない人もいる。それでも、だからことも言える今の新本格ミステリーの流れを作った十角館の殺人は現代アートとしての側面も持ち合わせているのではなかろうか?

またミステリー界において議論をよんだ作品の一例として城平京さんの虚構推理をあげよう。この作品では作中の死因に関しては推理をしないのである。世界観として妖怪や幽霊なども登場する。
あらすじとしては妖怪の「知恵の神」として祀つられる人間岩永琴子と人魚と件の肉を食べ不死の体と未来決定能力を手にした桜川九郎がある日、鋼人七瀬という人の噂からできた実態なき亡者と対峙すると言った内容だ。まずこの作品の凄いところは設定にある。鋼人七瀬とはアイドルである七瀬かりんが死にその死因や恨みなどがネット上で噂になり形を成した亡者である。つまりは勝手に人が想像して作られた存在なのだ。そこには真実は関係なく人々が勝手な想像をしただけなのだ(実際に岩永も作中で七瀬かりんの死因を調べる際はその場にいた地縛霊が一部始終を見ておりあっさりと真実を知る)
今の時代ネットやSNSですぐに噂を広がる。まさに現代的でありネット社会における「誰かの発言が思いもよらず大きな波紋を呼ぶ」様を風刺してるとも取れる。
ではなぜこの作品がミステリー小説なのかだが、それは実態のない亡者は物理的には倒せない。ではどうやって倒すのか?その答えは「真実とされているものよりももっと真実味のある話をでっち上げそれを広める」と言った方法だ。とんでもない様なことを言っているようだが実際に考えてみてほしい。鋼人七瀬を作り上げているのはあくまで人々の想像であり妄想である。ならばいくら真実を伝えたところで人は面白い方へと自分の妄想の舵を切るだろう。ならば現状証拠に矛盾がなく面白味がある妄想の方が効果的であるはずなのだ(少なくともネットでは)
つまりタイトルの虚構推理とは真実ではなくあくまで真実味のある矛盾ない嘘を作り上げること、なのだ


ここで話を芸術性というものに戻そう。現代アートにおいて先に述べたとおり「議論を起こすもの」とあるが虚構推理はその条件は満たしているのだ。さらに現代におけるネット社会への風刺もある。であるならこれはもはや現代アートとも言えるだろう
純文学として芸術性と大衆文学としての娯楽性、その二つの側面を持っているとも言えるのだ


こういった小説は近年よく見かける。だからこそ今の時代、純文学と大衆文学を分けることが少なくなってきたのだろう。それはいわゆる文学界にとっては大きな一歩を踏み出したことではないのか?
スペースで話をした中には学生の方もいた。そしてその方は現代文の先生に「純文学以外は邪道」と、それに近い意味の言葉を言われたという。果たしてそれは本当なのか。私はそうは思わない。もはや二つの文学は混ざり合い始めている。ならばそれを受け入れたほうがより面白く楽しい読者生活を送れるだろう


これはあくまで個人的な意見であり多くの意見や考え方があると思います。それを否定するものではなくあくまで一つの意見、考え方として受け取っていただけると幸いです

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