365日ライカ:080 “外から持ってくる”ことの重要性以前に、“内側”に無頓着ではないだろうかという問い
つい先日『ギズモード・ジャパン』にて、ゲームが作る未来についての記事を書きました。
この記事について、90年代を中心に『ファミ通』編集長だった浜村弘一さんが言及されているのを見て、なんだかとても嬉しくなりました。
さすがにキャリアが10年以上も積み重なると、こうした著名人からの反応に対する喜びは少なくなってくるのですが、普段あまり書かないタイプの記事だったことや、小学生の時の愛読雑誌の編集長をしていた方からのリアクションということで、初心を思い出すような気持ちになりました。
さて、そんな記事からここで抜粋したいのは「ゲームの作り方で映画が作られるようになってきている」ということ。
かつてゲームには「いかに映画に近づくか」の追求を命題としていたような時代がありましたが、いまや映画側からゲームに接近するような時代となったのです。
全編ワンカット(風)撮影が話題となった映画『1917』も、その画作りにおいてゲームの影響があったことは知られています。
この映像を観てもわかるとおり、見慣れたはずのゲーム演出の文法も実写映画というカテゴリで使われると非常に新鮮なものとなって蘇ります。
写真家の鈴木心さんも、自らの構図の引き出しはゲームで得たと公言しています。
『ガンダム』の富野由悠季監督はアニメしか観ずにアニメを作るクリエイターを痛烈に批判していますが、それは写真にも言えることだと思います。
SNSでいいねを集める写真や、コンテスト入賞作品、広告写真ばかりを見て写真を撮るのでは、コピーのコピーになってしまう可能性が高まっていくからです。
新しい表現とは、その分野の外側にある要素と結びついたときに生まれるもの。ぜひ外側に対する意識を高めながら、自らのルーツについても強く意識したいですね。
…なんて綺麗にまとめれないのが写真の難しいところ。
シャッターを押せば写真が撮れてしまうからこそ、多くの人が写真史、写真家、写真とアートの関わりについて無頓着である気がします。
僕自身、美大で美術史やデザイン史、建築史は一通り(覚えているかどうかは別として)学びましたが、写真についてはそうした知識に乏しいというのが正直なところ。
せいぜいロバート・フランク、ウィリアム・エグルストン、ベッヒャー夫妻、アンドレア・グルスキーといった基礎止まりです。
つまり、自分の写真に対するアプローチはほとんどが外側から持ってきたもの。あるいは雑誌写真や広告写真など商業ベースから来ているものなのです。
そうした“外側”から持ってきたものに対して“写真表現という内側”を融合させないといけないフェーズに来たと感じているので、しばらく本腰を入れて学び直していきたいと思っています。
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