見出し画像

ひとてまかける

子供の頃、土曜日のお昼ごはんは、いつもお好み焼きだった。広島に数年住んでいたため、我が家のお好み焼きはいつも広島風だった。

母が慣れた手つきで、フライパンに生地を敷き、キャベツをどっさり(想像以上にどっさりと)盛る。並走していた焼きそばと卵焼きも合流し。何度もぎゅうぎゅうと上から押し付け焼かれる。その度に野菜の水分が蒸気となって、支度中のお好み焼きに張り付く家族をやさしく覆う。何層にも食材が密に重なった姿は、とても頼もしく、いつも空腹の子供心を惹きつけた。

大人になった今、この文章を書きながら、当時口にした時の複雑な味わいを、頭の中で思い出す。おたふくソースの甘味と青のりの香りも微かに蘇る。

最近食べたもので、このお好み焼きのことを思い出したメニューがある。料理研究家の高山なおみさんの「ソース焼きそば」だ。普通の焼きそばとは違い、最後に半熟の目玉焼きをのせる。更にそこにウスターソースもかける。とろっとしたソースではなくサラサラのやつだ。これがなんとも複雑でほんのりとなつかしい味がするのだ。もう卵焼きとウスターソース抜きのやさ焼きそばだとものたらない。

途中までは普通の焼きそばなのに、最後の「ひとてま」で味の行方がかわる。その「ひとてま」が知らない景色まで食べる者を連れて行ってくれる。そんな気の利いた「ひとてま」は料理研究家の経験のたまものである。

料理研究家ほど巧みではないが、生活者の私たちにとっても「ひとてま」は、些細な行動として暮らしの中にたくさん忍んでいる。ビールを缶のまま飲むとこを、コップに注いで飲んでみる、という「ひとてま」。スーパーで買った惣菜を、お皿に盛ってみる、という「ひとてま」普段はインスタントコーヒーだけど、今日はドリップコーヒーを淹れてみる、という「ひとてま」。などなど。

買ったものを、そのまま口にする前に「ひとてま」を添える。それは「商品」としての食事と「非商品」である生活、の間にある溝のようなものを繋ぐようなイメージで。外の世界を自分の生活のなかに混ぜるように。いつもの暮らしに「ひとてま」を添えてみるのはいかがだろう?

もしよかったら、高山なおみさんの「ソース焼きそば」作って食べてみてください。レシピには「なんの工夫もないけれど」とコメントありますが、私はその「ひとてま」が特別な味をつくってるように感じるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?