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こうして私はアーティストになった(前半:学生編)

最近中高校生さんと接するなどで、将来についてお話する機会が増えました。そこで私がアーティストから今のxRデザイナーになるまでにどのような経緯をたどったのかのサンプルケースを記してみることにしました。
なおこのエッセイでは「アーティストデビュー」を「作品発表して謝礼を頂いた初めての日」と定義します。

幼少期、推しはYMO一筋

(やや時代はズレていたのですが)YMOで胎教を受けたせいか、「しゃかもとさん(坂本龍一さん)みたいになるのお!」と意気込み、幼い頃からテクノに強い興味を持つ子供に育ちます。「坂本さんみたいになりたいならピアノをやらなきゃね」と周囲に諭され、高校2年生までイヤイヤ続けたピアノ。今思えば作曲コースに行くべきでしたが、後に音大の仲間に出会うまで作曲は習えるものだと知りませんでした。


高校生、TRPGの日々。そして岩井俊雄さん作品に出会う

TRPG部に入り、ソードワールド・クリスタニア・D&D・ガープス系…など基本を押さえつつも、シャドウランや深淵など、ややディープなものを先輩に教わる日々を過ごします。このときに演じること・キャラクターになりきることの意味や意義を理解し始めました。
野村萬斎さんが推しだった友人からお能や狂言を知り、古典芸能の美しさに惹かれたのもこの時期でした。
しかし進路にしたいものは見つからない。親のMacを使ってデジタルなお絵かきはしていたものの、職業にするまでのモチベーションはありませんでした。何となく新しい生命を作り出してみたいから生命科学やってみようかな?ぐらいで、とりあえず理系コースを選びます。

ですが天啓は突然やってくる。最初のターニングポイント。
ある日、録画で坂本龍一さんと岩井俊雄さんのコラボレーション映像を目にします。後に私が行くことになる学校「IAMAS」で、メディアアーティストの岩井俊雄さんが滞在制作をした成果を海外で発表したものでした。
推しの坂本さんの音楽が映像になっていく。私がやりたいのはこの「メディアアート」なのでは…?そう感じた私はメディアアートを学べる大学を探します。坂本さんとは時期を経てお仕事をお手伝いさせて頂くことになります。

結果面接で作りたい作品プランのプレゼンをして、ある工学部のアート専攻に入学することになりました。
「岩井俊雄さんみたいな、みんなが楽しんだり優しい気分になれるようなメディアアート作品をつくる」
進路を最初から全く決めておらず、直感と天啓によって人生の最初の大きな決断をしてしまいました。

大学生、巨匠たちと出会う。そして初めてのアーティストデビュー

1年生の春、友人たちとネットしてダベっていたある日に助手さんがPCルームにやってきました。
「僕たちと一緒に作品を作ってみませんか?」
メディアアート界の仙人・世界的に知られているサウンドアーティスト・元有名制作グループに所属していたデザイナー…そんな巨匠たちから、授業以外で直接実地で学べるチャンスです(自慢したいのではなくて、偶然東海圏にそれだけの方々が揃っていたことがすごいという意味)。

まわりがざわざわする中、気がついたら「やらせてください!」と口に出していました。言ってから後悔するというもので、フォトショとイラレ、Flashが少し使える程度の私に何ができる?でも口に出しちゃったし…といつの間にやら先生方とともに作業開始。当日VJを担当し、初めての外部発表となりました。

2回目のターニングポイントは、このときに起こります。
お手伝いしていたのが舞台作品ということもあり、助手さんがダムタイプの「S/N」を見せて下さいました。
こちらにも書きましたが、エイズで亡くなった古橋悌二さんが死の直前まで性や愛、生きることについて舞台を通じて観客と対話を試みようとした作品です。その切実さをなんとか共有しようとする姿に胸を打たれたのかもしれません。

テクノ一筋で生きてきた私は、当時メディアアートの知識はあっても、現代美術に関してほとんどありませんでした。「こんな表現の仕方があるんだ」とショックを受けた私は、もうひとりの先生との出会いによって、今日まで「アートを通じて観客と対話すること」を主軸に置くようになります。

その後付き合っていたパートナーからあまり良い扱いをされなかったり自死を知ったりというショックから、「人が自身の身体をどう感じているのか」に興味を持つようになりました。そんな私の卒業制作は「機械によってコントロールされた人力ドローイングマシン」。アクチュエータによってコントロールされたパフォーマー(私)が絵を描くというもので、他者によって自分の身体を支配されている感覚をどうにか作品制作を通じて理解したかったのだと思います。

3回目のターニングポイントは1年生の後期。
マスコミ的なメディア文化を学ぶ授業で、あるジャーナリストさんと出会います。ニコニコ生放送をきっかけにさらにブレイクして最近では声をかけさせて頂くことも難しくなってしまいましたが、私の最初の師匠として様々な知識を授けてくださいました。ニュースの読み方・情報の取捨選択・マス的な意味で表現するとはどういうことか…38度線からネット中継するというアナーキーな側面もありましたが、情報をきちんと吟味する意味について厳しく教えて頂いた記憶があります。翌年自主的にTA(ティーチングアシスタント)をするなど、アートと社会との関係性について考えていた私は彼から多くのことを学ぼうと必死でした。

アーティストな先生方のお手伝いをさせて頂いた後、刺激を受けて怒涛のように作品を作りまくります。またことあるごとに先生方に相談するようになりました。Max/MSP界の巨匠と言われる先生方を独占していたあの時間はものすごく贅沢だったと思います(なんでこの方々が日本の、しかも東海圏に集まってるの?と、聞く人が聞いたら卒倒する組み合わせ)。
その縁である先生のライブにゲストとして出演することに。ピアノの発表会以来の演奏、初めてのギャラ。
私のアーティストデビューの瞬間でした。自分の世界観をいかに伝えるかに終始したライブはその後何度か再演されることになります。

アーティストデビューを果たした後、自分はどうやって生きていくのか考える機会が何度かありました。後に先輩となるIAMASの方々から聞くお話・デザイン会社でアルバイトを始めた友人・アニメ会社に行くことを決めていた違う専攻の先輩…様々な方々のお話を聞いて、私は育ててくれた先生方と同じ道…大学教員を目指すことを決めます。思えば無謀ですが、両親ともに大学教員・職員なのもあって、特に反対されることはありませんでした。

大学院、妥協しない仲間と徹夜の日々。そして全国へ…

単純に「近いから」という理由で進学を決めた、メディアアートを研究する大学院のIAMAS。先輩方から厳しいことは話に聞いていましたが、厳しいのではなく、みんな妥協しないんです。

妥協しないから、本来なら徹夜しなくていい「授業の」共同制作やオープンハウス(オープンキャンパス)で徹夜することがデフォルトになっていました。
妥協しないのは、それぞれの分野や自分のやってきたことに自信はなくとも語る言葉を持っている証拠でもあります。

みんな必死だから関係はドライではありましたが、先輩後輩同期関係なくお互いの手の足りないところを自然に補ったり、今でもお仕事関係でやり取りするなど信頼できる深い繋がりを得ることができました。
左を向けば工学部出身の子がいて、右を向けば哲学専攻の子がいる。このごった煮が私の世界をさらに広げてくれました。

入学後、同期から紹介された音大生さんたちとの出会いが次のターニングポイントになります。
彼女たちとともに、北はせんだいメディアテーク、南は山口YCAMまでと全国を飛び回る日々を送ります。

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毎月助成金申請の書類を書いたりポートフォリオ用のDVDをまとめるのは骨が折れましたが、初の受賞やホール公演などひとりではできない様々な経験をさせてもらいました。
彼女たちと作る作品が外から見ても素敵だったので、愛ゆえに当時は苦労と思っていなかったのですね…
なりより彼女たちも様々な場所で活動してきた作曲家。プロの卵同士の真剣バトルは本当に楽しかったです。
いいものを作るために妥協しない。そんな方々に囲まれた日々は本当にしあわせでした。

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しかし1年は早い。就職か進学か。その決断が迫っていました。

中盤へ続く…



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