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まだ青い絵の具を使っていない


14歳の私は、ずっと「明るいコ」に擬態していた。

笑顔を顔に貼り付けて、お面を被っているのと同じだった。テレビや雑誌から話題をたくさん仕入れて、友達に笑ってもらえるように、おしゃべりが上手なフリをしていた。

本当は、保健室登校ならぬ図書室登校をして、1時間目から帰るまでずっと、本を読んでいたかった。
誰とも喋りたくない!
そう表明する勇気がなかっただけ。

顔に被っているお面を取れば、無表情で冷めた目の、口をへの字にした私がいた。


そんな私が唯一楽しみにしていた授業は美術だった。
中学の3年間ずっと、評点はオール5だったと記憶している。
自分の中にどんどん潜っていって、自分のやりたい表現で誰にも邪魔されずに描くのが楽しくてしょうがなかったのだ。
色を塗るのも、線を引くのも、デザインするのも、レタリングするのも、楽しかった。

そんなある日、自画像の課題が出た。

私は、いそいそとパースをとって書き始めた。
ショートカットの髪、
生毛の生えた頬、
変な形の耳たぶ、
カサカサの唇。
私は、私の顔を小さな鏡で見ながら描いていった。
目と肌の色にこだわって、色を作り、塗り重ねた。

翌週、描いた絵の返却があった。
私の描いた絵の評価はA+。
まずまずだと思っていた。

ところが、である。
美術の教師が教室の後ろに優秀作品として貼り出した絵は、別の絵だった。


私は、その絵を見て打ちのめされた。


顔が、青い絵の具で描かれていた。
デッサンもわざと壊してあった。
右横を向いた顔であるならば、見えるはずのない右目が鼻の向こう側にしっかりとらんらんと光っていた。

描いた作者は、ハンドボール部のキーパーをしている男子。彼はいつも、世界中の厄介ごとが降りかかってきたかのような苦悩に満ちた顔をして、キーパーをしていた。

こんな表現があるなんて!

私は愕然とした。

その青い皮膚は、生々しいむき出しの負の感情、不愉快そうな精神状態を、余すところなく表していた。現実にはあり得ない場所に光る目は、彼の思いの強さを表していた。

私は、自分のお面の絵を描いているに過ぎなかったのだ。
表面をなでただけの、明るい絵だった。


⭐︎⭐︎⭐︎


私の日常は、結構まあまあ色々ある。

毎日毎日を何とか乗り切っている。

note を手に取って書き始めた私は、いくつかの記事を投稿してきた。でも、私の奥に溜まっているマグマのような感情はなかなか、外に取り出せてはいない。

以前に、父の失敗【黒編】という記事を書いた。この記事も、もっと負の感情をむき出しにしたかった。
しかし、明るい部分から逃れられない。
むしろ、明るい部分に逃げている。

それは、マリナ油森さんにも見抜かれている。

どうにかして書こうとするけど、読んだ人が引くんじゃないのかと、筆が止まるのだ。介護している当事者の心象風景は、かなり殺伐としているのに。


リライトしたい。


青い絵の具を、まだ、使っていない。



⭐︎⭐︎⭐︎


先日、イテラさんの書かれたこの記事↓を拝読したら、あまりにもあまりにも共感してしまい、ついに書いてしまいました。

私も記事を書き始めると、思いもよらない所へ行き着くのです。私の場合、そこではなかったという明るい場所へ…。どうにかしたい。

私、全然、地中海性気候じゃないです。笑

私にとって、イテラさんは青い絵の具を使いこなしてらっしゃる素晴らしい書き手様の一人です。


確かに、「漂っていた思い」を書くのは勇気が要りました!




ヘッダー画:
フィンセント・ファン・ゴッホ『自画像』
1889年、65×54.5cm、オルセー美術館

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