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拝啓 あなたは誰ですか?

夕暮れのオレンジ色の光の中、気がつくと交通量の多い国道に出ていた。どうやってここまで来たのだろう。ハンドルを右に切ったり左に切ったりしたはず、いつの間に。

プーッ

後ろからクラクションを鳴らされてハッとする。もうほとんど止まりそうな速度になっていた。慌てて路肩に停車する。

考えごとが佳境に入ってしまって、目は開いているのに、過集中になっていたようだ。

9月は心がざわめいた月だった。だからそういう「ぼーっとした集中」が何度もあった。エレベーターに乗っているのに、行く先の階のボタンを押してなかった。コピーをしに行って、出力されたほんのり温かい用紙を持ったまま立ち尽くした。



10月1日  父 高齢者住宅に入所

メモ書だとたった一行のこと




「お父さんの順番がまわってきましたよ」
ずいぶん前に申し込みをしていた施設に空きが出ると言われた。
連絡をもらったのは9月の初旬。
私は思わず「お願いします」と答えてしまっていた。

その後ずっとモヤモヤと考えていた。まだまだ家で一緒にいた方が良いのではないかと。認知症が要支援から要介護に進んでしまったけれど、もっと寄り添えるのではないのかと。

でも、ここ何年かで、父はできることがどんどん少なくなっていった。

長きにわたって、夕方、孫のハトちゃんを学童へお迎えに行くことが父の大切な役割だった。お散歩を兼ねて歩いてお迎えに行く姿、孫の手を引いて帰ってくる姿、それを地域の人は温かく見守ってくれた。でも次第に曜日の感覚が薄れてきて、お迎えに行かなくていいはずの日にもお迎えに行ってしまう。「今日はご利用の日ではないですが、お祖父様迎えに来られてます」と学童の先生を困惑させるようになった。土日にもお迎えに行こうとする。そしてついに、見当違いの場所に向かって歩いて行くようになった。地域の人が心配して私に電話をよこす。

父は家の中でも迷うようになった。

父のGPS機能は精度が落ちてしまった。行きたい場所に辿り着かない。トイレがどこか分からないようだ。もよおしているのにどこへ行けばいいのか分からない。父が失敗した後片付けをしながら「どうしてこんな、非生産的な作業をしているんだろ」と思う。「注意を繰り返しても届かない人にどうして何度も小言を言ってしまうんだろう」と反省する。汚れてしまった場所を暗澹たる気持ちで掃除して、綺麗に戻す。

少し目尻に涙を滲ませて、振り返ってみると、父がベッドに横たわっている。布団のお腹辺りが定期的に上下している。それは平和な光景で、そのすーすーという呼吸をずっと聞いていたくなるような祈るような気持ちになるのが常だった。

ある日、洗面所で顔を洗っていた。
色んな汚れが落ちますように。私の心の汚れも。念を入れてゴシゴシする私の背中あたりにほわっと温かい塊が押し付けられた。娘のハトちゃんが頭をスリスリしてきたらしい。
「ママ、大丈夫?」
「たぶんね」
「なんだかママ元気ないね」
ハトちゃんの方を向くと、優しくハグしてくれた。私もハトちゃんの柔らかい体をぎゅーっとハグしながら、思わず言った。

「ママはね、格好いいおじいちゃんをずっと見てきたの。
だから、おじいちゃんが格好悪いところを見たくないの!」

そう言いながら、びっくりしていた。初めて自分の本当の気持ちが分かった。そうだったんだ!私にとって、父はまだ『私を守る存在』だったんだ。これからも、父『親』でいて欲しいんだ。でももう、それは叶わないなあ。
私は無言で泣いていた。
溶けたバターみたいな熱い涙がじゅわーっと目から溢れる。

私は心の奥底では、父の老化に納得していなくて、イライラしていたようだ。最近では心の余裕がなかったと思う。優しくしたいのに、ついつい尖った言葉をかけている。そういう自分が嫌でたまらなかった。

だから、もう、介護はプロにおまかせしたいと思った。これからは、もっと父に優しくしたい。

父の施設入所を決めた。


父が並べた葉っぱ  2021



父がいるはずのリビングの灯りがついていない。暗い家に帰宅するのは寂しい。父が不在になって初めて、父がいることがどんなに安心だったか思い知る。

私の周りには優しい人たちがいて、父を預けたことについて、自分を責めないでいいよ、もう十分やったよ、と声をかけてくださる。それはありがたい。
でも違う。
私は父と離れたかった。ずっと。
生活だから。現実だから。毎日の生活だから。
きれいごとじゃなく。
美談でもなく。

私だけが本当の私の気持ちを知っている。
私は、私のエゴと自責の念を、一生見つめていく。



離れることで、踏ん切りがつくことがある。
離れることで、照れがなくなって率直になれる。私は、改めて、父を知りたい。
父は、自分のことを話さない人だった。どんな子供だったのか、どこの大学に行ったのか、就職後どんな風に働いていたのか。どうして母を選んだのか。一応一通り知っているけれど、それは親戚が教えてくれたのであって、本人は一切語っていない。私は、父のことを本人から聞きたいと思っている。

noteのアカウントを作った時、「発達障害のある娘」と「認知症の父」のダブルケアでヘトヘトだった。気持ちをどうにか明るくしたくて、心で渦巻く気持ちを取り出したくて、気がついたら登録していた。いつか父のことを書き記すため、上手く文章を書けるようになりたくて、コンテストや企画に参加してみようと思っていた。

私のアカウントIDは謎の数字の羅列になっている。実は、その数列は父の母校の緯度と経度を組み合わせたものだ。日大芸術学部映画学科。江古田にあるその学校は、父が青春を過ごした場所である。


父は映画監督にはなれなかった。
夢が破れて地方へ帰ってきて家族を持った。

このたび父の施設入所に際して、父の部屋を片付けていたら映画の台本が出てきた。東京でやっていた仕事のかけら。夥しい数の8ミリフィルム。写真、スライド。私はこれらをデジタルでアーカイブ化したいと思っている。そして父にインタビューしたい。

ジェーン・スーさんのエッセイに次のような一節がある。

父について書こうと思ったのには理由がある。私は母の人生について母の口から聞けなかったことを、とても後悔している。
父に対して、同じ思いをしたくないのだ。

『生きるとか死ぬとか父親とか』

今、今、聞かなければ!
父のことを話してもらうことで、今は亡き母のことも知ることになる。そしてそれは、おそらく、自分を知ることにつながるはずだ。

私は誰なんだろう。

今週末も、会いに行く。
もう、車の運転でクラクションを鳴らされることはない。迷いはない。稲の切り株が並ぶ田園の道をまっしぐらに走る。

拝啓 あなたは誰ですか。








ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。