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いいから、早く、好きって言いなよ。

 彼が情熱を向けるのは音楽だけで、それでもう世界はいっぱいで、私が入り込む隙間なんてこれっぽっちもなかった。私の周囲は、学校のレポートやら家庭教師のアルバイトやらサークルの飲み会やら他学部との合コンやらでざわざわと騒がしかった。でも、彼はひとりっきりで自分の時間を生きていた。

 友人の誘いでたまたま出かけたライブ。
 彼は、ステージで超絶技巧曲を難なく弾くギタリストだった。軽薄そうに振る舞っているけど絶対にハートの中身を触らせない難しそうなタイプだなあ、というのが第一印象だった。

 「音楽を聴くときには、耳を澄ますだけじゃなくて、瞳も凝らしてる。」

 「全身で聴くんだよ。」

 と彼は言っていた。

 2022年の今なら分かる。
 それは、全集中のことだと。

 チケット代金を支払いにロック研を訪れると、音に溢れているはずの部室は、いつも、静けさに満ちていた。ひんやりした透明な空気に溶け込むような熱いギターリフを、彼は弾いていたのに。なぜ。
 音は空気の中へ隅々まで広がり、斜めに差し込んでくる冬の柔らかい日光と浮遊している埃の粒子と混ざり合っていく。その様子が見えるようだった。
 その横顔はすごく集中していた。そんなにも心を奪われるようなものごとに出会ったことがなかった私は、彼という人に心を奪われてしまった。

「開放弦を含むコードって、幻想的に響くんだ」

「開放弦を混ぜて弾くとさ、コード内に重複した音が生まれやすくて、押弦している音と近い音域で共鳴するから、一期一会の響きになるんだよ」

 ギターのことを何も知らない私に、彼は静かに語ってくれた。

 「ギターっていいねえ」

 馬鹿みたいな感想を伝えることしかできない私。それでも思った。一心に速弾きしている彼の姿をまぶたに焼き付けておきたいと。
 そして、“Stairway to Heaven”曲頭のアルペジオをCDだらけの床に座って弾いている様子をじっと見ていたら、急に心の奥で何かが強く閃いたのだ。

 「守ってあげたい」

 −うわぁ、いかん。のめり込んでしまう。ブレーキ!

 「そっとしておいてあげたい」

 静謐なひとりの時間はかけがえがなく、心ゆくまでひとりでいて欲しい。そう思った。そこで私は一旦、前のめりになりそうな気持ちを止めて、関わり過ぎないようにすることにした。

 彼に出会ったのは、木々の葉が緑から黄や赤に染まりだす季節だった。日中の気温が上がらなくなって、朝晩の寒さが厳しくなっていく。クリスマスや年越しカウントダウンというビックイベントがやってきたけど、私はどうにか平常心を保ってやり過ごしていた。

 みんながいる場所にみんなと一緒に存在している、「みんなの知ってる彼」と「みんなの知ってる私」。その範疇からはみ出さないようにふるまった。

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 制御された均衡がぶち壊される日はすぐに訪れた。

 その日は、お正月の休みが明けて大学の講義が始まる日で、クラスの友人とそのサークル仲間とさらに家が近い者同士の寄せ集めでカラオケに行った。男の子も女の子もいた。その中に彼もいた。
−あ、いる。でも歌わない人なんだよね。
 と思いつつ自分の歌う曲を探した。

 そしたら、彼が歌うって言い出したのだ。

「無理矢理レコメンドする曲です」

 とか言って。
 洋楽ではなかった。

−え?エレファント、なんだって?

 朗々と歌う彼の声が、彼の声ではないかのように部屋に響いて、そこに居たみんなはポカーンと聴いていた。
 彼のバンドは洋楽専門だったから、邦楽の曲を熱く歌う彼が新鮮だった。カラオケって、自分と全く接点がない曲を唐突に聞かされて、それに開眼させられる瞬間があると思う。歌詞が新鮮で、私の心の蓋をバーンとこじ開けて入ってきた。

 彼はギターが手元にないことが心許ないらしく、シャツのへりを握りしめ、歌っている。

−あぁ、もう制御できない。

好き

−もう自分を偽れない。

 その瞬間、私が彼を見る視線は精度を増し、髪の一本一本、ほくろの一つ一つ、爪の形、服の毛玉に至るまで、彼の姿がくっきりと立ち上がって迫ってきた。
 ピントがパチッとあった瞬間だった。

−せっかくわざとぼんやりさせて焦点を合わせないようにしていたのに。

 エレファントカシマシを貪るように聞いた。そして知識を得ていった。彼が歌った『偶成』はエレカシの4枚目のアルバム『生活』に収録されていて、古き良き日本文学を愛する宮本が書いたその歌詞は、それはそれは容赦ない自己告発文になっていた。その後、エレカシの楽曲はポップ化して、より皆に受け入れやすい方向へ向かっているようだった。

 でも、彼がレコメンドしたのは、なんでこの曲なのだろう。なんちゅう男臭いロック。どちらかというと、ドン引きする人もいるのかも。

流るるドブの表を
きらりとさせたる夕陽あり
俺はこのため生きていた
ドブの夕陽を見るために
ドブの夕陽を見るために

作詞:宮本浩次 『偶成』


 彼がレコメンドした背景を探っていくうちに、彼という人間のストイックさが理解できるような気がしてきたし、さらには、彼との恋路は険しく難しいものになる予感がしてきた。

「めんどくせー」

でも私は「彼の世界を構成するものごとの一つになりたい」と強烈に感じてしまったので、それを消しゴムで消してしまうことはできなかった。


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 炉端焼き屋の片隅で、シシャモを一心に焼く。お腹の弾力を箸の先っちょで心ゆくまで確認しながらも、頭の中では彼のことでいっぱいだった。もはや前のめりで片思いをしていた。今後、思い人のことはミヤモトと呼ぶ。

 「おう。待たせたね」
 そう言いながらドシンと横に座ったのは、セナ君だった。ミヤモトのことを知りたくてしょうがない私は、ミヤモトのツレであるセナ君を呼び出していた。

「ねぇセナ君、ミヤモトはGuns N' Roses聴くかなぁ?」
「セナ君、ミヤモトはお酒何が好き?」
「ミヤモトが私について何て言ってるか、セナ君に聞いてもいい?」

「到着早々に、それですか。慌てない慌てない」
セナ君は鷹揚にひらひらと手を振った。私が先に頼んでいた枝豆を口に入れてゆっくりと噛み締め、
「丹波産は美味いね」
と微笑んだ。それから質問の一つ一つに
「ガンズねぇ、自分で話しかけて聞きな!」
「ミヤモトを飲みに誘ってみたらすぐ分かるよ」
「俺とミヤモトが話していることは、教えられないな」
 と、大真面目かつ丁寧にかえしてくれた。

 ミヤモトとの恋愛がうまくいく兆しがなさすぎて、途方にくれていたので、「恋の手がかり」というサンプルが欲しかった私は、セナ君が頼りだった。セナ君はミヤモトのバンドのボーカルだった。そして、大学では私と同じクラスだった。

 セナ君は、哲学に造詣が深い。ズボンのポケットには岩波文庫の青本か白本が必ず入っていた。私が心底悩みながら
「ミヤモトを好きになってしまった」
と言ってるのに、こう返してくる。
「ほぉ〜。デカルトじゃん。
『我思う ゆえに 我あり』を地でいってる。
そんなふうに焦がれている自分の存在だけは確かだね!そこにあるよ」
「『方法序説』かよ」
「俺は歌ってる時、自分をニーチェだと思ってるぜ」
「神が死ぬよ」

 私は飲みかけのウーロンハイを吹いてゲラゲラ笑いながら、セナ君とミヤモトが仲良しである理由が分かるような気がした。
 セナ君は、私を断じることをしない。
 あるべきなんて言わない。
 善と悪を線引きしない。
 私は安きに流れた。ミヤモトへのアプローチ法を考えるという名目で、セナ君とのやりとりを続けていくことにした。

 そんなある日、いつものように長電話した後に、セナ君はおそるおそるこう言った。
「俺の住んでいる部屋から、ちーさん(私)の家が見えるんだよ。」
「ホント?」
「今から俺の部屋の明かりをつけたり消したりしてみる」

 セナ君の家は、わたしの家から南の方へ出て大きな幹線道路を渡った対岸にあるそうだ。ベランダから目を凝らすと、意外と近くに、セナ君の住んでいるとおぼしき建物はあった。ワンフロアの部屋数が少なくて建物のシルエットが鉛筆みたいだった。

チカチカ

「あっ点滅したよ!」
鉛筆ビル7階の左の端っこの部屋で灯りがついたり消えたり。
「じゃ、私も明かりを消してみる」

チカチカ

「やっぱ、ちーさんの部屋だった」
 この発見は、私に心の安定をもたらした。一緒に履修している講義のレポート締め切りが迫ってくると、セナ君が遅くまで起きていることが分かって心強かったし、眠れない夜にはセナ君の部屋の明かりが見えるとほっとした。

 あそこに、私の味方がいる。

 そう思って、ほっこりしながら眠りについた。

 聡明な読者の皆様は「このパターンは、相談相手の異性と付き合うやつ!」と思っておられることだろう。あともう少し長くセナ君と楽しくやりとりしていたら、多分付き合っていたんだろう。
 でも突然、セナ君が私に言ったのだ!

 「ミヤモトは、実は、ちーさんの住むアパートの一階に住んでるんだよ」
 「なにい!?」
 「俺はさぁ、しょせん、ありとあらゆる女の子達の『いい人』なんだよー。あ、セナ君ね!いい人だよね。っていつも言われてんの。」
 「いい人王に俺はなる!」

 ミヤモトを好き過ぎて、ちょっとどうかしている域に達していた私は、聞いたその瞬間、わざと明るく笑い飛ばしてしまった。

 セナ君のこと傷つけていたのかもしれない。
 セナ君!

 今でも思い出す。
 あの時の鉛筆ビル7階端っこに灯る明かりを。
 もう、ないけど。
 きっと今も、セナ君は誰かの心の中のいい人王として君臨していることだろう。

 ごめん。


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 金曜日の夜なのに、私の電話はうんともすんともいわなかった。明かりををつける気にもなれずに、薄暗い部屋のベッドで天井を睨む。外の国道を車が通り過ぎるたびに、ライトの反射で天井に窓枠の影がすうっと動く。どのくらいそうしていただろうか、ふいに思い立ってベランダへ出た。ベランダの隅に立ち、顔を手すりから思いきり出して、下をみた。夜風がひんやりと頬をなでる。
 1階のほうをうかがう。
 −あ、電気ついてる。

 ミヤモトは、いる。

 居室の前に植えられた庭木は、室内からもれ出る明かりに照らされていた。

 頭を巡らせて上方を見る。
 月が落っこちそうなほど
 明るく大きく
 空に引っかかっていた。

 山崎まさよしも言っていたよな、

寂しさ紛らすだけなら 
誰でもいいはずなのに 
星が落ちそうな夜だから 
自分をいつわれない

作詞:山崎まさよし『One more time, One more chance』

 今夜の場合、月だけど。

 もう、自分をいつわれない。

「ミヤモトの部屋に行ってみたい」
「ミヤモトが何に囲まれて生活しているのか知りたい」
「ミヤモトとこの月を見たい」

 私は、1階の住人ミヤモトに焦がれている。

 だけど、ミヤモトの方からは全く呼ばれる気配がないのだ。どうする?

 天然と言われる人がいる。意図的に動くことを知らず、心のままに呼吸するように生活できる人である。私だって、人生って何となく積み重なっていくものかなぁと思っていた。昨日に足し合わせて、今日を過ごした分が付け加わる。明日もしかり。恋愛も、意識しないうちに、二人の気持ちが盛り上がって。気がついたらお互いになくてはならない存在になっている、自然に。

自然に?

はあ。

 私にとって、自分から欲しいと思ったのはこれが最初かもしれない。天然でぽわんと過ごしていればよかった世界線から、わざわざ意図的に自分で取りに行く世界線に大きく舵をきるのだ。
 だって、月が落ちそうな夜だから、一緒にいたい。

 そのアパートの一階の住人は皆、居室の前に専用庭を持っていた。一軒ごとのスペースにするため植木で区切られていて、庭に出るには部屋を通るしかない。

①ミヤモトの専用庭へ目掛けて私の私物を投げ入れる
②物を落としたので、庭に取りに行きたいと電話
③やむなくミヤモトの部屋を通らせてもらう

という作戦を思いついた。


メイク、オーケー

ネイル、オーケー

髪型、オーケー

服、オーケー

デオドラント、オーケー

し、下着?オーケー


三分後の世界はどうなっているのだろう?


ベランダからぶん投げた鉢植えのサボテンは下へ落ちて行った。






ハトちゃん(娘)と一緒にアイス食べます🍨 それがまた書く原動力に繋がると思います。