「愛とは、ごはんだ」
私は「だらだら」ができない。
なんでかというと
予定を詰め、自分がやるべきことを探してやるのがいつの間にか得意になっていたから。得意だし、なんだかんだ好き。だから、いつも誰かのために何かをする人間になっていた。自分のために使う時間もあるけれど、頭のなかが自分に向くことはあまりない。
そんな私だけど
先週の土日は珍しくやらねばならぬことがなかった。こんなに平穏な休日は久しぶりで、私の時間なのに何をすればいいかわからず戸惑った。
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そのときに出会ったふたつの記事。
ひとつめは川口ゆりさん。
必要は代わりがきく。そのようなものにわざわざ生きる意味を問いただすのはそんなに意味がないものだと思うし、代わりのきかないたった一人の存在として誰かに想われることの方が実は幸せでもあるのかもしれない。
ふたつめは木津さん。
自信とは、「自分の成功を信じ込む力」だと思っています。積み上げてきた成功体験を根拠に、次の成功を信じる力。一方で自己肯定感とは、「自分の現状を肯定する力」。
日々の幸福度を高めるのは、自信ではなく自己肯定感である。
はたと、私は自分の存在価値を確かめるため、誰かに必要とされたくて、あれこれやり、予定を埋めてしまい、余裕がなくなっていることに気づいた。
ただ生きるということをできない。それは誰かに必要とされたいから。でも必要は代えが効くということ。
自己肯定感は高い方だと思ってたんだけれど、それは自信を得たい自分であって、自己肯定感ではなかった。
ただ存在して、生きていたい。大切にされる人になりたい。
じゃあ、私が誰かを大切にできているのだろうかと思った。たぶんできていない。
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誰かを大切にする、それはつまり愛するということ。大切にするにも愛が必要。そしてそのとき偶然本屋で手にとっていたのが山田ズーニーさんの「理解という名の愛がほしい」だった。そこに、「愛はごはんだ」と書いてあった。
つまり、愛もごはんを食べるように補給するもの。補給しないと満たされないし、満たされないと誰かに与える余裕もない。
自分でこの愛の循環をつくりだすことができる人が、おとなである。
私は自分が満ちてなくても、愛は誰かに与えられるものだと思っていたから、これを聞いてちょっと安心した。反面、私はまだおとなではないんだと思った。
じゃあどうしたら補給できるのか。
本には、美味しいごはんを食べること、アーティストの音楽を聞くこと、作家さんの本を読むこと、と書いてあった。誰かが愛を込めてつくったものから受け取れると。だから、ズーニーさんは、自分も作品に愛を込める、そして誰かの愛の補給につながりますようにと。
これ、私もそうかもしれないし、多くの人は本や歌、もしくは映画、食事などの表現活動から生まれた“何か”を趣味とする人が多い。それは、みんな愛を補給しているということだったのか。
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最初に紹介した木津さんの記事には、自己肯定感を高める方法として「肯定感を循環させる」と書いてあった。この肯定感は愛と置き換えることもできるのではないだろうか。
根拠なく周りの人を肯定できる人は、自分のことも、根拠なく肯定できる人が多い。
周りの人を肯定するというのは、シンプルな例でいうと、誰かの「やりたい」に対して「いいじゃん!」「やろうよ!」と伝えること。
うん、これもすごくわかる。
なんていう話を知り合いにしたら、その人の愛の補給方法は、一緒に住んでいる友人の子どもやペットだったり、色んな人から愛をもらおうとするのではなくこの人と決めて愛をもらうようにしているかも、と話していた。
「私は必要とされているだけで、大切にされてないんだ」と友だちに話したら、「そんなのその人に聞かないとわからないよ」と言われた。そうなんだよね、私の思い込みなだけかもしれない、でもそれは一生わからないと思う。私に対して発される言葉は、軽い。だから「私は大切にされているんだ」と思い込んじゃうのが早いのかもしれない。
私が決めたことは、なるべくたくさんの表現活動に触れること、
関わるものには精一杯愛を込め続けること。
最近、色々なことにあきらめてドライになってみたけれど、それはだめだ。
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もっと大人になろう。そのために色々な愛の補給方法を知ろう。もしよければ、みなさんの愛の補給方法を教えてください。
ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。