特別になることを、あきらめた

もがいて、手をのばして、何がほしいんだろう。漠然とした今後の仕事に対する心配。私はこのままで働いていけるのだろうか、生計を立てられるのだろうか、なにかすごい経歴を積まないと。誰かとつながっていないと不安。会う時間をつくって、SNSに張り付いて。誰かの役に立ちたくて、それっぽいことをやったりもして。

そのよくわからない焦燥感の根っこに何があるんだろう。何を怖れているんだろう。一文無しになって路頭に迷う。友だちがゼロになって、ひとりぼっちになる。それらはすごく怖い。だからといって、今に満足せずに、よくわからないすごい経歴をつくるために何をやるのか。常にSNSに張り付いたところで、ひとりぼっちにならないのか?誰かの役に立ってうれしかったとしても、自分を犠牲にして周りの人を大切にできていなかったら、それは何の意味があるのか。

それよりも、今手元にあるものを大切にするのはどうだろう。仕事ってすごいことや飛び石なんてなくて、ひとつひとつレンガを積み重ねていくこと。今まわりにいる人、家族、友だち、一人ひとりを解像度高く見る、一緒にいる時間を大切にすること。

手をのばして手に入れたい野心的なものが消えて、動かない自分がいやになってた。今は「なるようになる」スタンスで、流れるように目の前の道を淡々と歩く、でいいんだけど、でもいつか変化する出来事は欲しい、だからそれを手に入れるためには、今動かなかったら後悔するんじゃないか。そう、私は後悔するのが怖い。だけど、将来の私は後悔するかもしれない、なんて想定しながら生きることってむずかしくないか。

私は世の中の潮流に乗ったり、大衆に合わせたり、足並みを揃えたりするのが苦手だ。それは、価値観や好きなものもだし、例えば修学旅行のような団体行動も苦手だ。たぶん、私は特別になりたかった、だから、そうやって「合わせない」ことを選んでいたと思っていた。でも、とある人に私はそれは性格なんだと言われたし、どんなに合わせないことをしたからといって、特別になれないことがわかったから、特別になることをあきらめた。素直に「合わせない」自分を受け入れた。今までは、自分のよくわからない欲求を否定するために、自分を否定していた。特別になりたいために人と合わせないのではなく、それが私。

ケッコンというものについても、世の中の流れに抗うためにケッコンを否定しているのでもなく、コンプレックスから生まれる反対側にいる人たちに対する歪みでもなく。むかしはリスクヘッジとして、いつか欲しくなるときのために「頑張って、相手探して!」って思っていたのが過去の自分。「そんな無理せんくてよくない?」ってのが今の自分。でも、また変わるから、大丈夫だよ。

元カレがケッコンをした。↑に書いたように、ケッコンに対する羨望はない。カレと戻りたいわけでもない。なのに、友人からそれを聞いたときにぐらっとしたし、それをSNSを見にいけない。全然見なくてもいいんだけど。

そこで、私はパラレルワールドを考えた。もし、カレと付き合っていて、順調にことが進んでいたら。

「だから、別れてよかったとは思わないけど、この選択をとってこの人生でよかったと思えてるから、よかった。」付き合ってうまくいっていたら、あの人と仲良くならなかったから、あの場所にいってなくて、そしたら、あの人と会ってなかったから、今ここに住んでないし働いていないかも。すべてそういう選択の積み重ねで、もちろん、いつか後悔するかもしれないんだけれど、一点でも一瞬でも「よかった」と思えたなら、それでよかったんだよ。いちいち肯定しながら生きていこ。

でも、その肯定をひとに見せびらかすのは、なんかちがう。世の中にはたくさん、そういうものがある。そして、気づいていたら、自分の中に蓄積されていて、ストレスになっていたりする。それで、私はInstagramの表舞台から消えた。実は、Facebookもそこそこミュートにしている。だから、今日、これを書こうかも悩んだ。もちろん、地球上の全員にいやな気持にしないコンテンツなんてないけれど。幸せなことは自分の中にとどめていても幸せです。なので、私は、誰かではなく、未来の自分に「私は今幸せです」と伝えるために、記し続ける。今ちゃんと選んだことを記しておけば、将来の私が後悔したときも納得してくれると、希望を残しておくことならできるかもしれない。

ここに書いた内容は去年や一昨年の私が知ったらびっくりして、変わったんだね、今の私は変わっていくことが怖いよ、っていうとおもう。変わっていくと、今までの私と誰かのつながりも消えてしまうんじゃないかと思っていたから。でも、とてもありがたいことに、変わっていっても、私の近くにいてくれる人はたくさんいるよ。ありがとう。だから、変わる前提で生きてて、大丈夫。

じゃあ、変えたくないものはなんだろうかと考えたときに、きっと、愛が変わらなければ、大丈夫なんじゃないかと思った。愛ってなんなんだろうね。

あとね、最近思うのは、忘れることは尊い。人は忘れるから生きていけるんだけど、だって記憶が残ってたら羞恥心で生きていけないと思う。でも、忘れていくと関係も事実も薄くなっていく気がして、自分の存在も透明に近づいていく。それも怖かった。だから、私は過去の記憶をたくさん背負って、いろんなものを紡いできた。でも、最近ある程度忘れないと、動けなくなったり、自分を否定したり、目の前にいる人を自分の記憶でつくりだしたりするから、今だけを見て生きていきたい。でも、その人と私の関係の積み重ねは大切にしたいから、なんでもバランスですね。

「愛を以って、刹那的に生きる」が、しばらく私のテーマになりそうです。

ちょっとでも、あなたの心にひっかかったら。