最高峰のソプラノ、ナタリー・デセイ様、2022年11月の来日コンサートに行ってきました
史上最強の歌姫のひとり、ナタリー・デセイのコンサートに行ってきました。この秋は、春風亭一之輔といい、デセイといい、30過ぎて遊びを覚えた優等生エリートのごとくのこっぱずかしいハマり方をしていてby YouTube、何ともはやでござる。Life is short!! きっと同様の文化アイテムがまだまだたくさんあるんだろうなぁ。
デセイ様は、生外れた歌唱テクと演技力のふたつを兼ね備えた天才でして、すでにオペラからはリタイヤしていますが、ピアニスト(この男フィリップ・カサールも大注目。粋と音色の美しさ!)と組んで歌手活動を絶賛継続中。
世界の一流歌手の勝負所は、今や弱音ハイトーンのニュアンス表現でして、弱音歌唱技術はマイクロフォンの浸透と同時に発生した、ジャズのクルーナー、アストラッド・ジルベルトなどのボサノヴァを知ってしまった聴衆の耳を受けての進化だと思うのですが、彼女のソレはケタ違いな音質で、ロングトーンの部分はひょっとすると、ホーミー(モンゴルの伝統的歌唱)のダブルトーンヴォイスのようにも聞こえる。
なんといいますか、彼女のか細くクリアなメロディーラインの上に音響の層ができる感じなんですよ。人間の声というものが、声楽の唱法の中で、どこまで表現できる「楽器」なのかということを考えさせられるコンサートでもありました。
デセイの全盛期を知っている人は、「もっと凄かった」と言うのでしょうが、そりゃ、どのジャンルも共通のプロファンの紋切り型だよww。劣化はあたりまえ、しかし、晩年の歌手が持つ魅力はポップス方面に多数顕在していて、とりわけ、彼女の現在は、声の劣化を逆にひとつの「味」ととらえ、そこにテクの方を寄り添わせるという方向で高度に別ステージを実現している。バーブラ・ストライサンドやトニー・ベネットと同様です。
帰宅後、とある若いソプラノのCDを聞いたのですが、残念ながら「声楽の型どおりの唱法をワタクシはマスターしました」という体の時代遅れな発表会風でした。デセイ的なテクニックはすでに存在していると思うのですが、そういうことが教育の現場におりてきていないんでしょうね。
日本語のポップスも収録されているのですが、全く声楽の歌い方を外さないことに唖然アンド憮然。ちなみに、デセイはミシェル・ルグランのアルバムを出していますが、そこでは伸びやかにポップス流の歌唱を披露しています。
さて、今回最も驚いたのが、その弱音での歌い出し。自分で声を出してみれば分かるのですが、ハァ〜、と声は歌い出しに必ず起点のアクセントがかかる。しかし、デセイ様のはそこが電子音のように均一なのです。たとえるならば、ポルシェなどは、静止から、初動→トップに加速する感度がもの凄く高いのですが、そんな感じ。まるで森の中の鳥のように「突如、出現する声」なのですよ。
プログラムもよく考えられていて、休憩前はオペラ『フィガロの結婚』のアリアを中心にしたモーツァルト三昧。シンプルでチャーミング、それゆえに楽しく歌ってしまえばそれなりに聞こえるアリアにもの凄い、表現ニュアンスを加えてくる。彼女はデコルテがバッサリ空いたドレスを着ていたのですが、オペラグラスで凝視すると特に弱音時に、鎖骨下の筋肉に相当な力が入っていることがよく分かりました。現役を続けるために、もの凄い努力をしているんでしょうね。
後半は現在、女優として活躍しているデセイの面目躍如なプログラム。プーランクの『モンテカルロの女』。これ『闇金ウシジマ君』に出てくるパチンコ狂いの老婆を髣髴させる、コクトーの詩が秀逸なのですが、カジノの享楽の場と孤独に引き裂かれる女を歌うデセイの有り様、目の動きは、ほとんど、映画『壊れゆく女』ジーナーローランズに匹敵。来年、シャンソンをいじる機会があるので、この曲は確定だな。ドビュッシーの『メリザンド』も圧巻。ドラマティックも上手いのよ。
コンサートのアフターは、お仕事。今日、日本に来たばかりの、ルクセンブルクのピアニスト、フランチェスコ・トリスターノと飲み打ち合わせ。彼はエレクトロのアルバムを出すぐらいのクラブカルチャー刷り込み済の希有なクラシック演奏家で、今はまだ詳しいことが言えないのですが、再来年に彼とガッツリ組んで面白い企画をプロデュースします。口ひげを讃えた彼は、イイ感じにジゴロ感がでてますな。
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