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サルトルの「嘔吐」を読んだら懐かしい感覚を思い出した

実存主義という言葉が気になってサルトルにたどり着き、処女作である「嘔吐」を読んだ。

この本の主人公のロカンタンはフランスのブーヴィル(架空の街)に暮らす30歳の青年。仕事はしていないが、金利収入がある高等遊民なので日がな一日歴史の研究をしている。
かつては世界中を旅して刺激的な「冒険」を繰り返していた。「冒険」というのは殴り合いの喧嘩や旅先での情事など「自分の人生が稀に見る貴重な質を帯びる瞬間」のことで、以前は冒険に執着していたが今では冷めてしまっている(生きる糧をそういう瞬間に置きたくなる気持ちは共感できる)。そんな彼が日常のふとした瞬間に湧き起こる嘔吐感に気づくところから物語は始まる。狂気の前触れのような嘔吐感の正体に迫っていくのが「嘔吐」の全体のストーリーだ。

すべての存在には説明がつかないという感覚

物語が中盤に差し掛かった辺りで、ロカンタンは「目の前に存在するあらゆるものが何によっても説明できないこと」と嘔吐感が関連していることに気づく。例えば電車の座席は座席にする目的で作られたから座席と呼ばれているけど、個々の存在としてみればすべてが名付けようのない<物>であること。嘔吐に出てくる他の例でいうとマロニエの木も人間もすべて<物>として「存在している」ということに気づく。名前から開放された<物>はグロテスクで頑固。我々は名付けようのない<物>に囲まれている。うーんうまく説明しづらいけど感覚的にはなんとなく分かるような・・・

子供の頃ってこういう感覚で満たされた気がする

で本題。記号としての抽象的な言葉をまだ覚えてない子供の頃って常に目の前の<物>と向き合ってたような気がして懐かしい感覚を思い出した。家といえば自分の家。木といえばよく行く公園に生えてるやつ。時々ぼーっと手のひらを見つめてたのだけど、これは自分が存在している感覚を掴むためだったのかもしれない。
一方でロカンタンが嘔吐感を感じることから分かるように、<物>と向き合って存在を自覚するのは不快な感覚で、自分を取り囲むもの全てに名前を覚えようとするのは生理的な欲求なのだろう。そもそも「嘔吐」に出会ったのも実存主義という未知のものが自分の前に現れたことがきっかけだ。理解した気になれば存在を意識する必要もなくなる。好奇心は「存在」に蓋をしたい気持ちを含んでいるのかもしれない。

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