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わたしは、やさしい世界に浸かりたい。

私はよく、「優しいね」と言われる。
私の文章を読み、「優しそう」と書かれる日もある。


「道を聞かれる人は、優しいオーラが出ている」と過去に何かで読んだ。まさに、私はよく道を聞かれる。

京都に引っ越してからは、外国人にも何度か道を聞かれた。時には河原町で、時には阪急電車のなかで。英語はほぼ話せないが、なんとか相手の質問に答えて「Oh!Thanks!」が聞けたときは私もうれしかった。

オーラなのか何なのか、散歩中の犬がよく近寄ってくる時期もあった。


種明かしをすると、私は優しく振る舞うように努めている。

なるべく、人にも、動物にも、物にも優しくするよう心がけている。今使っている消しゴムはボロボロだが、大切に優しく扱い、使い始めて5年近く経つ。(カドケシのはずなのに、角がない。)



でも、そのせいか、理不尽な目にも度々遭った。

「優しさにつけ込む人がいる」と、早くも小学生の頃に思い知った。


私は小学生の頃ほとんど話さず、友達と呼べる人はいなかった。いじめに遭ったが、誰かの悪口や馬鹿にするようなことは言わなかった。学校では、極力優しく接した。


クラスメイトのある女の子が、そんな私に話しかけてくれるようになり、仲良くなった。

ある日その子から「お金がないから貸してほしい」と言われ、つらそうだったので仕方なく貸した。細かくは覚えていないが、500円ほどだったと思う。

よく覚えているのは、貸したお金が戻らなかったことだ。それなのに、何度も「貸してほしい」と言ってくる。決して私の家は裕福ではなかったし、さすがに無理で断った。


やがて距離を置かれ、私はまた1人になった。

仲良くしていたのは仮の姿で、「そうか、別に私と友達になりたいわけじゃなかったんだ」とむなしさだけが残った。



優しく振る舞うと、日々穏やかに過ごせる。
優しく振る舞うと、私も周りも平和に過ごせる。


なぜ、優しくない人がいるんだろう?

なぜ、優しさを踏みにじる人がいるんだろう?


私は、優しい世界に浸かりたいのに。


そもそも、「優しい・優しさ」とは何か?

優しい・優しさについて、書籍やネットでいろんな人がいろんな意見を書いている。ネットの記事をいくつか読み、納得もした。noteにも、優しさに関する記事がいくつもある。

「優しい」「優しさ」でGoogle検索すると、

・優しい人の特徴とは?
・優しさとは何か?
・本当の優しさとは何か?

などの結果が出てくる。


「優しさとは何か?」と聞かれたら、私は相手を受け入れ、真摯に思うことだと答える。

相手を受け入れて真摯に思うと、相手にも自分にも優しくできる。



相手を受け入れ、真摯に思う。

つまり私の定義だと、優しくするには2つの要素を満たさなければならない。


①相手を受け入れる

相手を受け入れるには、心の余裕が必要だ。“相手を受け入れるため”の、心の余裕がいる。

私の場合、〆切に追われているとき、体調が悪いときは心の余裕がない。自分のことでいっぱいだからだ。心に余裕がないため、誰かのことを考える余裕がなく、時々冷たくしてしまう。

心に余裕があれば、相手を受け入れ、いろんなことを考えられる。


②真摯に思う

真摯とは簡単に説明すると、真面目という意味だ。

つまり、真摯に思うとは、真面目に考えるとも言い換えられる。何を真面目に考えるか?それは相手。相手について真面目に考える。

相手について真面目に考えると、相手の立場になって物事を考えられるようになる。相手の立場になって考えるには、とにかく想像力が大事だ。

・こうしたら喜ぶんじゃないか?
・今日は疲れているみたいだから、そっとしておこう

これらは、相手の立場になって想像すると自然に出てくる。

相手と過ごす時間に比例し、だんだんと

・何をすれば喜ぶか?
・何をすると悲しむか?

が分かってくる。

喜ぶことをすれば、相手はきっとうれしい。悲しむことを避ければ、相手はつらい思いをせずに済む。



心に余裕を持つ

優しいとは「相手を受け入れ、真摯に思うこと」と答えた。「相手を受け入れるには、心の余裕が必要」とも書いた。

私は、心に余裕を持つように意識している。なるべく優しくいたいからだ。



私は喧嘩腰の人や上から目線の人に出会うと、つい言い返したくなる。心のどこかにヤンキーがいて、「そんな言い方はないでしょ」と指摘したり、否定しそうになったりする。

カッとなると心に余裕がなくなり、相手を受け入れるのは難しい。

だから言葉や行動にトゲがある人とは仲良くしないし、上から目線で悪口ばかりツイートする人はミュートにする。



つまり、優しくいたいなら、優しくない人には近づかないのがコツだ。

自分がいくら「優しくいたい」と思っても、周りがそうではなかったら、優しくいるのは難しい。

優しくない人と一緒にいると、何か言い返しても、言い返さなくても、どこかピリピリする。これでは心に余裕がなくなってしまう。


ずっと優しくいるには、心の余裕をずっと持ち続ける必要がある。一時的ではなく、「ずっと」はなかなか大変だ。

誰と仕事するか?誰と付き合うか?誰と暮らすか?誰をフォローするか?
心に余裕を持つため、これらはとても大事なのだ。

自分に優しくない人と、無理して仲良くする必要はない。たとえ血がつながった家族であっても。



自分の感情にフタをしない

優しくいるためには、自分の感情にフタをしないのも大切だ。うれしいときは素直に「うれしい」と言う。悲しいときはしっかり悲しむ。

感情にフタをして、悲しいことやつらいことを溜め込んでしまうと、心に余裕がなくなる。自分のことでいっぱいになり、優しくいるのは難しい。

感情にフタをし続けていると、フタは取れにくくなり、我慢が癖になる。



プライベートでつらい出来事があっても、仕事中は無理して笑わなければいけないときもあるだろう。私も過去に似た経験をした。


昔の私はつらいことを誰にも話さず、伝えず、ひたすら溜め込んでいた。溜め込んで我慢するのが癖になっていた。

感情に無理矢理フタをしていたある日、ついに仕事で失敗した。


喫茶店で働いていたとき、約5年半付き合った恋人と別れた。別れた当時私は20代後半で、その人といつか結婚するだろうと思っていた。
実際、結婚の話もしていた。相手の浮気で別れ、「この5年半は何だったんだろう?」と虚無感に襲われた。

でも、私はその事実を隠し、いつも通り喫茶店で働いた。自分のことを進んで話すタイプではないので、普段から恋人について話していなかった(聞かれたら答える。)

「別れました」と話して変に気を遣わせるのは嫌だったし、仕事に集中して気を紛らわせたかった。


現実は寝不足で、食事もあまり取れなかった。今も将来も暗黒に感じ、自殺しようと思った夜もある。

ついにある日、過呼吸で体がしびれて動けず、仕事を休んだ。連絡したとき、恋人と別れた事実を初めて打ち明けた。職場の方は「しばらくゆっくり休んでね」と優しかった。

数日休み、結果的に迷惑をかけてしまったことを心の底から反省した。気を遣わせまいという考えはつまり、自分を偽り、無理して働いていたのだ。

別れて1人で過ごしていた夜、喪失感と虚無感で、感情はないに等しかった。
「無理していた」と気づいた途端、別れた後に初めて泣いた。感情のフタが外れた勢いからか、涙はとめどなく流れた。



この、泣きじゃくった日を境に、私は少しずつ感情のフタをずらした。

悲しいことやつらいことは、思い切って出すようにしている。

夫に話したり、ネットの海に書いたり。そうすると少し気がラクになり、だんだん心に余裕が出てくる。優しい言葉は、とてもありがたい。優しくされると、自然と私も優しくなれる。


悲しいことやつらいことを溜め込んでいた頃は、それらが心を占めていて、余裕がなかったように思う。感情を素直に出していると心が安定し、優しくいられる日が増えた。

(喜ぶときに喜び、悲しむときに悲しんでいると、周りの人も感情を表に出すようになる…気がする。)



優しさには強さも必要

学生の頃はとても狭い世界で生きていた。年を重ねるにつれ、いろんな人がいると知る。

優しい人
優しくない人
優しそうに見えて、本当は優しくない人
優しくなさそうに見えて、実は優しい人

いろんな人がいる。


『優しそうに見えて、本当は優しくない人』はとてもタチが悪い。優しそうに私に近づき「お金を貸してほしい」とせがんだ、あの子のように。



優しさには、強さも必要だ。

他人に流されず、自分の軸を持つ強さ。
しなやかで、折れない、竹のような強さ。

強さの定義は難しいが、私は自分を見失わないことだと思う。

たとえば、「嫌だ」と言う場合、まずは「嫌だと思う自分の軸」がどこかにある。そのような軸を失わずにいることは強さであり、優しさだと思う。



誰にでも優しく接するのは、優しさとは違う。

私は非常識な人には優しくしない。たとえば、ポイ捨てする人や列に割り込む人とは仲良くなれないし、内心めちゃくちゃ怒っている。

ポイ捨てする人や列に割り込む人は、自分のことしか考えていない。ポイ捨てに関しては、地球も真摯に思っていない。

周り(相手)のことなんて考えていないから、結局のところ、非常識な人たちは優しくないのだ。


列に割り込んできた人においそれと譲るのは、優しさでも何でもない。それは非常識な人にとっての甘えだ。

周りを気にせずポイ捨てしたり、列に割り込んだりするのは、強さでも何でもない。

「ゴミ箱に捨ててください」「最後尾に並んでください」と言える強さが大事で、そう言える人はきっと優しいと思う。



カピバラのような、優しい世界にいたい

突然だが、「カピバラ」という動物をご存知だろうか?

世界最大のネズミで、体長は1mほど。マヌケそうな、愛嬌のある顔が特徴の動物だ。

私はカピバラが大好きで、動物園にカピバラがいると長時間見てしまう。マイペースに食べたり眠ったりし、冬には温泉に浸かる。


カピバラは、他の動物が近づいても物怖じしない。鳥やウサギ、犬、猫など、いろんな動物を受け入れる。もちろん人間も。

(「カピバラ 動物」で画像検索すると、亀や猫やリスザルなど、いろんな動物がカピバラに寄り添う画像を見られる。)



私が考える優しさは、相手を受け入れ、真摯に思うこと。

カピバラを見ていると、受け入れ具合がずば抜けている。
真摯に思っている…かは分からないが、あまり攻撃的ではないのは事実だろう。頭の上に鳥が乗っても追い払わないし、亀に囲まれてもジッとしている。

カピバラは違う動物とも近距離で寄り添っている。優しさのかたまりで、理想の世界に近い。



このnoteは2月に書き始めた。書こうと思ったきっかけは、複数ある。そのきっかけのどれもが非常識で、相手や周りを考えていない出来事ばかりだ。

つらい思いをしている旨のnoteも読んだ。しかも優しい人ばかり。しかも1人ではない。


私に影響力などなく、文章を書いたところで世の中が変わるなんて思っていない。誰かを変えたいとも思わない。

優しい人が損をするような、傷つくような、悲しむような、そんな世界が広がってほしくないと、ただただ願っている。

「優しくない人はダサい」の概念が広がる世の中になってほしい。


私は、少しでも長く、少しでも多くの人と、優しい世界に浸かりたい。






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