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三島由紀夫氏はなぜ自決したのか?『文化防衛論』から読み解く ≪その2≫

★『豊饒の海』なぞの結末を解明する⇒ YouTube 動画 です。note記事は⇒.アラヤ識
★『文化防衛論』の、YouTube動画⇒【】【】【. まとめと結論
この記事とは編集が異なって、正確な論理よりも、全体をつかむために、この記事の後半で述べる、新たな視点は省いた動画です。
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前回に引きつづき『文化防衛論』を、ちくま文庫2006のページを示しながら、読解します。
⇧『金閣寺』第三章、修行僧が死の残虐に、魅せられるシーン。雪晴れのもと、娼婦を踏めと命令する米兵、その「彼のひろい肩幅のうしろには、雪をいただいた金閣がかがやき、洗われたように青い冬空が潤んでいた。」
この三島の一文に、まったくふさわしい画像は、平凡社 世界大百科事典1972「京都」の項カラー図版です。
『金閣寺』のこのシーンを、「を絶たれた」はただの残虐に堕した、と解釈するのがこの論です。

中は、そのシーンを描くとき三島がイメージした歌舞伎「祇園祭礼信仰記 金閣寺」 の 尾上菊之助による雪姫。 (松竹 平成24年1月 新橋演舞場)
いかにも三島好みの、危険で妖艶な美。敗戦して、女性の美が虐げられた、という文学による糾弾だ!と稿を改めて『金閣寺』で述べます。

》で、他人のせいにする「陰謀論」が、政府や官僚へのルサンチマン【71頁】によって、社会を醜くしながらカネを儲け、党利党略をあさっている、と述べました。「陰謀論」がはびこるのは、日本が文化を、自ら確信する理想を見失って、他人とくらべる生き方をしているから、です。
日本文化を「菊と刀」の永遠の連環と三島は言い、さらにつっこんで、文化の具体像を述べています。

ちくま文庫のページを【頁】で、その他の書籍は【〇】で示します。

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★1 精神が結晶した形〈フォルム〉。行動すべてが文化。・・

日本文化は、ずっと後にはモノとして遺されても、生きた文化としてはフォルム)である。モノでなく、体現される前の無形の精神でもない。精神が透かし見られる透明な結晶体である。日本文化は、芸術のみでなく、日本人の行動、そして行動の形つまり様式も、すべて包括する。茶道、華道、歌舞伎の形が精神、魂を見せ、その形が次代の若い芸術家に、自由に創造させる手本となる。フォルムがフォルムを呼び、たえず自由を喚起する。【42-43頁】

⇩世紀の立女形がまだ19歳のとき、三島は「椿説弓張月」で源為朝の悲劇を描いて、その正室に抜擢し、評論「玉三郎君のこと」で芸と生き方を絶賛した。ポスターは横尾忠則による。中は、大名跡となられて羽ばたかせた新たな美の形「シネマ歌舞伎」の「二人藤娘」(松竹 2015) 。

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そんな「菊」優雅の形と同じく、「刀」武士道は行動の形で、倫理の美化、美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。【42-43頁】

★2 オリジナルとコピーを区別しない・・

伊勢神宮は、持統帝から1330年、式年遷宮を20年ごとに62回、重ねて来た。みずみずしく木肌を光らせた桧、その新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルになる。それまでの社殿は、コピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。ヨーロッパの石造りの神殿とは異なった、あらたな木による形が、日本の魂を透かしている。

このような文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない、という天皇制の特質と見合っている。【43-45頁】

かくて日本文化は、生命の連続した、自由な創造主体である。形を受けつぐ。そのとき魂は生きて、受けつぐ主体に連続する。魂が主体と一体になるとき、美は自由に創造され、その形を、また次代が受けつぐ。生死を超えて魂が生きる。
⇩平成25年の式年遷宮、祭列が進む新たなオリジナルが、日神に照らされて映える。(伊勢神宮のHPより)

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★3 文化の再帰性、全体性、主体性・・・

日本文化は、再帰する。源氏物語は、宮廷の美、のみならず西鶴が色欲をめぐる浮世草子「好色一代男」にパロディー化して、元禄の世を活写したから、源氏名、などと遊女の名にまで用いられて、現代もその言葉はのこる。

そんな、高貴から卑俗まで。そんな全体性をもって文化は再帰する。再び帰って、新たな創造の母胎となって連続する。これこそが伝統と人の呼ぶものだ。【45-46頁】その言葉のとおり、言行一致、源氏物語を再帰させて、三島由紀夫は「金閣寺」「春の雪」を書いた。

源氏物語の柏木は、若き貴公子で蹴鞠と龍笛の名手である。それを内翻足と尺八に変更して、三島は「金閣寺」を書いた。また「春の雪」のストーリーは、高貴な女性その人でなく、召使いとの攻防、恋による死、それをしのぶ友の姿、源氏物語の「若菜の下」からの柏木そのものだ。
源氏物語が「金閣寺」柏木のモデル、は、村木佐和子【「三島由紀夫『金閣寺』-美の〈日本〉的表象」お茶の水女子大学 教育・研究成果コレクション TeaPot、2006.9.20、pp183-184】。

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源氏物語絵巻、悲恋のきっかけとなる仔猫のシーン。猫は、黒い犬に変更されて「金閣寺」では修行僧の破滅を導き、「春の雪」の冒頭では、滝に流れて落ちる死への宿命を暗示した。⇩三十六歌仙絵の小大君(大和文華館)。ともにWikipedia。

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★4 日本文化は、美を頂点とする・・

「菊と刀」菊の優雅と、刀、強さの美。三島は言う。日本文化における美は、あたかも西欧文化の文化的ヒエラルヒーの頂点に、理念が戴かれるように、理念に匹敵するほど極度に具体的な或るものとして存在している。【『小説家の休暇』新潮文庫 昭和57.114頁】

美は、具体的な形なのだ。文学は、日本語の使用において、フォルムとしての日本文化を形成する。【42-43頁】

その美は、神話の古事記に起源する。神話を、非科学的な作り話として読むなら、ニーチェから何も学んでいない。太古の日本人の目に、世界はどう映ったか描かれた理想とは何か世界像は、世界の姿のみならず、世界はどうあるべきか理想をも語っている。ニーチェは神話を「圧縮された世界像」と言った。【塩屋竹男訳『悲劇の誕生』ちくま学芸文庫1993.187頁】

古事記のスサノオが、初めて和歌を詠んで、古今和歌集に紀貫之が「あらがねの地にしては、素戔嗚尊(スサノオのミコト)よりぞおこりける」と記して以来、和歌は、みやびの現実化、美の具現化とされた。【「日本文学小史」、前掲『小説家の休暇』の278頁】日本の美は、こうして発祥して文化、日本人の生き方を千年にわたって形づくっている。

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⇧月岡芳年、スサノオのヤマタノオロチ退治。国史画帖大和桜、省文社 昭和10。背中から暴風をおこして援護するのは、稲を持つから櫛稲田姫のミコト、京都祇園の八坂神社、東御座に祀られる女神か?と思われます。
上畳本 三十六歌仙絵 紀貫之(五島美術館)。

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★5 文化の、まるごとの全体性が連続する・・

美を頂点とする日本文化。その武士道は、美によって倫理、つまり生き方を判断すると、前回に見た。その逆に、倫理美を判断したなら、どうなるか西鶴が「好色一代男」を書いた20年後に、源氏物語を「誨淫(かいいん)の書」だと儒学者が非難した。【46頁】

源氏物語から西鶴まで、宮廷のみやびから卑俗まで、そんな文化の全体性連続を、江戸幕府の儒学者が、絶とうとした。その愚かさを、文化には改良も進歩も不可能だと、そもそも文化に修正ありえないと、三島は言う。【47頁】

進歩して弁証法によって革命になる。そんな唯物史観、定められたレールを走る歴史観が、共産主義に妄信された。ちがう今を生きる主体が、作品、あるいは行動様式による、その時、その時の、最上の成果へ身を挺する、その主体性こそが、歴史を創造する。歴史にレールなど無い。【47頁】

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⇧源氏物語絵巻「宿木」の一部分。物語が執筆された石山寺(琵琶湖レイクオーツカ(一社)石山観光協会)。⇩紫式部は月の名所、石山寺に参籠して、琵琶湖から瀬田川に映える満月を望み、《》で見る「須磨」の月のシーンから物語を起草したという。(石山寺HP) 伝土佐光信 石山寺縁起絵巻1497。絵巻の画像はいずれもWikipedia。

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日本文化を、この主体性が生かす。再帰させた美の、まるごとの全体性の頂点へ、主体が挺身するから日本文化は生きる。まるごと容認せず、源氏物語を改良する愚。それは、子供の善悪、安全な美だ。

19世紀までの哲学では、真善美の三つが普遍の価値とされ、美は善の倫理と混同されていた。カントが「判断力批判」によって、美を心が自らの力で創る、と明らかにして、すでに外界にある善悪と区別した。そしてボードレールが「悪の華」で、危険な美、悪の美を文学にした。

カントは西鶴より100年後、「悪の華」はさらに80年後だ。そんな文化進歩とは隔絶して、日本文化は、源氏物語から西鶴まで、まるごとの全体性再帰する。子供の善悪など超えた西鶴には、強靭なリアリズムがある。【47.33頁】

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⇧『好色一代男』挿絵(岩波文庫 表紙)。ボードレール (1821~67)、(Invitation@Baudelaire)『悪の華』の詩作は19~21歳ごろ。『判断力批判』の三島所蔵本と同一の版(坂田德男訳 鐵塔書院 昭和7.ヤフオク)

この、まるごと全体性を、再帰させないと連続は絶たれる。
江戸と明治文学は切れたなどとメチャクチャ評価によって、西鶴のデコラティブ〈装飾が過多〉な、連想作用の豊富な美は、ずいぶんひどい目にあってると三島は言った。【『源泉の感情』河出文庫2006、105頁】

★6 文化は主体性に、見られて見返す・・

文化を守る主体、守られる文化。ふたつの美が一体となって、理想は達成できる。主体のこの確信が、文化を守り、伝統は受けつがれる。守る主体が、文化を見ると、見返される。

三島はこれを八咫鏡(やたのかがみ)の秘義と言った。【78頁】古事記で、天照大神が岩戸隠れをされたとき、神々は神楽(かぐら)、宴をした。その卑俗きわまる舞いと哄笑が、大神に八咫鏡を見させた。

高貴たるべき神楽、卑俗な舞いへの哄笑。その全体性。生命を連続させるエロティシズム。高天原をゆらすこの笑いは何か「あやし」と大神は鏡を見、鏡に見返された。

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