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三島由紀夫氏はなぜ自決したのか?『豊饒の海』《2》アラヤ識とは何か

なぞの結末、その解明は記事《1》
この《2》では、『豊饒の海』の全巻に、若い四人の主人公を連続させる、阿頼耶識(アラヤしき) の輪廻転生(りんねてんしょう) を解明します。
※自決への論理=文化防衛論 と述べる動画は123

三島氏が話した、いずれニルヴァーナ(涅槃) の中に、入ってしまう小説、また、まぁ第四巻の終りまで読んで頂くとその意図が、解って頂けるんじゃないか。まさにその通り、氏の快心の結末を、いま私たちは見ていると《1》で述べました。
その結末を支えるのが、阿頼耶識です。

第四巻ではね、もぅ何も説明なしにね、ポツポツゝゝエピソードが羅列されるんです。
そう現象的にあらわれる第四巻っていうのはね、第三巻の前半が前提にならなきゃ展開できないんです。
僕は、しょうがないから読者にここでね、目つぶってもらって第三巻の前半でもうギューギュウ思弁的なことを聞いてもらって、それを一度忘れてもらって、第四巻に入ってからは本当のカタストロフ
(大破局) まで、すぅっと行ってもらおうという気があった。【前出.古林尚との対談中公文庫
この氏の言葉、ギューギュウ思弁的に説かれる阿頼耶識が、いかに鋭くて深いか、明らかにして参ります。

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⇧自決の年、3月から9月まで大阪で万国博覧会が開催された。
太陽の塔、現在の姿 (日刊工業新聞)。シンボルマーク(まんだらけ通販)。幻想にきらめく夜景(ビーチリゾート氏)。テーマは 「人類の進歩と調和」。科学技術によって人は進歩して、平和を築くと信じられた。
いま私たちは理想を追求しているか?ただモノとカネ、だけじゃないのか。
⇧⇧最上段の右は、RobertHandinglmages
『暁の寺』新潮文庫 昭和60で【頁】を示し、その他の文献は【〇】で書名を記します

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★1 空の第三巻、残念無念のヒビ割れた世界

三島は話します。
現世の人間がこれが極致だと思って考えたことが、三巻で空観のほうへ、空のほうへ溶け込まされちゃう。その残念無念というのは、書いてる人間も残念無念
第三巻で、空がいちど生じたら、それから後はもう全部、現実世界というのはヒビが入ってしまう。現実世界の崩壊と、戦後世界の空白とが、これもまた次元が違いますけれども、それが一種のメタファー(隠喩)になるというふうに書いて行きたかったんです。
武田泰淳との対談全集では40巻
現代の、モノとカネだけの社会は、世界ヒビが入って、崩壊している。
一巻二巻の「菊と刀」の美が、崩壊した三巻は、作者にとっても残念無念
それは、般若心経の(くう) による世界観、空観だと三島は言うのです。

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第一巻でヒロインが剃髪を決意したとき早くも、法相宗の根本法典である唯識三十頌(ゆいしき・・じゅ) と般若心経を諳(そら) んじていたと記されます。【357頁.昭和62で】

釈尊の入滅から 550年の後、西暦では紀元 0年ごろ、釈尊の教えを体現しようと、自利利他一体に挑んで、大乗仏教が興ります。そして3世紀、
が、竜樹(ナーガールジュナ) によって説かれます。
この、(み) る。禅を修行し、瞑想を体験して般若波羅蜜多をつかむ。
般若波羅蜜多(はんにゃはらみった) とは、無分別の叡智です。
【中村元ら訳注『般若心経 金剛般若経』岩波文庫17頁。以下<中村>

無分別、と世間では、愚かさを言うが、仏教では逆です。分別は、あれとこれを区別して、二項対立させる。
無分別の叡智、般若波羅蜜多は、対立させず、己れと対象、主観と客観を区別せず、一体のまま智(し) る。
動画の【第3回】で見た、キリスト教による神と人、自と他の二項対立とは対極の、この日本文化。

「罪を憎んで人を憎まず」「盗人にも三分の理」「情けは人のためならず」
そう、自と他を、二項対立させる境界線に挑んで、をめざす文化は、この般若波羅蜜多から発祥したのです。
▼世間での知る知恵英知 と対比させて、仏教の語を智る智慧叡智と記します▲<中村17頁>
⇩中央が、竜樹(Wikimedia)。バラモン出身で、大乗仏教の礎を築いた。

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そして四世紀、唯識論、唯(た) だ識だけがあると、仏教哲学は最高峰の阿頼耶識へと昇りつめます。
知識ではない、の体験。禅を修行して体験した、空観の理論化です。
般若心経は、大乗仏教の真髄であり、唯識の骨格とされます。
【横山紘一『唯識の哲学』平楽寺書店 39-40頁267-268頁。以下<横山>

★2 般若心経とは?

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
観自在菩薩は、般若波羅蜜多(はんにゃはらみった) の智慧を深く修行しておられた時、五蘊(ごおん) は皆、だと、照らされるのをご覧になった。
このが人々に、一切の苦厄を度(わた) って超えさせる!と確信されたのです<中村11頁>

観自在菩薩とは観音さまで、菩薩は、自利即利他(さきに見た、自利と利他の一体)  に挑んで、
世のため人のため尽す。釈尊がされた修行を、いま自らが実践している。
その菩薩がつかんだ、般若波羅蜜多智慧(ちえ)。
無分別の叡智。すべてを一体のまま、智る。対立させる分別、ではない。
⇩十一面観音は、そのお顔をすべての衆生に向けて、智慧へと導かれる。滋賀の向源寺.渡岸寺観音堂(右.長浜市:見所.部分)。観音像は、フォト蔵.北迫薫氏。

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五蘊(ごおん) とは、すぐ後の経文に説かれますが、
低い世俗が「客観的だと見ている物体の世界」です。
「モノとカネ、見える世界が全てだ」 と信じている、ニーチェがいう畜群世界。 ⇒記事《1》★6 で本多が言った「偶然は死んだ」から始まる世界】
そんな五蘊(ごおん) は皆、だとるとき、一切の苦厄を超越する叡智を、菩薩は確信されたのです。

★3 色即是空

舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是
舎利子(シャーリプトラ) よ。あなたは智慧で名だかい釈尊の高弟。
で、空は色。
色は即ち是(こ) れ空で、空は即ち是れ色。だと智るのです。
受想行識という心の働きも亦(また)、是(かく) の如くすべて空だと智るのです<中村13頁>

とは、心の現象。感知され、心に現象した物体。
受想行識は、感受・想像・心の行動・認識という、物体を感知する心の働き。
さきの五蘊は、受想行識プラス。感知 プラス 心の現象だ。そんな感知も、心の現象も、すべてなのです。

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とは、すべてだ。
私が世界を見るとき、目の前の机やペンや書籍や、物体が世界だ。そうではない。それは目や耳やが感知して、心に現象させた世界だ。
世界そのもの、背にした本棚や窓の外の樹々、海外にいる友人を、私は感知できない。
いま感知して心に現象する物体を、世界だと私は見ている。そうではない。

世界そのものは、感知できず、心に現象しない。
世界そのもの、がで、空とはすべてだ。一切はひとつの空だ。

自と他、主観と客観、精神と物体、ペンと机、そんな区別はない。
四十六億年前、地球が生れた時、すべてが一つだった。海と陸も、水と岩も、植物と動物も、私とあなたも、すべて一体だった。
それを分別して区別して、今こうして生きている。だが、もとは一つで、今も一つの宇宙だ。

分別せず、自と他、を区別せずに愛情をかけるとき、家族や隣人や同僚の、すべての人の喜びが私の喜びとなって、限りなく巨大になる。机もペンにも、心をかけたなら、山から切られた木も、机を使っていた祖父母も、ペンを作った人の仕事にも、感謝の心が胸に響く。

すべては、一つの空だ。私が見る世界は、空の一部、いや一部も全体も無いから、空そのものだ。見ている私も、見られる現象も、すべて空だ。
色即是空、心の現象を、空と観るとき、すべての喜びが私の心に満ちる。
空即是色、空が、私の心に現象する。この色を空と観じて、生きよう。

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⇧法隆寺にのこされた世界最古のサンスクリット語写本(Wikiwand)。
⇧⇧その上は、月面から見た地球(部分.NATIONAL GEOGRAPHIC)。

★4 否定のはて、空の涅槃へ

舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色聲香味觸法無眼界乃至無意識界
『舎利子よ。この世界はと、空のありさまを智るのです。空は、生れず滅せず、垢(あか) がつかず浄(きよ) めもなく、増えも減りもしない。
是(こ) の故(ゆえ) に、空の中には、心の現象は無い。受想行識という、心の働きも無い。眼耳鼻舌身識も無いから、色という現象も無く、声も香りも味も触感も無く、それらで法則のように意識される世界も無い。
眼が見る世界は無く、意識される世界は無いのです』<中村13頁>

眼耳鼻舌身識を、まとめて六識と呼ぶ。六識は、いつも心に意識される。意識できない無意識も心にあって、
第七識がマナ識、第八識がアラヤ識であり、その唯識論をすぐ後に見る。

何もかもを分別する知では、無分別の叡智を、般若波羅蜜多をつかめず、を智れない。だから、生れた、垢がついた、増えた、と分別するたび、その分別を打ち消す。

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無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提蕯埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想究竟涅槃
無明、つまり仏法がなくて迷う、という事は無い。また無明が尽きた悟りも無い。老いも死も無く、老いや死は尽きて無くなりもしない。苦集滅道という四諦(したい)、四つの真理は無い。だから四諦を知る事も、何かを得る事も、得られるものも無い。
こうして菩薩般若波羅蜜多に帰依するから、心に罣礙(けいげ)、ひっかかりが無い。だから恐怖は無い。一切の本末が転倒した夢想の迷いから遠く離れ、究竟の涅槃をめざすのです』<中村13頁>

⇧『春の雪』のヒロインが出家した尼寺のモデル、円照寺(左.Wikipedia.Misakubo氏.部分)。『宴のあと』に描かれる東大寺お水取り(中.じゃらん)。『金閣寺』第二章に描かれる南禅寺三門(右.TABI CHANNEL)。

★5 となえる者の、苦悩を否定する

無、無といったい何回、いま否定したかと数えても、意味は無い。
この経をとなえる時、菩薩が、私の声と一体に、苦悩を無と否定して下さる。意味はそこにある。

どんな者でも、まだ修行が浅い、まだ仏法に無明だと、そう心にひっかかって苦悩しながら、仏道を歩みつづける。この経で、まずそれが否定される。

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次々と無、無ととなえる声が、観自在菩薩と一つになって分別を否定するとき、老も死も、苦悩すべてを菩薩は否定して下さって、あたたかな智慧が心にしみ入る。
の体験へ、舎利子を、衆生すべてを観自在菩薩が導いて下さる。

の、すべてを包む巨大さが、大仏法身(ほっしん) とされた。その内で、私たちは生かされる。
分別せず、すべてに心をかける時、すべての感謝、喜びが私の、心に現象して、限りなく巨大になり、み仏の法身として私を包む。

。そこで苦悩は否定され、すべては喜びで、そのまま涅槃なのだ。
そう観るとき、釈尊の、大きな仏の法身の内に生かされる喜びが心に満ちる。【渡辺照宏『仏教』52,195頁】

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⇧左.奈良.東大寺の大仏、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。中.湘南線を見守る大船観音。右.『春の雪』に描かれた、鎌倉長谷の高徳院の大仏。左右はWikiwand、中はじゃらんより。
⇧⇧左.聖林寺の十一面観音(奈良体験)、「仁和寺と御室派のみほとけ展」の千手観音とお庭(じゃらん)。

★6 空は涅槃。だが人はそう感じない。

は、そのまま涅槃。そして色即是空、私のは、そのまま涅槃なのだが、そう感じられない。
はすべて一体なのに、なぜ人によって、心の現象は異なるのか?いや悩したり、涅槃だったりするのか?
それは、心の現象は、その人の心の投影であり、その人の、迷いがまったが投影されるからだ。<中村30頁>
無明
も、も、そんなが「客観的にある」のでなく、すべて私の心の投影なのだ。
その超克が、阿頼耶識唯識論であり、★8 で見る。

★7 そして、真言へ

三世諸佛依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等咒能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多咒
『過去・現在・未来の、三世の如来の、その内で私は生きる。般若波羅蜜多に帰するとき、はるかな世への道をやさしく拓いて下さり、すくいとって下さって、菩薩への道を示して下さる。
よって智るべし。般若波羅蜜多真言(マントラ)。
これは大神咒で大きな智慧の成就。大明咒で明らかな悟り。無上咒無等等咒、無上で無比の真言なのです。
一切の苦く、妄のないであるから、般若波羅蜜多くべし』

真言とは、まじないの言葉だ。
その言葉をとなえて、意味でなく、声に発声し日々そう発声するなら、
その日々が、般若波羅蜜多智慧によって観じられる。
すなわち、こう(じゅ) をいて(い) うべし』
即説咒曰掲帝(ぎゃてい) 掲帝(ぎゃてい) 般羅掲帝(はらぎゃてい) 般羅僧掲帝(はらそうぎゃてい) 菩提僧莎訶(ぼじそわか)
般若波羅蜜多心経

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⇧真言密教の世界観を示す、東寺の立体曼荼羅(東寺HP)。
真言は翻訳せず、となえられるが、翻訳すると『往ける者よ、往ける者よ。彼岸に往ける者よ、彼岸にまったく往ける者よ。悟りよ。幸あれ』。
『これが、叡智の完成である』<中村15頁>

★8 空から、阿頼耶識へ。本多の「世界は無」だった!

般若波羅蜜多が、ただ二項対立の境界線を論じるなら、構造主義の哲学と同じだ。仏教の、信仰として哲学で語れない祈りが、この真言にこもる。
信と知の一体である。信仰は、必ず宗教体験をともなう。
唯識論も、まずをつかむ般若波羅蜜多を体験し、その理論化に挑んだ。
は、大乗仏教の真髄であり、唯識の骨格である。<横山39-40,267-268頁>

心には、意識できない、無意識がある。さきの眼耳鼻舌身識、その六識の奥に、
第七識、末那識(マナしき) と第八識、阿頼耶識(アラヤしき) がある。
末那識は、自我の意識で、私の生命のエネルギーであり、動物としての欲望で私を動かす。そう自我に囚われるとき、自分と他人という区別は消えず、無分別の叡智、般若波羅蜜多への道はない。
しかし私の生命があるから、世に貢献する利他行、大乗仏教を実践できる。<横山188,193頁>

◆ではもし空観をつかんで、自我だけ末那識だけで生きたら、どうか?
さきに★6 で、その人の、心の現象は、その人のや迷いの(ごう) の投影だ、と見た。
すべてはだから、物体として見える世界は、心に現象するだけの影であり、その人のが投影されている。
暁の寺』に、三島はこう記した。
世界はすべて現象としての影にすぎず、認識の投影に他ならないから、世界は無であり、世界は存在しない
我欲だけの者にとって、世界は無、むなしいと三島は言うのだ。
⇩左.蹴鞠をする柏木(Wikipedia)。右.東寺HPより。

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そして我欲だけの者は、尊大倨傲(きょごう) に、世界を一つの美しい蹴鞠(けまり) のように自在に取扱おうとするだろう。【139頁.昭和60で】

これは蹴鞠の名手、源氏物語の柏木をモデルにした『金閣寺』の柏木だ。
般若心経で無分別の叡智をつかんでも、末那識だけ、我欲だけで生きる傲慢がすべてなら、
地球は自在に蹴鞠にされ、蹴ちらされる。そんな世界は無だ。第三巻『暁の寺』で欲にまみれ、第四巻で地獄めぐりをする本多の世界など、むなしい虚無だ。

末那識だけ、世界は無。そうではない!
我欲だけで、自在に蹴ちらされる地球が、この世界のすべて、の筈はない。
我欲でない、喜びを他と分かち合う自利即利他の世界がある。
世に貢献する喜び、生命の歓喜、生きる意味がある。悟りはあり、そして死の後にも、世界はある。だから、
第八識、無意識の最深、阿頼耶識がある。三島は言う。

世界は存在しなければならないのだ!
なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎
(もたら) されるからである。
第七識までがすべて世界を無であると云い、あるいは五蘊
(ごおん) (ことごと) く滅して死が訪れても、阿頼耶識があるかぎり、これによって世界は存在する。一切のものは阿頼耶識によって存し、阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。【139-140頁】

★9 阿頼耶識は、ある!

今の三島の言葉、さらっと書かれるが、一語一語が重要だ。
この言葉は、大乗アビダルマ経、そして『春の雪』のヒロインがまっさきに諳(そら) んじた唯識三十頌、そのまま。
経文が、そのまま文章にされている。

◆「阿頼耶識の基盤があればこそ、あらゆる迷いの生の境地があり、そして涅槃の獲得もあるだろう」大乗アビダルマ経である。
「あらゆる日常の分別、それがもたらす存在。それら一切の因であり、一切の種子(しゅうじ) を蔵(おさ) める阿頼耶識が、存在する」唯識三十頌だ。
【千葉公慈「秘義分別摂疏の考察(11)」150頁】⇩東寺HP。智慧の金剛界、慈悲の胎蔵界を一望させる曼荼羅。

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種子、蔵める、は唯識論の重大な概念だ。すぐ後に詳述する。

阿頼耶識、そして迷いの世界は、互いに因で果でもある。
三島は、阿頼耶識迷界相互に依為すると言った。【140頁】
六識 プラス 自我の末那識。七つの識による迷界の法は、すべて阿頼耶識(おさ) られる。その逆でもあって、互いに因となり果となる。
そう説く大乗アビダルマ経を、『暁の寺』が引く。
諸法は識において蔵せられ
識は法のおけること亦しかり
この二は互に因となり
またつねに互に果となる
 【141頁】
これが、もっとも難解とされる「同時更互因果」だ。

◆「同時更互因果の理
一瞬の空間に、因と果は同時に成立している。摂(しょう) 大乗論は、
燈火のたとえ(あし)の束のたとえ、でこれを説明する。
ロウソクの炎が燃え、芯が焼けてゆくのは、同時である。原因と結果が、互いに依存しあっている。
蘆の束を立てると、一本一本の蘆が立ち、束が立っている。束が立つのが因で、果として一本が立ち、その逆でもある。
このように因と果は依存し合って一瞬の空間、時間と空間が交わる一点に、阿頼耶識が、世界を顕現させている。【前掲.千葉公慈151-152頁】

★10 阿頼耶識とは、滝

第八識。意識できる六識の、奥にある自我の無意識、そのさらに奥深くに阿頼耶識が、滝として奔流しつづける。

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の前に人は立って、意識して滝を見ている。
意識できる、滝を落ちる一滴は、種子が芽をふいた一瞬だ。
植物のは、土の中にあって見えないが、芽をふき花を咲かせ、実をむすぶ可能性がある。
人の、すべての行いの種子(しゅうじ) が、今はまだ見えない可能性として、阿頼耶識の中に(おさ) められている。<横山103-105頁>
一瞬の意識を一滴の水に、連続したを流れ落ちるに、三島はたとえた。

種子が芽をふく一瞬。滝を落ちる水の一滴を、いま私が見る。
意識するは、その一滴の連続、芽をふいた一瞬種子の連続だ。滝の水が、川を流れて視界から消えると、種子は無意識へと戻る。
見えない無意識のうち、水は川から海に流れて雲になり、雨となって山々を潤し、渓谷をめぐるとにまた流れつき、
飛瀑(ひばく) となって流れ落ちる一瞬、また私の意識にのぼって種子が芽をふく。その一瞬、私の行動を決定する。

そんな一瞬の連続が、心に現象するだ。
は、阿頼耶識の流れが、種子を、水の一滴を無意識から意識へと廻(めぐ) らせる一瞬の連続だ。
、そして行いのすべてを、こうして阿頼耶識種子で決定している。

種子(しゅうじ) が、因果を生む
阿頼耶識は、すべてので、だ。
迷いの世界も、悟りの涅槃も、すべてをと観るのも、このによる。
一切のでもあり、(ごう) にしみ迷界ぬ、そんな阿頼耶識だ。
人の行いは、すべて阿頼耶識から生れる。阿頼耶識に、すべての行いを生む種子がある。

身体の行動だけでなく、心の意識も無意識も、すべてこの種子から生れる。
私たちは、昨日の出来事を思い出せる。それは、思い出す前には阿頼耶識に種子として、無意識にあった。思い出すとき、意識に芽をふく。
種子が芽をふいた一瞬、出来事を意識できる。そしてすぐ、種子は無意識へともどる。

◆心に現象する阿頼耶識種子が、芽をふいて意識できる一瞬、その連続の。三島は言う。
阿頼耶識は滅びることがない。滝のように、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に奔逸し激動しているのである。【139頁】
その識は滝のように絶えることなく白い飛沫を散らして流れている。つねに滝は目前に見えるが、一瞬一瞬の水が同じではない。水はたえず相続転起して、流動し、繁吹(しぶき) を上げているのである。【133頁】

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⇧和歌山の、桑の木の滝(新宮市観光協会)。大阪の、箕面の滝(日本の滝百選.hotman)
⇧⇧華厳の滝と、中禅寺湖。(左.RakutenTravel、右.日本の車窓から)

★11 滝は、一即一切、一切即一。

華厳の滝は、み仏の法身
奈良時代、国分寺が日本の 68の国々に建立されて、鎮護国家、み仏に護られて国が鎮まるよう祈念されて、都にその核として東大寺が荘厳された。
その華厳宗は、私は宇宙で宇宙は私、一即一切一切即一の祈りを貫く。
【渡辺照宏『日本の仏教』176頁】

大仏として仰がれる毘盧遮那仏が、悟りを説いて一歩一歩、高く衆生を導き、昇りつめると一気に天から地へ、巨体を降らせてこの地で衆生をまた救う。
華厳の滝が、その姿とされる。一歩一歩、悟りへ昇って一気に地に降る、それは華厳経の構成、そのものだ。【渡辺照弘『お経の話』162頁】

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東大寺のお水とりは、悔過(けか) の行法だ。ちをいあらためる、僧らの祈りが、衆生になりかわって宇宙を浄める。
僧らが祈る、その功徳は宇宙に廻(めぐ) って、一切の衆生を利する。自利即利他、である。
悔過の行法、その功徳の一滴一滴を一即一切、あまねく一切に及ぼし、衆生と宇宙に廻らせる。

◆『春の雪』冒頭の、『金閣寺』の阿頼耶識
滝に水を廻らせて、阿頼耶識種子を描いた三島は、滝の姿に、み仏の法身、すべて宇宙をつつむ巨大さ、一即一切、一切即一、功徳をすべてに廻らせる自利即利他を見ている。

すべては。ならば私は空。見られる滝も、見ている私も、すべては一体の空。ならば私は、滝を落ちる水の一滴でもある。
滝を見る、この私にとって、意識するこの今が、滝だ。
滝を見て、私が人生を思うとき、生れて死ぬまで、意識できる一生が滝だ。
滝を、世の中と見るなら、私は水の一滴で、私の汚さが滝を汚す。そして私の清浄は、必ずこの世を浄める。

一即一切一切即一
私は流れ落ちる水の一滴で、水の一すくいでもあり、私は滝であり、種子を廻らせる、水の循環の全体でもあり、私は阿頼耶識だ。
金閣寺』の柏木は言った。
個々の認識、おのおのの認識というものはない認識とは人間の海でもあり、人間の野原でもあり、人間一般の存在の様態なのだ。【第八章】
この認識を、阿頼耶識と読み変えれば、柏木の言う通りだ。

★12 因果とは、種子の薫習(くんじゅう)

空即是色を見たのが、私の、私の心の現象だった。
私の色は、私の種子に染められ、私の心と身体の行動に染まっている。
私の心に、他人と異なるが現象する原因は、私の行いにある。
すべて一体の阿頼耶識の、人が意識できるのはだけだ。私が見る滝は、他人が見る滝と異なる。私の意識に芽をふく種子は、他人とは異なった、私の行いに染まっている。

◆身体と心で、私が汚い行いをすれば、私の種子は汚く染められ、もっと汚い行動をすればもっと汚く多くの種子が染められて、汚れはてた醜い芽がぞろぞろとふく。
私の心は、私の行いの反映だ。舎利子が釈尊に学んだ、因果である。

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⇧左.『絵本 地獄』白仁成昭。右.茨城県 青龍寺の「熊野観心 十界曼荼羅」。
三島は、因果をこう言う。阿頼耶識には、あらゆる結果の種子が植えつけられるそれを、衣服にたきこめられた香の薫りが移るのにたとえて、種子薫習(しゅうじくんじゅう) と呼ぶのである。【134頁】

私の清浄な行いは種子を浄め、汚い行いは汚す。
私が他人を憎むと、種子に憎悪が染みついて、いつも憎めば大きな憎悪の種子がぞろぞろ増えて、ついに他人を殺害するだろう。
清浄な行いは種子を浄め、汚い行いは汚す。そうして種子が、私の心を決定する。
これは、種子を個人、を社会、と見てもその通りで、
清浄な個人が、あまねく社会を浄めもし、ひとつの悪の行いが、社会に悪をはびこらせる。

◆心を涅槃とする、正聞薫習(しょうもん・・)
仏教は、心身の清浄をめざす。現在の行いによって、将来はいかようにも変革できる。
己れの行いによる種子、その仏果は自らが刈らねばならぬ。
だが無明によって、気づかぬままに他人を傷つけ、他人を妬み嫉んで、心の種子を汚しもする。私はどう生きたら心身を浄め、生きる意味のある充実した日々を送れるのか。
仏教は、知性による世界の認識ではなく、意志による生き方だ。
どう生きるか、その誓願を釈尊にあてて立て、師の導きによって自らの力で実現する、仏教とはその実践だ。<横山146頁>

善悪を分別すると、それに執着(しゅうぢゃく) してしまう。無分別の叡智般若波羅蜜多によって、自らの種子を清浄にする。分別の善悪でなく、清浄の一点をめざす。
右「仁和寺と御室派のみほとけ展」⇩

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まず釈尊の教えを正しく聞き、それを深層の無意識にたたきこみ、エネルギーとして阿頼耶識に植えつける。そのエネルギーを、正聞(しょうもん)薫習種子という。
正聞薫習とは、禅であり、師について禅を修行して、師の教えを正聞、正しく聞き、姿勢を正して坐って六識末那識をつき抜けて、超越して、阿頼耶識を観じる。第八識、最深の
阿頼耶識に釈尊の教えをたたきこみ種子を浄めて、仏性を観じる。法身への帰一、であり、そこから釈尊が行われた自利即利他を、自らが実践するのだ。<横山147.151頁>

◆そして、涅槃
般若波羅蜜多無分別の叡智は、涅槃へのアプローチだ。
涅槃を得る、とは、私の心に現象する涅槃とする、いや、が涅槃だったから、我が心を空と、仏陀の法身、万物をつつむ毘盧舎那仏、宇宙の精神と一体にする、だ。
知性や学問でなく、日々の生き方を利他行とする、その実践。
仏陀と一体になる。これを密教では即身成仏と呼び、これが輪廻からの解脱なのだ。

★13 留意すべきこと

ここまで述べた阿頼耶識は、中村元 紀野一義 校注『般若心経 金剛般若経』および横山紘一『唯識の哲学』に、力の限り正確に拠りながら、表現をやや変更させて頂いております。
その変更は、空で述べた「心を、愛情をかけたなら」という、仏教を信仰する見地からの変更です。

◆文学は、信仰じゃない
この変更は、三島文学とは異質です。三島は言います。
僕の中では、空を支える情熱なんてないのですよね。信仰者じゃないから。武田泰淳との対談
そして三島は、信仰を近代文学に持ちこむ事を、厳しく禁じます。
信仰の知的理解を、藝術作品にするなら、失敗する。
信仰における一歩後退と、藝術における一歩後退との重複だ。なぜなら、
神を信じる、あるひは信じないことと、知的理解とは次元が違うからだ。
【「小説的色彩論」評論全集Ⅰ巻490頁】中.Acfree ⇩

スクリーンショット (1173)

◆三島の、信仰者じゃない阿頼耶識とは
近代文学として、三島は阿頼耶識をどう描いたか?
とされて『春の雪』で黒い犬を死なせ、それを指摘したヒロインの優雅が清顕を怖れさせた。『奔馬』の英雄への転生を示した、三輪山の三光の滝。『暁の寺』でインドを訪れた本多の目を搏(う) った、アジャンタの滝が、やがて彼の運命を変える。
そんなは 「恒に転ずること暴流のごとし」である。【三巻133-134頁】

霊魂を否定する仏教は、いったい何が転生すると言うのか?
この重大な問いに、三島は答えます。
「我」と「魂」とを否定した仏教は、輪廻転生の「主体」をどう理論づけるのか?何が生死に輪廻し浄土に往生するのか?
阿頼耶識自体
が、輪廻転生の主体であり、その動力であるのだ。
【同132,134頁】
輪廻転生を、するのも、させるのも、阿頼耶識。一切即一なのです。

そして三島は、種子薫習を説くにとどめて【134頁】、★12で見た『正聞薫習種子』に触れない。『正聞薫習』こそ、信仰者情熱がこもる『禅の祈り』だから、です。

すると三島に文学とされた阿頼耶識は、動力が強調され、の祈りが絶たれた、の滝。つまり『宿命』と呼ぶべきかと存じます。

◆三島由紀夫は、阿頼耶識を信じたのか?
自決のとき、バルコニーから演説した三島は「七生報国」と墨書された鉢巻きを締めていました。
この記事ですべてを述べる余裕が無いのですが、
三島氏が信じたのは阿頼耶識と、中江藤樹による陽明学太虚であった、
と私は確信しています。

仏教哲学の最高峰、阿頼耶識をきわめ、武士の哲学たる陽明学を実現し、
「菊と刀」の永遠の連環』この信念を、世界の永遠の芸術として樹立する。
三島氏の「七生報国」は、それだったと確信しております。

まだまだ言葉足らずですが、皆様からご感想、ご意見を頂いて、もっともっと深めて参る所存です。

記事《1》『天人五衰』なぞの結末。それを支える空と阿頼耶識、本多の世界は無だ!を渾身で明かして参りました。
おつきあい頂いて、深謝いたします。ありがとうございました。





令和の日本に平和と幸福を築く、三島先生のメッセージを解明したく存じます。続きをご覧頂き、コメント頂いたご意見、ご指摘の点から、三島文学を深めてゆく所存です。